10.祝いのあと
「それじゃあ、何もかも首尾よくいったのね?」
祝言の翌日、声を弾ませるお宇乃に、耕太郎はうなずいた。
人払いした平松屋の座敷である。
前夜、遅くに帰ってきた与兵衛と耕太郎を、お宇乃は寝ずに待っていた。つつがなく収まるべきように収まりました、とだけは伝えたものの、二人とも疲れ果てていて説明どころではなかったのだ。
与兵衛は一日お店の仕事を休んだため、明けて翌日は忙しい。改めて詳しい話を聞きたい、とお宇乃に呼ばれて、耕太郎が一部始終を語ったところだった。
「玄順様はぐうの音も出ませんでしたし、広野様ご夫妻がすっかり七重様に肩入れしてくださったので、安心だと思います」
「よかった」
わがことのようにしみじみと言って、お宇乃は手を胸の前で組み合わせた。
「その場で、世間様には平松屋の娘はもう、お宇乃で通っているので、花嫁を七重に改名したのだから、家に残してきた娘のほうを今後お宇乃と呼びます、と旦那様が宣言してきました。ですから、お宇乃さんは、変わりなく今のお名前を名乗っていただいてようございますよ」
「わかった。それも一安心ね。新しい名前では、覚えるのに少し手間取りそうですもの。宇乃という名前を一つ差し上げて、お姉様が幸せになるんなら、もちろん差し上げて悔いはなかったけれど」
お宇乃は菓子鉢に並べた祝い菓子の饅頭をつまんで、一口かじってから、ふと首を傾げた。
「でも、私は今までもお客様やご親戚と付き合ってきたから、私が実際には高階様にお嫁に行かなかったって言うのは、知ってる人には丸わかりよ。それでも『お宇乃が嫁に行って七重に名を変えた。長崎から引き取った娘を新しくお宇乃と呼ぶ』なんて、ややこしいお芝居、これからもしなくちゃいけないわけ?」
「そんな必要はございません」
耕太郎は笑った。
「広野様に申し上げたお話はあくまで建前でございます。内実がどうであるのか、広野様はきちんとあの場で察してくださいました。七重様が身元も人柄もしっかりした方で、平松屋が今後も里代わりとなって援助していく、お宇乃さんを嫁にやったのと何も変わらない、というこちらの言い分を暗に受け取ってくださったということですね」
「玄順おじ様もってこと?」
「もちろんでございます」
「じゃあ、世間様は?」
「その辺のことを細かくつつきまわすのは野暮というものです。それに、広野様が呑んで不問にしてくださった以上、この件で大っぴらに何か苦情を申す者があれば、この祝言に関わった者、つまりあの座敷にいたすべての者を敵に回すということになります。さすがに、そんなことをしても無益です。何より、誰に何を言われようが、清順様がけっして七重様を離縁なさいませんでしょうから」
「じゃあ、すべて、めでたしめでたしね」
「左様ですね。お宇乃さんは玉の輿を逃してしまいましたけれど」
耕太郎が軽口をたたくと、お宇乃はぷうとふくれた。
「嫌だって言ったじゃない」
「手前も旦那様に申しました。お武家ほど、しがらみが多くないのが町方のいいところなのではないか、と。結局、お宇乃さんが納得なさらなければうまくいきません。次の縁談は、お宇乃さんに先にこっそりお尋ねになって、うんと言っていただいてからがよいのではないでしょうか、と」
「そうね。また、あたしがわがままを言って願掛け騒ぎでも起こしたら、お父つぁんだってたまらないでしょうから」
すねたように言って、お宇乃は二つ目の饅頭に手を伸ばし、耕太郎にも勧めた。小さいお宇乃の口でも二口ほどで食べきれてしまう小ぶりの饅頭は、しっかりした甘さなのにべたつかず、後に引く味だった。
「大体、耕兄様はあたしを子ども扱いしすぎるわ。今度のことでは、ずいぶんお役に立てたでしょう?」
「もちろんです。お宇乃さんがいらっしゃらなければ、こうも手際よくはおさまらなかったでしょう」
「もっとも、あたしがいなければ、平松屋がこんな厄介ごとに巻き込まれることはなかったでしょうけれど」
お宇乃はさばさばした口調で言う。それはそうだが、そもそも、この厄介ごとはまったくお宇乃のせいではない。
答えあぐねて耕太郎が目を白黒させていると、お宇乃は若い娘らしくくすくすと笑った。
「もう、こんなのはこりごりよ。だから、あたし、昨夜、これだけは聞いてくださいなって、お父っつぁんにお願いしたの。もう、早いところ身の振り方を決めてしまいたいって」
「早いところって?」
ちくりと胸のどこかが痛むような気がしたが、耕太郎は問うた。お宇乃だったらどこに行ってもやっていける。器量も気立てもよいのだ、本人がその気になれば引く手数多に違いない。
まだまだ幼い、と思っていたいのは、耕太郎だけなのだろう。もしかしたら、与兵衛も同じかもしれないが。
「お父っつぁんは耕兄様を養子にして、跡取りにする気なんでしょ。だったら、あたしは耕兄様のお内儀さんになるのがいいなあってお願いしたの」
「へっ?」
予想外の返事に、耕太郎は飲みかけていた茶にむせてしまった。
「申し訳ございません」
慌てて湯呑を置き、とっさに口元を押さえた懐の手ぬぐいを畳みなおして片付けていると、お宇乃は愉快そうに笑った。
「だって、耕兄様だったら、あたしが困ったときも、お父っつあんが困ったときも、きっと、いの一番に助けてくれるでしょ。あたしもお父っつぁんも、耕兄様が困ったときには、一番に助けに行きたいもの。だったら、身内になるのが一番じゃない? 嫁入りの話が持ち上がって、平松屋がどうなるんだろうって考えたときに、お店は耕兄様がいるなら安心だって思ったけど、あたしがそこにいないのはすごくすごく、つまんないなって思ったのよね」
「それにしたって、気が早すぎませんか。もっとしっかり考えませんと」
「お父っつぁんとおんなじこと言うのね。やっぱり子ども扱いしてるわ」
ぷくっと頬をふくらませるさまは、子どもそのものである。
「大体、あたしの願掛け、もう叶ったから言うけど、最初は全然違ったんだから」
「最初は?」
「そうよ。別に、はじめっから、縁組をなかったことにしてくださいなんてお願いしたわけじゃなかったのよ」
つんと鼻を上げて、お宇乃はそっぽを向いた。そう言われれば、耕太郎も問わずにはいられなかった。
「何だったのですか」
「耕兄様が、無事に帰ってきますようにって。長崎からの船の連絡が途絶えたって聞いて、あたしがどれだけ心配したと思っているの、耕兄様は? 遅れに遅れた船がどうにかたどり着いたって、大坂からのお文がお父っつぁんに届くまで、生きた心地もしなかったわ。もうずっと、おっ母さんの数珠を握りしめて、心の中でお念仏を唱えていたのよ」
お宇乃は長火鉢ににじり寄り、冷めてもいない茶を淹れかえた。茶殻を捨てる手もとばかりを見ながら言う。
「耕兄様のついでに、清兄様もご無事に戻られますようにって、ちょこっとだけはお願いしたけど、その時、ああ、こんなんで清兄様のところにお嫁に行くのは清兄様にも悪いなあって気がついちゃったの」
それで、二人が無事だと分かってからも、今度は縁談が破談になるよう願って願掛けを続けたのだ、とぽつりとつけ加えた。
その横顔は、いつになく大人びていて、耕太郎は知らず口ごもってしまった。
「いや、でもその……」
次の瞬間、はたと気が付いて、今度は早口になってしまう。
「待ってください、お宇乃さん。今さっき、もう旦那様にお願いしたっておっしゃいました? まさかそれを、本当に旦那様におっしゃたんで? 旦那様は何と」














