11.長崎土産(前)
「やだ、耕兄様でもそんな風に慌てることあるのね」
お宇乃は淹れ直した熱い茶を口元に運びながら、小さく笑った。
「落ち着いて、耕兄様。お父っつぁんと耕兄様は本当によく似ていらっしゃるわ。血がつながっていないのに、実の親子みたい」
「どういうことです」
「お父っつぁんも、さっきの耕兄様と同じようなことをおっしゃったの。お父っつぁんが耕兄様にあたしとの縁組を持ち掛けたら、兄様にはしがらみがあるだろうって。否とは言えないだろうけど、それは不憫だよって。内々に耕兄様に聞いて、うんって言ってもらってから、お父っつぁんのところに持ってきなさい。無理強いはいけないよって」
耕太郎は、今度は目の奥のあたりがつんと痛んだ気がして、思わず瞬きした。
「だから、耕兄様には、平松屋を継いで、あたしじゃないかわいいお嫁さんを貰う代わりに、あたしっていう小姑がしつこくお店に居残るのを我慢するか、あたしをお嫁さんにするか、選んでもらわなくちゃいけないのよ。おとっつぁんは、耕兄様が誰と夫婦になろうと、もう、耕兄様にお店を継がせるつもりですからね」
「……とんでもない分かれ道ですね」
身の振り方の一大事を話しているはずなのに、思わず吹き出してしまった。この明るくてぱっとまわりを笑顔にしてしまう才では、お宇乃に一生敵わない気がする。
「お宇乃さん、長崎土産はお菓子だけなのって文句を言いなさったでしょう」
「うん。ああ、あれが子どもっぽかったのかなあ。耕兄様も子どもっぽい娘はお嫌い?」
ちらっと上目遣いで伺われて、耕太郎は慌てて顔の前で手を振った。まだまだ幼いと油断していると、こういう顔をする。心の臓に悪い。
「左様なことはありません。実は、土産を一つ、求めていたのですよ」
耕太郎は肌身離さず持ち歩いている懐紙入れから、細長くて薄い紙包みを取り出してお宇乃の前に置いた。
「お宇乃さんにお似合いだろうと思って、つい、後先を考えずに」
「開けてみていい?」
耕太郎がうなずくのを待って、お宇乃は包みを開いた。中から滑り出てきたのは、銀細工の平打ちのかんざしだった。満月を模した、黄みがかった真珠がひとつはめ込まれた下で、二羽のうさぎが仲睦まじく踊っている意匠だ。
「きれい……」
ほうっと、お宇乃がため息をつく。
「でも、どうして今まで?」
「買い求めたところまではよかったのですが。同じ平松屋の中と言っても、手代の手前にとって、お宇乃さんは、二親を亡くした手前を引き取ってかわいがってくださった、大恩ある旦那様の娘御です。こうした飾り物は、行く末を誓い合った想い人どうしで贈るものではないかと気が付いたとき、奉公人の身分で、主家の娘御に、なんて図々しい買い物をしてしまったのか、と、己の思い上がりが怖くなりました」
「そんな……」
お宇乃は小さく口元を押さえた。
「帰ってきてみれば、お宇乃さんは清順様との縁談の真っ最中です。こんなものを出せば、お宇乃さんが周りからいらぬ勘ぐりを受ける、と存じました。捨ててしまおうかとも思ったのですが、それも忍びなく、こうして、誰にも見つからぬようにずっと持ってまいったのです」
「でも、あたしは縁談は嫌だって言ったわ。それからだったら、別によくない?」
「よくありませんよ。御家同士の話です。お宇乃さんのお立場と同じでも、涙を呑んでお嫁入りする方はいくらでもいらっしゃいましょう」
「そう言えば、そうね」
「手前が旦那様に加勢して、こうして七重様を花嫁に送り出したのは、それが天の定めた筋合いだと思ったからです。何も私利私欲のためではございません。それでも、手前がお宇乃さんに、その」
耕太郎は言葉を選びかねて一瞬絶句したが、観念して続けた。
「懸想しているということになれば、手前が調っていたはずの縁組に横やりをいれて、旦那様に悪知恵を吹き込み、お宇乃さんを横取りした、お店の乗っ取りを謀ったということになってしまいましょう。それでは、平松屋ののれんに傷がつくと存じました。お宇乃さんはともかく、手前の気持ちは嘘ではない。見る人が見れば察してしまったでしょう。そうすれば、他の部分まで悪く信じる人は少なくないものです」
「……耕兄様は心配性ね」
「人の噂は、商家にとっては何よりも恐ろしいものです」
「そうね。でも、お店の中でも、このご町内にも、取引先のお店でも、耕兄様のことを悪く言う人はいないわ。他所様で悪く言う人がいたって、それを打ち消してくれる人もいるはずよ」
「恐れ入ります」
やっかみ交じりの人の噂とは、そんな単純にはゆかぬものだ、と肌身で知っている耕太郎ではあったが、お宇乃を失望させたくなくてうなずいた。本当に、お宇乃の言う通りの、真っすぐで裏表のない世の中だったら、どんなにすっきり気持ちが良いことか。
「何より、ご家老の広野様も、玄順おじ様も、清兄様も、耕兄様が自分のためにしたことではないってわかっているでしょ」
「それはどうかわかりません」
耕太郎は苦笑した。
「今度のこと、全て、表に立って収めてくださったのは旦那様ですからね。旦那様のお顔に免じてお目こぼしをいただいただけなのやもしれませぬ。手前も、清順様も、まだまだ若輩者。多くの物事を見聞きしてこられた旦那様方の目からは、ほんのひよっこに見えましょう」
耕太郎は、前々日の夜のことを思い返していた。
お店の仕事を終えてから、与兵衛は耕太郎をこっそり呼び、祝言の場での段取りを確かめた後で、清順の様子を見に行くように言いつけたのだ。
『どうもね、ああいう優しい気性の方は、思いつめると怖いから。早まったことだけはしないように含めてくれないかい』
耕太郎は玄順に知られぬよう、密かに裏口から清順を訪ねた。
『耕太郎です』
忍び声で障子の外から声を掛けると、くぐもった声で一言、帰れ、と言う。
『何言ってんですか、今さら。若先生がどれだけしおれた顔をしているか見物に来たんです』
気心の知れた相手である。軽口を叩いて、構わず障子の内側に滑り込んだ。
中の光景に、ぎょっとした。写本をしていたはずの文机は壁際に追いやられ、押入れの前に大きな行李が引き出されている。慌てて隠そうとした清順の身体の陰から、木綿物の粗末な着物や、笠が二つ、ちらりと見えた。
『何も言うな。お前にこれ以上迷惑は掛けられん。幼なじみのよしみを感じてくれるなら、ここで見たことは全て忘れてくれ』
頭を下げる清順の前に、耕太郎も膝をついた。
『今となっては、こちらは町方、そちらはお武家。そういう言葉遣いをするように、と旦那様から言われてきてましたがね。そっちこそ、幼なじみのよしみを感じてくれるんなら、今日この時かぎりは見逃してくれますか』
切り口上で言って、友人をにらみつける。
『お前は馬鹿か。七重さんを平松屋からかどわかして逃げ出すつもりか』
図星をさされたように目をそらす清順に、畳みかけた。
『無為無策で、誰にも言わずにそんなことをして、どうする気だ』
『それでも、某には身につけた医術がある。どうにか江戸までたどり着けば、身を隠しても暮らしていくよすがもあろうと』
きっと耕太郎をにらみ返した清順の目に、もはや、迷いの色はなかった。
『父上の言う、武家の体面とやらを保つのであれば、某が腹を切るよりほかない。だが、これまで医は仁術と教えられ、手を尽くして他人様の命を救う術を学んできた、その力をお役に立てるためにやってきたのに、己の妻と子どもを守れずして、何が仁術か。七重は誰が何と言おうと、もう、某の妻だと思うておる。であれば、生き恥を晒してでも逃げるのみ』
『生き恥だとか、そんなことを責めるつもりはないよ。頓珍漢なことを言うな』
友人の言葉に安堵を覚えつつ、それを隠して耕太郎は言った。内心、七重を連れて心中するとか間抜けなことを言ったら、殴り倒してやろうと思っていた。そこまでの馬鹿ではなくて、本当に良かった。
『最後の最後、それしかなくなったら、そうするのもいいさ。だが、うちの旦那様は、まだ諦めちゃいないぞ。ぎりぎりまで待ってくれ。何がどうなるとは言えぬ。だが、与兵衛旦那のことは、信じてくれ』
それから、与兵衛から託された布の袋を懐から出して、清順の目の前に置いた。
『これは旦那様からだ。一足早いですがお祝いです、とだけ言付かってきた」
清順は受け取って中をちらりと見て、目を見開いて耕太郎を見返した。














