幸せへの第一歩
楽しみましょう。ここからです。
毎日々々。本当に呆れるほど毎日、放課後に僕たちは話し続けた。シャーペンを買い替えたこと、母さんが更年期で面倒だということ、通学中に見た綺麗な花のこと。何でも話した。次第に僕は身の上話もし始めた。小さい頃の友達のお道化たおちゃらけ話から、麻友姉の恋愛事情、そこらで見かけた馬鹿げた話なんかも……。美香さんは何事も初めて見聞きするかのように驚いて笑ってくれた。悲しい話のときは同じく悲しんでくれたし、笑える話はいつも心の底から笑ってるみたいだった。
本当に毎日。自分のことながらよく飽きないなと思うよ。美香さんも本当に飽きずに毎日話しかけてくれるよ。
でも、それでも美香さんは家族の事だけは絶対に話したがらない。兄弟や姉妹はいるの?と聞いたときは「悠真君は?」って毎回逸らしちゃう。
自分のことを話せるのは楽しいけど、それだけじゃ関係は深まらないと思う。
「寒いね~」
今日初めて美香さんはマフラーをつけて登校してきた。チェック柄の可愛らしいものだ。は~と両手の内に吹きかけた息はもう白い。
その光景を僕は必死に目に焼き付けていた。一ヶ月近く話してきたと言えど、写真をお願いしてしまってはそれで崩れ去るぐらいには脆い糸だろうから中々踏み込みづらい。それに、盗撮するほど僕は落ちぶれちゃいない。そこいらの常識人と同じだ。
「あっ、うん。寒いね」
今日を含めてあと三日で一一月も終わろうとしてる。僕たちの口から白い息が出たのもつい最近だ。放課後ともなるとまぁまぁ薄暗くなる。話し込むといつの間にか家明りしかない、なんてのはザラだ。
「美香さんは大丈夫なの? 親とか心配しない?」
長い他後のせいで僕の警護もいつか消えている。意図してないけれど、ぽっとタメ口で返した時に美香さんは本当に嬉しそうにしわを作ってくれたんだ。だからもう敬語は使わない。
「いいよ~。私の親は放任主義だし」
「あはは。僕の家もそうだよ。夜遅くなっても夕飯を一人で食べるぐらいしか支障ないから」
「そうなんだ。でも、一人で食べるのは寂しそうだね」
僕はそうかな。と首をかしげて見せた。特筆して寂しいとは思ったことはないけれど……むしろ時たま地雷原を踏み歩いてると感じることもあるぐらいだ。
「悠真くんは強いね。私なんか毎日寂しいよ」
「毎日?」
ハッと美香さんの目が見開いたかと思えば何かに吸い取られているかのように皮膚の末端からサァーッと色が抜けていく。
「毎日一人なの?」
「えっ……あっ………あっ…………」
目を白黒させて軽く震えだす美香さんの何と可哀相なことか……
所謂ネグレクトなのか? それとも、よっぽど厳しくて……?それでも家族の時間を作るのが親の仕事じゃないのか?
美香さんはまるで断頭台に立たされたかのようにガクリと首を落として汗でギトギトになった顔を地面に向けながら、ぽつんと
「そうだよ」
死刑宣告を告げられた罪人のように……将又今から首をくくる自殺志願者のように……
嗚呼、空しい空しい……
「それ、大丈夫なの?」
「だ、大丈夫だよ。うん、大丈夫。そんなことよりもさ……」
顔が…・・というより全身が、拷問を待つかの如く震えだす。
少し、僕も何を言っていいかわからなくて黙っていると、美香さんもいい具合に逸らせる話を見失ったのか黙り続けていた。そんな時間が少し(もしかしたら永遠かもしれないが)流れて、美香さんは一言呟いた。
「……引かない?」
「引かない」
僕は刹那が通り過ぎるのも許さず答えた。
美香さんは意を決したように拳をぎゅっと握り
「私の家ね……凄い厳しいんだ。子供のころから英才教育英才教育って使うかもわからない言語を学ばされたり、当時には難しすぎる数式を並べさせられたり……sろえで私立中学行って……でも、目指してた高校には落ちて、だからこの高校に来たんだけど……一層厳しくなっちゃって、今も……今も親には学校で自習してるって嘘ついて……家にいるときは、部屋から出ちゃいけないから……」
大きく体を震わせながら。嘆く、嘆く、何もかもを嘆く。
それがしばらく続いていとこと。
「妹なんかそれに疑問持ってないから、私が可笑しいのかなって…私が、私の方がキチガイなんじゃないかって……」
言ってすぐ、美香さんは顔に手を当てて崩れた。泣いてるわけではないようだけれど、泣くよりももっとひどい、悲しい顔をしているような気がしてならない。
「もっと、自由に……皆が羨ましい。ゲームセンターにだって行きたい。別に、好きで勉強してるわけじゃない。悠真くんみたいに好きなものがれば……」
僕は黙ってた。何か返事をすればよかったのかもしれないけれど、何も思いつかなかった。
(キチガイじゃないよ)
違う。キチガイであることの証明が難しいように、キチガイでないことの証明も難しい。人によって基準さえ違うものをどう否定しようか。
(美香さんは可笑しくないよ)
これも。能吏では適当に作った笑みを浮かべてさっさと立ち去る美香さんが見える。こんなこと僕も美香さんも望んじゃいない。もし、美香さんの話が本当ならそんなとこに行かせてはいけない。
なら、ならば、何ができる?
「なら、逃げればいいじゃん」
脳が停止したのが分かった。無数にある可能性に、並行世界を考えるのに嫌気がさした脳がついに機能を放棄したんだ。
何の感情も乗らない適当な一言だ。別に、僕も本心から”逃げるしか道がない”なんて思ってなかったハズだ。もうそんな反論すらできないほどに、ただの数瞬で疲弊しきっている。
別に訴えるとか、頭の悪い僕なら思い浮かぶだろう。美香さんからしたら不可能なことでも、状況証拠さえ集めれば警察だってきっと真摯に対応してくれるはずだ。
「えっ?」
美香さんは神でも見るかのようにこちらを見上げた。爛々と、狂気とさえ感じられるほどに恍惚とした目で、こちらを見やる。
「えっ、あっ、いや、逃げるのは無理かな……って。無理、だよね。携帯とか」
言うと美香さんはその爛々とした目のまま鞄の中をまさぐって携帯を取り出す。かと思うと、それを窓の外から思いっきり投げた。その顔に、公開などはない。まるで人生の門出のように、新たな門を潜る新入生のように、希望に満ち溢れていた。
嗚呼、なんて綺麗なんだろう。
雑に投げた、何も考えずただ期の赴くままに投げる。行先など仔細知らず。
「これで逃げれる」
幸せそうに、今までのどの顔よりも可愛らしく、一転の曇りのない目で笑った。
気づいたら僕も携帯を投げていた。嗚呼、せっかく機種変したばかりなのに、なんて考える隙間は与えない。
今から彼女と旅ができる。自分を、彼女を確立するための旅が。ありたらゆるものから逃げた果てに見つかるかもわからない何かを探す旅が。
「僕も逃げる」
「うんっ」
美香さんは涙を故尾下。一滴、また一滴。ツー、ツーと流れる。
「まずは学校から逃げないとねっ」
声を弾ませて美香さんは僕の手を引っ張って鞄も教材も何もかもを放って階段を駆け下りた。
転んじゃう、転んじゃう。思ったけれど転んだらそれもまた面白い出来事だ。逃げるのは難しくなるか?
真っ暗闇の中、最後の灯りかもしれない下駄箱を出て、外へ駆け出す。
星も月も出てない空の何と美しいことか。奇異な目で見てくる生徒らの何と愚かしいことか。幸せそうに駆ける僕たちの、何と、幸せなことか。




