侯爵家のいたって平和ないつもの食卓~堅物侯爵は後妻に事細かに指示をする~
1/7(火)SQEXノベルより書籍化します!
イラストはすらだまみ先生です。
書影は活動報告とXにて公開しています。
頑張ってたくさん加筆しましたので、侯爵家の食卓で皆様のお越しをお待ちしております<(_ _)>
たっぷりと水を含んだ筆に、ぽちょん、と一滴だけ水色を落として描いた。そんな水彩画のような澄んだ青空の下、甲高い子供の笑い声が響いていた。
「あははは! アンネさまー! いくよー!」
「ミヒャエルくーん、上手でーす。そーれ」
迷路のような垣根を掻き分け、やっとたどり着いたそこには、息子のミヒャエルとやけに見覚えのある赤毛のご令嬢がサッカーをしていた。ご令嬢はスカートを膝まで持ち上げ、ジャンピングボレーをキメている。
空高く上がったボールを、ミヒャエルが走って追いかけてゆく。あの子が全力疾走するところなんて初めて見た。いや、あんな大きな笑い声を聞いたのだって初めてだ。
アルノーはその光景を目の当たりにして、茫然と立ち尽くしていた。
垣根の向こうから、次々と人がやって来るのに気付いた令嬢が振り返る。
「えっ……? ゼーバルト侯爵様……?」
「っ……! 危ない!」
「んぎゃっ」
誰かの叫び声にあわてて体勢を戻した令嬢の顔面に、ミヒャエルの蹴ったボールが、ばいーん、と激しい音を立てて直撃した。
「アンネリーエ嬢ぉぉーー!」
スカートを掴んでいた両手が宙に舞い、青空に美しい弧を描いた令嬢のしなやかな体が芝生に叩きつけられた。
目を覚ましてまっ先に見えたのは、自分のベッドの天蓋。あちゃー、戻って来ちゃったかー。アンネリーエは両手で顔を覆った。が、ずきっと鼻の頭が痛んで飛び起きた。
そうだ、ミヒャエルくんの蹴ったボールを顔で受け止めたんだった。
アンネリーエが起きたのに気付いた侍女が、あわてて部屋を飛び出して行くのが見えた。父と兄がすぐに部屋に駆け付ける。
「アンネリーエ、目が覚めたのか。頭を強く打っていたが、大丈夫か? 私のことがわかるか? おとーさんですよぉー」
「ええ、お父様。頭も体も平気よ。ちょっと鼻が痛いだけ」
「そうか、そうか。無事だったか。ボールが直撃していたが、元が元だからたいして顔には影響はないぞ。良かったな、アンネ」
「お兄様、私とあなたはそっくりなんですからね?」
軽口を叩きつつも、父と兄はホッと胸をなでおろした。アンネリーエはレディッシュブラウンの赤毛に優しそうな桃色の瞳をしたバーナー伯爵家の大切な娘だ。早くに病で母を亡くし、二人が男手だけで慈しんで育ててきた。
だからこそ、父は切ない表情を隠すことができない。それでも、伝えないわけにはいかなかった。重たい口をしぶしぶ開く。
「それで、ええと、アンネリーエ……。申し訳ないが、父さん、断ることができなかったんだよ」
はあ、と父がため息と共に肩を落とす。アンネリーエもまた、同じように肩を落とす。
「お前が遊んでいたお子さんは、偶然にもゼーバルト侯爵家のミヒャエル様だったんだ」
「はあ」
「いや、父さんも頑張って何とか断ろうとしたんだが、あちらが是非にでも進めたい、とおっしゃられてねえ。……すまないね」
「分かってるわ、お父様。うちが侯爵家の申し出を断ることなんてできないもの」
気まずそうに指で頬を掻いていた兄が、アンネリーエに憐れみの視線を向けた。
「父さんも、あれこれとお前の欠点を上げ連ねたんだが、侯爵様が別に関係ないって。お前の顔に傷を作った責任を取るって言って、さ……」
責任取るほどの顔じゃねーのにな、とつぶやくと、兄はさっとうつむいた。
「うん、こうなることは分かってたわ。所詮、無駄なあがきだったのよ」
アンネリーエはへらりと明るい笑顔を見せた。
「ちゃんと侯爵家にお嫁に行くから安心して。大丈夫、私は自分で幸せになれるから」
父と兄の眉がどんどん下がってゆく。そして二人はゆっくりと目を伏せた。
アンネリーエには婚約者がいた。
お相手は同じ年で幼馴染の伯爵家令息だった。しかし、貴族学校を卒業する18歳の時、突然婚約破棄を宣言されてしまった。幼馴染には、同級生の恋人がいたのだ。しかも3年の付き合いになるとか。学校では割と有名な話だったそうだが、のん気なアンネリーエは全く気が付かなった。
結婚したらそのうち愛が芽生えるものだろう、と考えていたアンネリーエは、婚約者には幼馴染としての情愛しか抱いていなかった。だから、父と兄は騒いだけれど、割とスムーズに婚約は破棄された。慰謝料も常識的な額をもらっただけだ。
婚約者の浮気に気付かなかった上に、あっさり捨てられたアンネリーエ。相手が有責ではあるけれど、なかなか次の婚約もまとまらずにもうすぐ20歳となってしまう。この国では、20歳を超えた令嬢は行き遅れだ。
父も兄も、かわいそうで可愛くてしかたのないアンネリーエを、一生この家で養っていこうと覚悟を決めたところで、国王陛下から縁談が持ち込まれてしまった。
「アルノー・ゼーバルト侯爵様……って、あの!? 私が!?」
「……ああ。まったく、バカにしている。アンネリーエはまだ19だというのに」
「でも、もうすぐ20歳よ、お父さん。在庫処分たたき売り間近よ」
「うるさい、まだ19だ! うちの19の未婚の娘に、子持ちの後妻になれとは……!」
アルノーは、次期宰相に決定している28歳の若き侯爵だ。
黄みがかった銀髪に琥珀色の瞳で、一見、冷たく見えるような静謐な印象の美丈夫だ。真面目な堅物で、笑顔どころか仕事以外の会話をしているところを見た人はいないという。
彼には兄がいた。しかし、数年前に馬車の事故で急死してしまった。妻子を残して。
兄の妻は、隣国の第二王女だった。政略結婚だったとはいえ、二人は非常に仲睦まじく暮らしていた。その頃、隣国は政局が不安定だった。未亡人となった兄の妻を子連れで帰すのは危険と判断し、そのまま弟であるアルノーと再婚となった。政略結婚ではよくある話だった。兄の息子ミヒャエルが3歳の時のことである。
当時アルノーには婚約者がいたが、事情が事情だっただけに、すんなりと婚約は解消された。未練一つ見せずに淡々と手続きするアルノーは、血の通わない冷血漢とささやかれた。
しかし、今度は妻が久々の里帰りでクーデターに巻き込まれ命を落としてしまったのだ。これがちょうど一年前。
次期宰相であるアルノーに後ろ盾がなくなってしまったことを、国王が危惧した。が、冷血漢と噂される上に子持ちのアルノーは、次期宰相で侯爵であっても条件が悪すぎた。相手がなかなか見つからない。
そこで、アンネリーエに白羽の矢が立ってしまったのだ。
バーナー伯爵領は西の国と隣接した、貿易の要であった。しかも、可愛いアンネリーエを一生養おうと奮起した父と兄のおかげで、非常に裕福だった。次期宰相の後ろ盾にぴったりだし、行き遅れの娘なら断ることもないだろう、という国王の安易な目論見である。
「お嫁に行くわ、なんて言ったものの、やっぱりあちらから断ってくれないかしら」
揺れる馬車の中で、アンネリーエは独り言ちた。
アルノーとの顔合わせのために、久々に王都へ向かっていた。婚約してから三か月も経っているのに、初めての顔合わせだ。実物の彼を見たのは、ボールが顔に直撃する直前の一瞬だけ。多忙である、という理由で顔合わせが延びに延び、やっと本日に至ったのである。
正直言って、侯爵夫人なんてアンネリーエには荷が重すぎる。公園で子供とサッカーをするくらいなのだ。社交界は苦手だ。
タイヤが音を立て、馬車が若干揺れた。約束のカフェに到着したのだ。
「ごきげんよう、侯爵様。たいへんお忙しい中、お招きありがとうございます」
アンネリーエはカフェの個室に入るなり、美しい礼をした。この三か月間、それなりに練習したのだ。若干の嫌味を混ぜて挨拶して印象を悪くするように試みたのだけれど、伝わったのか伝わらなかったのか、アルノーは返事もせずに頷いただけだった。
席につくと、紅茶とケーキがすぐに運ばれてくる。
「先日は息子が大変失礼した。怪我はもう大事無いだろうか」
アルノーが全く感情のこもっていない声で、しれっとそう尋ねた。
「ええ、この通り。アザもきれいに治りましたわ。ご心配なく」
アンネリーエが笑顔で鼻を指したが、アルノーは眉一つ動かすことなくじっとそれを見つめている。
「跡が残らなくて、良かった」
アルノーはそう言い、紅茶に口をつけた。そして、テーブルに視線を落としたまま続ける。
「婚約に関しては、一方的に進めてしまってすまなかった。あまり時間がなかったんだ。だから、手短に条件だけ先に伝えよう」
「じょ、条件?」
「私は夜会のようなものには出席しないので、侯爵夫人としての社交は気にしなくていい。衣食住は保証しよう。破産しない程度になら、好きなものを買うといい。君に求める役割は、息子ミヒャエルの母親。それだけだ」
「はは、おや」
アンネリーエが大きく瞬く。
「あの子が侯爵家を継ぐようになるまでの間だけで十分だ。支えになってやってくれれば、それでいい。無論、私の妻としての務めは必要ない。以上だ」
「はあ……」
アンネリーエは頬に手をあてて考える。
妻はいらない。つまり、ミヒャエルの乳母になれ、と彼は言っているのだ。
侯爵夫人という荷は重すぎる。しかし、乳母になるだけならいいかな、とアンネリーエは流されてしまった。
そもそもアンネリーエだって、若干の抵抗はしてみたのだ。
鞄に荷物を詰め、こっそり家を出た。思いつめて家出するほど嫌がっている、と噂になれば、婚約の話はなかったことにならないかなー、なんていう軽い気持ちだった。
そして、休憩していた公園で、家族とはぐれてしまった、というミヒャエルと出会ってしまったのだ。彼が持っていたボールでサッカーをしていたら、釣書の姿絵そっくりのアルノーが姿をあらわしたのだ。
縁というものからは逃れられない。アンネリーエは腹を決めた。
ミヒャエル様は素直で可愛かった。だったらこれは悪い話ではないのかもしれない。
どうせ断れない縁談ならば、楽しそうなことに目を向けた方がいい。
「かしこまりました。ご期待に沿えるよう頑張りますわ」
アンネリーエは笑顔でそう承諾した。
その返事を聞くと、アルノーは、忙しいので、と言ってアンネリーエを残して帰ってしまった。
おいしいケーキをひとりのんびりと堪能し、アンネリーエは帰宅した。
形ばかりの小さな結婚式を終え、アンネリーエは侯爵家へ迎え入れられた。品が良く親切な使用人たちは、必要最低限の人数しかいなかったので、すぐに顔と名前を覚えることができた。
アルノーとは、朝食を共にするだけである。多忙な彼は、王城へ出仕した後は、深夜まで帰らない。アンネリーエは、ミヒャエルが勉強している午前中は使用人たちと楽しく過ごし、午後からはミヒャエルと庭でかくれんぼをしたり、近隣の散歩をした。
「あのね、今日は西がわの地図をおぼえたよ。ヘルマーりょお、プライスりょお、バーナーりょお」
「まあ、バーナー領は、私のお父さまの領地なのですよ」
「バーナーりょおはー、西のかなめのりょおで、たいへんゆうふくなちあんの良い、ぼーえきがさかんな。えっと」
「まあ、なんて賢いのでしょう。覚えてくださって、ありがとうございます、ミヒャエル様。いつか一緒に遊びに行きましょうね」
「うん! ちちうえもいっしょに!」
「そ、そうね」
「たのしみ!」
ミヒャエルはアルノーの事が大好きだ。ゼーバルト侯爵家の直系の印である銀髪に、母親ゆずりの赤い瞳。裏表のない笑顔は皆に可愛がられて育った証だ。
ほとんど会話したことはないけれど、幼い子供がこんなに懐いているだなんて、きっとアルノーは良い人なのだろう。妻として寄り添うことはないとしても、いつか同居人としての親愛は持てるかもしれない。
「ねえ、ミヒャエル様。アルノー様の好きな食べ物って何かしら」
アンネリーエはそう尋ねた。二人で手をつないで庭の散歩をしている時だった。小さな池に反射した夕陽が、ミヒャエルのふくふくとした頬をちらちら照らしている。
アンネリーエが一歩踏み出せば、案外アルノーとの距離は縮まるのかもしれない。嫌がられたらやめればよいだけの話だ。やるだけやってみよう。暇だし。
「んー、ちちうえはね、サラダが好きだよ」
「サラダ?」
「うん」
「じゃあ、私、アルノー様のためにサラダを作ってみようかしら」
アンネリーエは後ろを振り返り、付添っていた侍女にそう話しかけた。それはようございますね、と侍女が満面の笑みでこたえる。
アンネリーエは、さっそく主人のためのサラダ作りに取りかかった。
「どうされました、アルノー様。こんな時間に」
昼前のゼーバルト侯爵家。突然帰宅したアルノーに、家令が驚いた。
「午後から王太子殿下の視察に同行することとなった。近くに用があったついでに、上着を取りに来た」
「は、すぐにご用意いたします」
わざわざ茶を飲んで待つほどの時間はない。アルノーは壁に寄りかかり、束の間の休息をぼんやりとして過ごすことにした。が、屋敷の外から賑やかな声が聞こえる。引き寄せられるように、声のする廊下の方へ歩いて行った。
窓の外では、数人の使用人たちに囲まれ、ミヒャエルとアンネリーエがじょうろ片手に笑い合っている。あの辺りは、厨房の職員たちにねだられ、作るのを許可した家庭菜園だ。よく見れば、周りで一緒に笑っている使用人たちも厨房の者たちだ。
アンネリーエは今度は小さなスコップで土を掘り、素手で土いじりを始めた。長いスカートは邪魔にならないよう、まとめて後ろでしばっている。燦々と日光の降り注ぐ中、土いじりをする令嬢など聞いたこともない。
アルノーは眉をひそめたものの、楽しそうな彼らの中に割って入る気にもなれなかった。
仲良くやっているのなら、まあいい。
駆け付けた家令から上着を受け取ると、アルノーは足早に屋敷を後にした。
それから二週間。
「アルノー様、おはようございます。本日は楽しみでございますわね」
身支度を整えたアルノーの元に、メイド長が朝食の準備が整ったと知らせに来た。しかし、彼女の言っている意味が分からず、アルノーはわずかに首を傾げるだけだった。
「ほら、今日は! 奥様特製のサラダの日! でございますわよ」
「オクサマトクセイサラダ、とは?」
「やだ、お忘れですか? アルノー様の好物であるサラダを奥様がお作りになったんですよ。畑の野菜が収穫時期になったって、昨晩言いましたでしょう」
アルノーが子供の頃から仕えるメイド長が、アルノーの肩をバチンと叩く。
「収穫時期だとは、確かに聞いたが……。待て、誰の好物だって?」
「アルノー様でしょう」
「サラダは嫌いではないが、特に好物というわけでは」
「あら、そうなのですか? ミヒャエル坊ちゃまがそうおっしゃってましたから」
メイド長はそう言うと、頬に手を置いて考え込んでしまった。
「まあまあ、どうしましょう。アルノー様の好物だと聞いたから、奥様は畑仕事頑張ってたのに」
「何だって? サラダを作るために、畑から始めたのか?」
「ええ。今日のはもともと植えてあった野菜に奥様が毎日水と肥料をやって、葉の間引きをしたものですけど、種から植えたものも早いものならもうすぐ食べられますよ」
「てっきり土いじりが趣味なのかと……」
「初めてっておっしゃってましたよ。アルノー様の好物を作るのだ、と毎日慣れないながらも頑張ってらして。お可愛いこと。良い奥様を迎えられましたね」
そんなことは望んでいない。ミヒャエルがさみしい思いをしないように妻を迎えただけで。
アルノーは袖のカフスを留めると、視線を上げることなく口を開いた。
「今日は朝食はいらない。王城でとる」
「何言ってるんですか、行きますよ」
「ちょっ、おい」
メイド長にぐいぐいと背中を押され、アルノーは仕方なくダイニングルームに入った。
「おはようございます!」
「ちちうえ、おはようございます!」
アンネリーエとミヒャエルの普段よりかなり元気な挨拶が響いた。目をそらしながら、おはよう、とつぶやいて席につく。すぐさま目の前には前菜が運ばれてくる。もちろん、サラダもだ。
これが奥様特製サラダ。リーフレタスは青々としていて食べやすく千切ってある。トマトもきゅうりもみずみずしく、ブロッコリーはごつごつと大ぶりで食べ応えがありそうだ。角切りにした紫色の玉ねぎがサラダに彩りを加えている。
が、これのどこが特製なのだ。いつもとたいして変わらないではないか。
アルノーのフォークを握る手にぐっと力がこもる。アンネリーエとミヒャエルが期待のこもった眼差しを向けて来る。食べにくい。
「アルノー様、おいしいですか?」
「まだ食べていない」
アンネリーエの言葉にかぶせるように答えてしまい、しまった、とアルノーは思った。まるで黙らせるようではないか。そんなつもりはなかったのだ。ただ、戸惑っていただけだ。
「ちちうえ、はやく食べて。僕、レタスちぎった」
「きゅうりを切ったのは私です」
そうか。レタスときゅうりはこの二人が。他は。他の野菜はどうなのだ。
「朝ね、はやく起きて、おやさいをとったの。アンネさまといっしょに。すごいでしょ」
「どの野菜がお好きかまでは分からなかったので、サラダのすべての野菜は私が収穫いたしました。ドレッシングは、私の実家のオリジナルレシピで作ってみました。たまには違う味もいいでしょう」
アンネリーエが楽しそうにそう話した。
ふう、と軽く息を吐いてアルノーは覚悟を決めた。普段よりあらっぽい手つきで、ばくばくとサラダを口に放り込む。大方食べきったあたりで、手を止めた。
「……私は別にサラダが好きというわけではない。だから、このようなことは必要ない。よって、別にわざわざ土を触るような真似はしなくていい」
「まあ、畑仕事が気に入ったというのなら、好きにしたらいいが」と、付け足すと、最後に残ったトマトを口に入れた。言うべきことを言い、やっと人心地ついたところで、いつもとは違うドレッシングの味に気が付いた。なかなか風味がよく、最後にさわやかなレモンの香りが鼻に抜けて、朝食によく合う。おいしい、とは言い出せない雰囲気にしてしまったのは自分なので、そのまま黙って飲み込んだ。
「そうだったのですね」
「だって、ちちうえはいつも一番さいしょにサラダを食べるから、サラダが大すきなんだとおもった」
アンネリーエとミヒャエルが顔を見合わせ、そう話す。
「前菜として先にサラダが出て来るから最初に食べていただけだ。だいたい、好きな食べ物を聞かれてまっ先にサラダと答える奴など、いや、世の中にはいるかもしれんがっ、私は別にサラダが好きでも嫌いでもない」
「えへへ、まちがえちゃった」と頭を掻くミヒャエルに、アンネリーエが優しくほほ笑みかける。しかし、その直前に、彼女は一瞬だけ残念そうに眉を下げた。きっと、他の誰も見ていない。気付いたのはアルノーだけだ。
何だか非常に居心地が悪くなってきて、アルノーは手早く朝食を終え、さっさとダイニングルームを出た。
支度を済ませ玄関に向かう途中で、アンネリーエに呼び止められた。
「アルノー様、申し訳ございませんでした。余計なことをしてしまいました」
アンネリーエが深々と頭を下げる。
「わざわざ野菜を育てるなど、余計な手間のかかることを、よくもまあ……。今後は私のことなど気にしなくていい。好きに過ごしてくれ」
アルノーの話を最後まで聞いていたのか聞いていないのか、アンネリーエが頬に手を置いて首を傾げる。
「……兄が……」
「うん? 兄?」
「私の兄が、以前言っていたのです。手間暇かけて一から手作りしてくれたものをもらったら誰だって嬉しい、と」
その時のことを思い出しているのだろう。アンネリーエはアルノーの方を見ないまま、ぽつりぽつりと話し出した。
「ですので、私も一から手作りしてみようと思ったのです」
「一から、とは、野菜を育てるところから、ということか。何でそうなった」
「私、間違ってしまったのですね。朝からお騒がせしてしまって申し訳ありません。今後はもっとちゃんと調べてから行動しますわね。さあ、お時間ですわ。いってらっしゃいませ、アルノー様」
アンネリーエが再び深々と頭を下げる。玄関の外では、迎えに来た側近のライナーが待っている。何となくこの状況を見られたくないような気がして、アルノーは何も言わずに家を出た。
あれからも、アンネリーエとミヒャエルは畑仕事を続けているらしい。もっとも、ミヒャエルはアンネリーエと共に何かをしたいだけで、畑にこだわっているわけではなさそうだが。
ミヒャエルの支えになってくれればそれでいい。それだけでいいのに。
あまりきちんと顔を見たことはなかったけれど、あの朝食の時のアンネリーエは以前よりも少し日に焼けていたように見えた。貴族の女性が直接日光に当たるものではない。それなのに、アルノーにサラダを作るために毎日畑に出ていたという。
それを聞いて以来、アルノーは何だか胸がモヤモヤとするし、イライラもする。そんなことしないでほしい。自分のためになど、何もしないでほしいのだ。
それにしても、一から手作り、と聞いて、野菜を育てるところから始めるなんてことがあるだろうか。
そういえば、初めて見た時だって、スカートをまくり上げてサッカーをしていたのだった。もしかして自分は、とんでもない女を拾ってしまったのではないか?
書類に向かうアルノーの手が止まっていることに気付いた側近のライナーが、アルノーの顔を覗き込む。
「うわっ! 何だ」
「いやあ、めずらしくぼんやりしているから」
「ちょっと考え事をしていただけだ」
アルノーがあわててペンをインク壺に突っ込んだ。書類を押さえていたガラスのペーパーウェイトが揺れる。
「何々? 新婚の奥さんのことでも考えてた?」
「そっんなわけないだろう!」
書類をめくる手が震え、ペーパーウェイトがコロリと転がった。
「アンネリーエ様だっけ。可愛いもんねえ。赤い髪を品よくまとめて、ピチピチの若奥様って感じだった。ぼんやりするのも仕方ない」
「は!? お前、いつ会ったんだ」
「今朝、お前を迎えに行った時にちょっと話したよ。そもそも、俺はお前たちの結婚式にだって参列したんだから、顔くらい知ってるに決まってるだろ」
ニヤニヤと笑うライナーを一睨みした後、アルノーは仕事に集中した。バカなことを。別にアンネリーエのことを考えていたわけではない。ミヒャエルの母親として是か非か考えていただけだ。
こんな濡れ衣を着せられるくらいならば、もうこいつにアンネリーエを会わせるのはやめよう。アルノーは次の日から、ライナーが来る前に玄関を出ることにした。
アンネリーエとミヒャエルは、土まみれのエプロンをしたまま、木陰で休憩していた。クタクタに疲れたミヒャエルは、敷物も敷かずに芝生の上でスヤスヤと昼寝している。
ここはアンネリーエの実家、バーナー伯爵領にある牧場だ。
ミヒャエルを連れて数日の旅行に行きたい、と言うと、アルノーはすんなり許可してくれた。何故だか、ちょっとホッとしているようにも見えた。
アルノーは愛想はないけれど、優しい人だと思う。世間では冷酷な人、なんて言われているけれど、いつもアンネリーエの気持ちを慮ってくれる。突き放すような言葉を言いながらも、最後には必ず、アンネリーエの好きにしていい、と言ってくれるのだ。
今日は、ミヒャエルと一緒に羊の毛を刈った。
始めのうちは暴れる羊に怯えていたミヒャエルも、最後には全体重をかけて羊に抱き着き押さえ込んでいた。
一仕事終えたので、明日はゆっくりと休息し、明後日には家に帰ることにしよう。アンネリーエはパタパタと手で顔を仰ぎながらそう思った。
アンネリーエは、冬に向けてアルノーのために編み物をしようと考えた。無難にマフラー、それとも手袋、がんばってひざ掛けにしようか。そうだ、ミヒャエルにも編んでおそろいにしてあげようか。だったら、やはりマフラーか手袋がいいだろう。
今日刈った羊の毛で作った毛糸を使う予定だ。新鮮な毛糸を使えば、きっとさらに暖かいに違いない。
王都へ戻る道中で立ち寄った街で、編み物の本をいくつか購入した。ざっと目を通したものの、初心者のアンネリーエにはよく理解できなかった。とりあえず、シンプルなマフラーから始めたほうがいいだろう。
「アルノー様、何色がお好きですか?」
出仕前のアルノーを玄関で呼び止め、アンネリーエはそう尋ねた。答えは一言で済むものだから、そう時間は取らせないはずだった。
それがなぜか、アルノーは眉をひそめたまま、アンネリーエを見下ろして押し黙ってしまった。仕方がないので、簡単に説明をする。
「冬に向けて、アルノー様のマフラーを編もうと思っておりますの」
「……編み物が趣味なのか?」
「いえ、初めてです。ですから、簡単なものしか作れません。ご要望におこたえできるのは、色くらいなのです」
「……私のことは気にするな、と……」
「ミヒャエル様とお揃いにいたしますので、色はミヒャエル様と対になるように二色で考えております。刈った羊毛の染色がもうすぐ始まりますので、今ならお好きな色を指定できますよ」
「ちょっと待て、何の話をしている」
アルノーがくるりと身を翻してアンネリーエの顔を真っ正面から覗き込んだ。久しぶりにじっくり見た冷たくも端正な面立ちに、アンネリーエがぽっと頬を染める。
「先日、バーナー伯爵領の牧場で羊の毛刈りをしてきたのです」
「は!?」
「刈った毛は洗ってくしけずるのだそうですが、それはやはり専門家の仕事なんですって。下手に素人が手を出すと、せっかくの羊毛がだめになってしまうとか。それは羊さんに申し訳ありませんので、断念したのです。残念ながら、全てを一から手作りとは言えなくなってしまったのですが、その分心を込めて編みますのでご安心ください!」
胸の前で両手をぐっと握ったアンネリーエを、アルノーが目を見開いて凝視している。
「そうそう、染色が終わりましたら、また領へ行ってまいりますね。糸をつむぐ作業からは参加させてもらえることになってますの」
「いや、だからっ、なぜ、そこからスタートなんだっ……。というか、私に贈る必要などないと言っただろう。ミヒャエルにだけ作ってやれ。よって、行く必要はない、毛糸まで仕上がったら送ってもらいなさい。いや、まあ……糸つむぎをやりたいのなら、行ってもいいが……」
アルノーはばーっとそこまで一気に言うと、きゅっと口を閉じた。アンネリーエの桃色の瞳がまっすぐにこちらに向いているのに気付いて、急に胸が騒ぎだしたのだ。アルノーは、目元を手で隠して大きくため息をついた。
「はあ、まあ、いい。……好きにしなさい」
「ありがとうございます。それで、お好きな色は」
「何でもいい。行って来る」
「かしこまりました。いってらっしゃいませ、アルノー様」
ほんのり頬を染めたアンネリーエに見送られながら、アルノーはふらふらと馬車に乗り込んだ。
やっぱり人選を間違えた。とんでもない令嬢だった。
アルノーは執務机に肘をつき、頭を抱えた。
マフラーを編もうと思ったから羊の毛を刈った? どうしてそうなるんだ。そして、なぜ誰も彼女を止めないんだ。
アンネリーエが旅行から帰って来てから、アルノーは仕事に集中することができない。
彼女が旅行中の屋敷は静かで、騒いでいた心がやっと落ち着いた。彼女のいない家庭菜園の庭も、彼女とミヒャエルが日向ぼっこしていた日当たりの良いテラスも、彼女の見送りのない玄関も、ひっそりとしていてひんやりとしていた。
屋敷をうろうろしていたら、家令が「何かお探しですか」と声をかけてきたが、そんなんじゃないんだ。ただ、久々の静けさを味わっていただけなんだ。
その落ち着いた日々も、束の間だった。
旅行から帰ってきた彼女は、ミヒャエルと一緒に選んだというお土産を渡してきた。そこで、ふと、新婚旅行に連れて行ってやってないことに気が付いた。行き遅れ寸前だったとはいえ、年頃の令嬢ならばそういったことに夢を見ていたのではないだろうか。
とはいえ、次期宰相であるアルノーには片付けるべき仕事が山積みで、新婚旅行どころか休日さえないのだ。
「アルノー、また手が止まってるぞ。また奥様のこと考えてるのか?」
からかうようなライナーの声が聞こえて、アルノーはハッと顔を上げた。ちょっとだけムッとしつつも、この際愚痴を聞いてもらったら、案外スッキリとしていつも通り仕事に打ち込めるかもしれない。
アルノーは、アンネリーエの野菜作りの件、羊刈りの件を簡潔に伝えた。それを聞いたライナーは腹を抱えて爆笑した。
「あはははは、あんな可愛い顔して、いひひひひ、ぶっ飛んだお嬢様だな! こりゃあいい。朴念仁のお前に案外お似合いの奥様なんじゃないか」
「どういう意味だ。私はただ単に、人見知りするミヒャエルがめずらしく懐いていたから決めただけで」
「いやあ。でも、お前の好物を作ってくれようとしたり、マフラーを編んでくれたり、無味乾燥なお前に歩み寄ってくれる、いい奥さんじゃないか」
「だからと言って」
「あ、ちょっと待て」
右手を上げてアルノーの言葉を遮ったライナーが、宙を見て固まった。
「これはまずいな」
「何がだ」
「そういえば数日前、お前を迎えに行った際、奥様にお前の好物を聞かれたんだった」
「私の妻と勝手に話すな」
「そう怒るなって。それで、俺……やべーな……」
「なんだ。早く言え」
「俺、アルノーは兎肉のオーブン焼きが好きだって、言っちゃった」
確かにそれは、行きつけのレストランで必ず頼むメニューである。香草をまぶした柔らかい肉はアルノーの好物だ。
アルノーの右手から落ちたペンが、カシャンと音を立てる。
その瞬間、けたたましく椅子を倒してアルノーが勢いよく立ち上がった。
「ライナー! 今日の仕事は頼んだ!」
「えっ、いや、まさか。さすがに兎は」
「今朝、ミヒャエルはアンネリーエと一緒にフォルツ高原へピクニックに行くと言っていた!」
アルノーの言葉を聞いたライナーがあごに拳をあてて考えを巡らせる。
「フォルツ高原か。確かにあそこは低地はピクニックに最適だが、登れば狩場だ。しかし、狩場には歩いては行けない。馬車も乗り入れられない。馬に乗って行くしかないんだ。無理だろう」
「アンネリーエはサッカーができるんだ。馬くらい乗れるだろう!」
「ひい、アルノー! 早く行け!」
あわてたライナーが王太子殿下へ掛け合い、王城の馬を借りてきた。
今朝、玄関まで見送りに来たアンネリーエとミヒャエルは、やけに動きやすそうな服装をしていた。ピクニックに行くと言っていたから気にも留めなかったが、あれはどう見ても乗馬服だ。
アンネリーエは狩りをしたことがあるのか。猟銃を扱うことはできるのか。馬に乗れたとしても、足場の悪い高地を駆けたことはあるのか。フォルツ高原には確かに兎がいるだろう。しかし、兎だけではない。危険な動物だっているのだ。
アルノーは馬を駆けた。
脳裡に浮かぶ、静まり返った屋敷。見送りのない玄関。気落ちした使用人たち。
もうあんな思いはしたくないんだ。
フォルツ高原の入り口近く、平坦な公園。その木陰でアンネリーエ、ミヒャエル、そして侍女と護衛たちは敷物を広げ、のんびりとピクニックをしていた。
「アルノー様!?」
視力の良いアンネリーエがまっ先にアルノーに気が付いた。その声に、ミヒャエルが飛び上がって喜ぶ。
髪と服を乱し、息を切らしたアルノーに、全員が絶句した。主人のこんなあわてた姿を初めて見たのだ。
アルノーの心配むなしく、彼らは純粋にピクニックを楽しんでいたらしい。敷物に倒れるようにして座り込んだアルノーは、空を仰いだ。地面についた手に、大きめの虫取り網が触れる。
隣に腰掛けたアンネリーエがハンカチで額の汗を拭ってくれた。突然どうしたのだ、仕事じゃないのか。興奮したミヒャエルに問われ、アルノーはしぶしぶ口を開いた。
「……ライナーから話を聞いて、君たちが兎狩りに出たのではないかと心配になって駆け付けた。杞憂でよかったが」
「まあ! よくお分かりでしたね、アルノー様。本当は兎を狩りに来たのです。でも、入り口で出会った親切な方に、網では兎は捕まえられないと言われて断念したところでしたの」
アンネリーエののん気な声に、アルノーは手元の虫取り網を見てゾッとした。誰だか知らないが親切な方、ご忠告痛み入る。
「確かに兎肉は好物だ。だが、肉は肉屋から買ったものが好きだ。香草も専門店のものがいい。オーブンは家の厨房に備え付けのものが最適で、皿は棚にある大き目のものが合うと思う」
「まあ、そうですか! では、アルノー様のお好み通りにいたしますね」
「ああ、そうしてくれ」
ぐしゃぐしゃと髪を掻いたアルノーは、勧められるままにサンドイッチを食べ、ミヒャエルからおすそ分けされたオレンジジュースに口を付けた。
雲ひとつない薄い水色の青空。遠くに見える王都の街並み。悠然と飛ぶ鳥の群れ。刈られたばかりの芝生を撫でる風。こうしてのんびり過ごすのなんて、何年ぶりのことだろう。
アルノーは自分がほほ笑んでいるだなんて思わなかった。だから、はしゃいで走り回るミヒャエルを眺めるふりをして、アンネリーエがその美しい笑みをこっそり堪能しているのにも、全く気付くことは無かった。
帰りはアンネリーエとミヒャエルの馬車に同乗した。遊び疲れて眠ってしまったミヒャエルを向かいの席に寝かせたので、アルノーはアンネリーエと隣同士で席に腰掛けている。
アルノーの乗ってきた馬は、護衛の一人が乗ってそのまま王城へ返しに行った。侍女たちはもう一台の馬車に乗っている。
ミヒャエルの顔に日差しが当たらないように、アンネリーエが自分の方の窓のカーテンを閉めた。少しだけ車内が翳る。
「アルノー様、今日はお迎えに来ていただきまして、ありがとうございます。うふふ、心配していただいて嬉しかったです」
アンネリーエがぽやぽやと嬉しそうに礼を言った。
彼女のそんな顔を見ると、アルノーの胸はまたぞろ騒ぐ。イライラするし、ソワソワと落ち着かない。いいかげんいい年なのだから、さすがに自分のこの気持ちの名前くらいとうに気付いている。
大きくため息をついたアルノーは、窓の外を見たまま口を開いた。
「……私は昔から、兄の補佐だった。兄が宰相になった際には、宰相補佐となる予定だった」
独り言のように語りはじめたアルノーの話に、アンネリーエは黙ったまま耳を澄ませた。
「兄が急死し、その代わりに私が次期宰相となった。両親はすでにいなかったので、代わりに家督も継いだ。義姉がミヒャエルを抱えて一人になったので、兄の代わりに二人を引き取った。私はただの代理なんだ。ミヒャエルが成人したら、すぐに家督は正式な跡取りである彼に譲る予定だ」
アンネリーエは小さく頷いた後、おずおずと口を開く。
「アルノー様は立派に働いているし、お家もきちんと取り仕切っているし、間違いなくミヒャエル様の優しいお父さまです。誰の代わりでもありません。そして、アルノー様の代わりだって誰にもできません」
アルノーは窓の外から視線を外すことなく、ただ黙ってアンネリーエの言葉を聞いていた。
「……兄の妻は、言葉の違うこの国に不慣れだった。頼りにしていた兄が亡くなってからは、さらに気落ちして不安定になっていた。彼女の生国へ便りを送ると、情勢は比較的安定したと返事が来たから、一時的に里帰りさせたんだ。彼女は喜んで帰って行ったよ。ほとんど会話したこともなかったが、初めて見る笑顔だった。まあ、それが最初で最後だったのだが」
アンネリーエがこくりと頷いた気配を感じて、アルノーは目を閉じた。
「悲しいことですけど、アルノー様のせいではありません」
「……わかっている」
アルノーはゆっくりと目を開くと、振り向いて隣に座るアンネリーエの顔を覗き込んだ。
「両親を亡くしたミヒャエルもまた、明らかにふさぎ込んでいた。ひとりずつ家族が亡くなっていって、屋敷は静かになっていった。使用人たちも口数が少なくなっていった。そこで、出会ったのが君だったんだ、アンネリーエ」
アルノーの静かな声に、アンネリーエが大きく瞬く。
「君が来てからというもの、屋敷は賑やかになり、ミヒャエルは明るくなった。君は我が家の生命力の灯火だ。きっともう、君無しでは我が家は立ち行かないだろう」
アルノーは膝に肘をつき、前かがみのまま両手で頭を抱えた。そして、ゆっくりと言葉を噛みしめるように言った。
「アンネリーエ、どうか私と結婚してほしい」
「えっ!? も、もうしてますけど!?」
「そうじゃない。心の問題だ。顔合わせの際に伝えた失礼な文言を取り消し、この先も君と夫婦として生きてゆきたい」
アンネリーエはまだ言葉の意味がよく理解できずに固まっている。彼はとても大切で素敵なことを言っているような気がするのに、どうして苦悩するように頭を抱えているのだろう。
「君が私のためにサラダを作った日から、君のことが頭から離れなくて仕事が手につかない。家にいれば君の姿を探しているし、君が共にいる未来さえも想像してしまう。このままでは、きっと私は兄の代理どころか使い道のないダメな人間になってしまうだろう。この気持ちにケリをつけるためにも、どうか私と結婚してほしい」
「はい、わかりました。よろしくお願いいたします」
予想外のアンネリーエの即答に、アルノーががばっと顔を上げた。頬を染めたアンネリーエが、はにかみながらこちらを向いている。
本当に不本意だ。どうしてよりによって、こんな突飛な令嬢を。でも、もう彼女無しの未来は考えられない。
アルノーは身を起こすと、腕を組んで背もたれに寄りかかった。
「結婚指輪も作り直そう。実は、君が今つけているそれは、石もデザインも宝石商に丸投げしたものなんだ。君の、アンネリーエの好きな指輪を買おう」
「嬉しいです。おそろいにしましょうね」
「それから、新婚旅行もまだだっただろう。どこか行きたいところはあるか?」
「まあ、素敵。ええと、あっ、そうだわ。結婚指輪につける宝石を採掘に鉱山へ……」
「却下だ。新婚旅行にうってつけという流行の場所を私が探して決めよう」
「はい、ありがとうございます。楽しみです」
屋敷に到着し、馬車を降りてきたアンネリーエはやけに上機嫌で、顔が真っ赤になっていた。奥様に一体何をしたんだ、と、侍女たちに詰め寄られたアルノーが、ミヒャエルの目の前で不埒な真似などするはずがないだろう、と怒った。
「したわね」
「したのね」
「絶対したわ」
「してない! 行くぞ! アンネリーエ!」
ささやく侍女たちを睨みつけ、眠るミヒャエルを抱きかかえたアルノーはそう怒鳴った。あの日のトマトのように真っ赤な顔をしたアンネリーエは、嬉しそうに屋敷に向かうアルノーの背を追った。
「ちちうえ、あのね。フィリップくんの家のサラダにはね、エビとゆでたまごがはいってたんだよ」
「そうか、うまそうだな」
朝食の席で、アルノーがミヒャエルの話に相槌を打つ。
昨日、ミヒャエルとアンネリーエは、とある公爵家へ招待されていた。年の近い子息のいる貴族を集めた食事会である。友人のできたミヒャエルはそれは満足げに帰宅したらしい。
一夜明けても興奮冷めやらぬミヒャエルは、昨日のできごとを余すことなく伝えて来る。微笑ましくその話を聞いていたアンネリーエが、ふとつぶやく。
「とても美味しい食事でした。アルノー様にも食べさせてあげたかったですわ。……ここからなら、アンダーシュ渓谷と……」
フォークを置いて考え込むアンネリーエを一瞥すると、アルノーは動じることなく食事を続けながら述べた。
「アンダーシュ渓谷にはエビはいない。エビは魚屋に用意させなさい。それから、卵も厨房に用意してあるもので十分だ」
アンネリーエがきょとんとした後、満面の笑みを浮かべる。控えていたメイドたちがちらりと窓の外を見やる。奥様の家庭菜園はもうすぐ収穫を迎えるころだ。
ゼーバルト侯爵家のいたって平和で、いつもの朝食の光景であった。
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