9.爺さんの声がうるさい
昼に起きてきた七龍に俺は貴重な菓子パンを差し出した。
老人を酷使して悪いとは思ったのだ。
フワフワのパンはこの世界では珍しい。
平民はフランスパンより硬い黒パンばかり食べていた。
勇者一行とはいえ、大陸中が食糧難の状況だ。
混沌の怪物を倒す旅路では、俺たちも大したものは食えなかった。
「これは透明な袋か? 材質は何かのぅ」
七龍は物珍しそうに袋の感触を確かめている。
「その袋を破って中身のパンを食べるんだ」
「芸術品を壊すようで何となく気が引けるわい」
慎重な手つきで袋を破ると七龍はメロンクリームパンを取り出した。
「ふむ、甘い匂いのするパンじゃ。それに雲のように柔らかい」
匂いや形を確認してから、一口齧っていた。
それを見てから俺もジャムパンの袋を開けた。
「サクサクしてほどよい甘みが広がるのぅ。これはパンの中に白いものも詰めておるな」
クリームを舐めた七龍はブルッと体を震わす。
「濃厚な乳の風味がする。何という贅沢なパンなんじゃ」
大きな体でちみちみと惜しみながらリスのように食べる姿に笑ってしまった。
この大陸では甘味は少ない。
砂糖は海を渡った南国からしか運ばれてこないので高価だった。
「パン一つ取ってみても異世界は凄いのぅ。こんなものが当たり前に食べられておるのか。羨ましくなるわい」
パンがなくなってしまうと七龍は残念そうに手を見ていた。
厳めしい見た目によらず甘いものが好きらしい。
過酷な旅では甘いものを口にする機会がないので気づかなかった。
「とりあえず七龍はこの部屋を使ってくれよ。また持ち出してないものがあるからちょくちょくお邪魔することになると思うけど」
昼食を食べ終わって七龍を案内したのは105号室。
音楽狂いの大学生の部屋だ。
アパートの間取りは、畳が六畳ある部屋が二つに台所がついた2DKだ。
105号室は楽器が置かれてない部屋なら片付いていた。
「やけに扉がある建物とは思ったが、一つ一つの部屋が宿屋のように独立しておるのか。お主の部屋がやけに狭かったのも納得じゃわい」
「狭くて悪かったな。危険なものはないはずだけど、コンセントに爪を突っ込むとかはやめてくれよ」
危険な行為については念入りに説明しておく。
悪戯好きなラピィではないので大丈夫とは思うが。
「これは吟遊詩人の使うリュートに似た楽器じゃ。これは使っていいのかの?」
ギターが置かれた部屋に入った七龍は金色の目を光らせた。
「別に構わないよ」
その言葉を俺はすぐ後悔することになった。
「どれ、ふむふむ。リュートより力強い響きじゃのぅ。この楽器が神の歌では使われておったのか」
納得したように七龍が頷いている。
その日から俺は七龍の弾き語りを延々と聞かされる羽目になった。
まさか異世界に引っ越しても騒音に悩まされる羽目になるとは思わない。
もちろん七龍には良識があるので大学生と違って真夜中に騒ぐことはないが、老人の朝は早いのだ。
俺は日本にいた頃は夜更かしをする夜型人間だったのに、アパートに戻ってきても健康的な生活を強いられることになった。
もっとも、隣に七龍がいるとわかっているのは安心する。
騒音と安心は相殺ということで、俺から七龍に苦情を言うことはなかった。
「おいおい、ちゃんとメシは食っているのかよ」
ただ一週間もすると隣から聞こえる歌声に張りがなくなった。
心配して隣室を訪れると七龍が憔悴していた。
どだい女性ボーカルの高い歌声を爺さんの低く渋い声で出そうというのが無理なのだ。
いくら努力しても簡単に声質が変わるわけがない。
喉を傷めたらしかった。
「七龍には演歌の方が似合うと思うけどなぁ」
「ワシはパワフルで心が燃えるような歌を人々に届けたいのじゃよ。暗い顔をしている人たちを励ましたいのだ」
情けない顔で訴えてくる。
志は立派だと思うが、完全に爺さんがアニソン中毒になっていた。
「今日はアメちゃんやるから俺の部屋で大人しくしていろよ。元気の出る友情の料理を作ってやるからさ」
「世話をかけるのぅ」
炊飯器でご飯を炊くくらいはできるが、基本的に俺は不器用で料理が苦手だ。
特に包丁とか刃物を使うのが怖い。
廻しをしていれば傷つかないとはいえ、もはや本能的なものだ。
ただ冷蔵庫に保管しているが、生ものには消費期限がある。
腐らせる前に食べないともったいない。
「七龍は神の歌でも聞いて待っていてくれ」
今から作ろうとしているのはみんな大好きカレーだ。
野菜の切り方が不揃いでもカレーは母のような広い懐で美味しくしてくれる。
「これは香辛料か。複雑でいい匂いがするわい」
部屋にカレーのスパイシーな匂いが立ちこめると、音楽に集中していた七龍でも顔を上げた。
「おいしくなーれ、おいしくなーれ」
グルグルと鍋をかき回す。
カレーの匂いで胃袋を刺激されて、腹がグゥグゥ鳴りまくる。
あと少し煮こめば完成ってところで七龍が立ち上がった。
「もうちょっと待ってくれよ」
「どうやら来客のようじゃ。ワシがまず対応しよう」
待ち切れなくなったかと思ったが、招かれざる客のようだ。
さすが達人だけあって人の気配に敏感だ。
「こんな時にかよ。嫌になってしまうなぁ」
思いっきり口の中がカレーって気分だったのに出鼻を挫かれてしまった。
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