1.突然の来訪者
「とにかく、めでたい。こうして、うちの息子も、耕太郎君も無事に帰藩したのは何よりでござった」
謹厳実直で知られる藩医、高階玄順が昼日中から酒を飲むのは、平生では考えられぬことだった。年に一度もないのではないか。
「本当にようございました。船が時化で遅れて、連絡が途絶えたときにはどうなることかと思いましたが」
差し向かいで、銚子一本だけの羽目はずしに付き合うのは、藩邸出入りで、高階家とも縁の深い薬種問屋、平松屋の主・与兵衛である。
「長崎まで勉学に参ったのだから、今後はその知識を大いに藩の御用に役立てるのだぞ。清順も、耕太郎君ももう二十二。もう十分、務めを果たさねばならぬ歳だ。清順は一足先に身を固めるが、耕太郎君も与兵衛どのの養子になれば、縁組を考えねばな。所帯を持ってこそ一人前と言うではないか。内助の功を得てこそ、多きに藩のお役に立てようぞ」
耕太郎は顔を伏せて、は、と低く返事をしつつ、将来の義父となる与兵衛の斜め後ろからそっと、正面に座っている友人にして、高階家の跡取りである清順の様子を目だけでうかがった。
長崎では、この何かと口うるさい親父殿から少し離れたこともあって、のびのびと振舞っていたものだが、帰藩してみれば、本人不在のところですっかり祝言の支度が整っている。
それを彼がどう思っているのか、耕太郎にもつかみかねた。幸せいっぱいというわけではなさそうだ、ということは辛うじて察せられたが。
「清順は果報者だ。平松屋の一人娘を嫁に取らせてもらえるのだからな。平松屋のお宇乃さんといえば、城下小町の噂も名高い。まだ十六だが読み書きもそろばんも堪能で、評判の才媛だ。こんないい嫁御は、鐘を叩いて探しても見つかるまいよ。下手な士分の家から気位ばかり高い娘を迎えるより、よほどいい」
「恐れ入ります」
与兵衛は畳に両手をついて頭を下げた。
来月の祝言の打合せと称して父親同士が設けた席に、遊学を終えてようやく実家に戻った清順が同席させられた格好である。耕太郎は、平松屋の手代として与兵衛の供をしてきたのだった。
与兵衛夫妻には一人娘のお宇乃しかいない。その妻も三年前にみまかってしまった。
お宇乃の身の振り方はさておき、お店の後を任せられる人間を早くから育てたいと願った与兵衛は、今は亡き友人の忘れ形見である耕太郎を、十になるやならずやの頃から引き取って、薬種問屋の仕事を一から仕込んでくれた。耕太郎にとっては父も同然の恩人である。だが、今の身分はまだ、養子縁組もならず、店の手代のままだった。お宇乃の行末が決まってからでもいい、というのが、のんびり与兵衛の口癖だったのだ。
耕太郎としても、堅苦しいのは疲れる。使用人の身分は気楽でよい、と、供待ち部屋で待とうと思ったら、上機嫌の高階玄順に、座敷について入るよう呼び入れられてしまった。
長崎遊学の折、父である玄順たっての頼みもあり、半ば清順の供をする格好で同行した耕太郎を、玄順としても、目に掛けてやりたいと思ってくれているようだった。
玄順はせっかちであるが、武士の心得に篤く、身内とみとめた者にはあくまで気前のいい人間である。
「それで、祝言のことだが、知り合いで盆栽をよくする御仁がおってな、いま、ちょうどいい枝振りのものがあると申すのだ。縁起物でもあることだし、松を一鉢、座敷誂えに加えてはどうかと」
玄順が膝の前に書付を広げた。
「その祝言のことなのですが、高階様――」
与兵衛が膝を進めて、おずおずと切り出しかけた瞬間のことだった。
「どうぞ、一目で構いません。清順さまに会わせてくださいませ」
表口の方から響いた、場違いな高い声に、初老の男二人は怪訝そうに手を止めた。
耕太郎の目の前で、友人の顔色が、一瞬、唐渡りの紙のように白くなった。信じられない、というように、大きく目を見開く。
「痴れものめ。帰れ帰れ! かようなたわごと、誰が信じるものか」
「嘘ではございません。証が必要なら、いただいたかんざしもございます。お文も。いくらでもお調べくださいませ。どうか、お目にかかるだけでよいのです。お取次ぎくださいませ!」
しんとした部屋に、表からの言い争う声のみが響く。
思いがけない出来事に、この部屋の中で、もっとも部外者であるはずの耕太郎は、息を詰めて見守った。清順の膝がわずかに浮いたのが見えた。
「ええ、しつこいやつめ。どこの物乞い女か知らんが、若先生が来月にご祝言を控えた御身だとも知らんのか、恥知らずな!」
「ご祝言だなんて、そんな! だって、私のお腹には、清順様とのお子が――――!」
表戸に詰めていた若い衆の厳しい叱責に、若い女の泣き崩れる声が重なる。清順の顔に、ぱっと赤みがさした。
清順ががばと立ち上がり、玄関へと大声をあげる。
「待て、その女性に乱暴はならん!」
矢も盾も止まらず駆け出す背を、耕太郎は当惑と同時に、どこか深いところで何かの符合がかちりとかみ合ったような奇妙な安堵を感じつつ、追った。
来るべきものが、ついに来た。
なぜか、そんな言葉が浮かんだ。
第一話にお付き合いくださいまして、ありがとうございます!
引き続き、物語の結末まで見届けていただければ幸いです。
江戸時代の時代考証に関してはまだまだ勉強中の身分です。
お気づきのことなどあれば、メッセージなどでこそっと教えていただければうれしいです。














