リクと佐久間
「リク、君はあの離れで、一歳過ぎまでの約一年を過ごしたんだ。この母屋へやって来て中を這いまわったり、この広い庭を散歩したり、あの頃の君は本当にかわいかった。俺も仕事を減らして極力日本に居るようにしたし、出産以来体調を崩していた由香里の為に優秀なベビーシッターを雇ったりもした。俺は、君はこのままここで成長していくのだと思っていた。それが終わったのが、由香里の死だった」
エドは相変わらず同じ体勢のままだ。キースとチャンスは佐久間を見たまま黙って話を聞き続ける。チャンスの目の青い光がゆっくり左右に動いていた。
「あの日のことは今でも覚えている。あの日俺とベビーシッターにリクを預け、由香里は病院へ出掛けた。それが生きている由香里を見た最後だった。由香里が亡くなった時、連絡は真っ先に俺に来たが、俺は由香里の血縁者ではない。由香里の両親に連絡を取らざるを得なかった。君の祖父母がやって来て、由香里の遺体と君を引き取ると言ってきた。しかし君の祖父母は、最終学歴は中卒だし、由香里の大学進学にも一切興味を示さなかった人達だ。フォレスター家の血筋の君を、せめて大学卒業まできちんと教育できるのか心配だった。君の祖父母は娘の忘れ形見は誰にも渡さないと、君を育てる権利を主張していた。後日、おもちゃやベビー布団や衣類やらを纏めて車に積んで、俺とベビーシッターで君の祖父母の家に君を届けに行った。俺やベビーシッターから離されて初対面の祖父母に連れて行かれるのを、君は泣いて嫌がった。母親を亡くしたばかりだというのに、俺とベビーシッターに手を伸ばして泣く君を見て、可哀想だと思ったよ。でも他人の俺には君を育てる権利はない。君の祖父母は俺に、二度とリクにかかわるなと言って玄関を閉めた」
「母が亡くなった時、俺は祖父母に預けられていたと聞かされました」
「それは君のお祖父さんお祖母さんが吐いた嘘だ。君は自分の一歳前の写真やビデオを見たことがあるか?」
確かに、家にある自分の写真は一歳を過ぎてからの物だけだ。家にカメラがなかったのだろうと気にしなかった。リクの生まれて直ぐの写真はない。リクと母親と一緒に写っている写真も一枚もない。
「君が夢で見たのは、由香里が亡くなり君が祖父母へ渡され、離れの部屋の中を空にした時の光景だろう。風見鶏の布と聞いてそう思った。その上にエドと俺の会話が決定打になった。由香里の死後直ぐにエドがここにやって来た時の会話だ。当時、俺は由香里とリクの思い出のあるここに住み続けるのが辛かった」
リクは夢の中の風見鶏を思い出す。ボロボロになった布が絡んでいた。あの布は何なのだろう。
「風見鶏に布を付けたのは君の為だった。君はあの風見鶏が好きで、毎日何度も見に行った。風がある日は回っているのをじっと見ていた。風がない日は止まっている風見鶏を手で回していた。でも赤ん坊の皮膚は柔らかいから、金属の風見鶏で手を怪我するかもしれないので布を巻いて、風見鶏にじかに手が触れないようにしていた。子供は一歳前後になると、『ワンワン』とか『ママ』とか単語を言うようになるのだが、君はあの風見鶏を『クー』と呼んでいた」
当然だが、リクには佐久間邸で過ごした記憶は全くない。でも佐久間は一歳までのリクを身近で見て知っていた。まさか佐久間からリクの幼い頃の話を聞けるとは思いもしていなかった。
「君が祖父母に引き取られた後、フォレスター家の関係者の中に君を心配する者達が居た。エドの兄のような存在の二人、ジョージとフォレスト社の副社長だ。ジョージはリクを引き取り息子・智哉と一緒に育てたいと言ってくれた。娘を亡くしている為かジョージ夫妻は、子供は多い方が賑やかでいいと言って、リクの親代わりを申し出てくれた。副社長は本家の血筋の子供を放ってはおけない、アメリカで引き取ることになるが、養子にして大切に育てたいと言ってくれた。ジョージも副社長もフォレスター家には迷惑を掛けないように、しっかり子供を見張ると言って、ロバートとリリーに引き取らせて欲しいと懇願してくれた。しかし君の祖父母は、リクは桜井家の物だと突っぱねた」
佐久間は立ち上がると部屋を出た。どこに行ったのかなかなか戻って来ない。やっと戻って来た佐久間が手にしていたのは、一冊のアルバムだった。佐久間はそれをリクの方に正面を向けてローテーブルの上に置くと、一ページ目を開けた。
「お母さん」
そこには生後間もない赤ん坊を抱いたリクの母が微笑んでいた。
ページを捲っていくと様々な写真があった。白いドレスを着せられて、神社の前で母に抱かれて撮られた生後一カ月の写真。鯛と赤飯を前に今より少し若い佐久間に抱かれている、生後三カ月の写真。眼鏡を掛けた見たことのない中年女性に抱かれている生後五カ月の写真。
「この人は?」
「ベビーシッターの荒木先生だ。荒木先生はバイリンガルのプロのベビーシッターで、君に英語で話し掛けていた。君が風見鶏をクーと呼んだのも、荒木先生がウェザーコックと教えたからだ」
母屋のソファに座っている写真。廊下をハイハイしている写真。本棚で捕まり立ちをしている写真。
「由香里は君をリチャードと呼んで可愛がっていたよ。ニックネームは付けずに、いつもリチャードと呼び掛けていた。ニックネームは、大きくなって本人が決めればいいと言っていた」
リチャードは大嫌いな名前だった。同級生からはからかわれたりした。でも母はしっかり、その名前を呼んでいた。リチャードは母がいつも呼んでくれていた大切な名前だった。
更にページを進めていくと、生後十カ月の写真。リクは庭に積もった雪をバックに、紺色のスニーカーを履いて一人で立っていた。寒くないように全身をすっぽり覆う深緑色のキルトのカバーオールの防寒着を着せられて、動き難そうだ。
「君は歩き始めるのが早くて、生後十カ月の時にはもうこの写真のように自力で庭を歩いていた。一歳の誕生日の頃には歩くのが速くなって庭中をあちこち歩き回り、由香利は追い掛けるのが大変そうだった」
どこへ出掛けたのか満開の桜の木の下で撮られた生後十一カ月の写真。そして四月、ろうそくが一本立てられた小さなホールケーキを前にして笑顔の写真。
「その頃、言葉を覚え始めた君は、由香里をまだマミーと完全には呼べず、『マー』と呼んでいた。由香里はエドの写真を見せて『ダディ』と教えていた」
リクはページを捲った。しかし次のページには写真は一枚もなく、その後もただ真っ白なページが続いていた。そこから先のリクの人生にはもう母は居ない。母との思い出はない。アルバムはそう告げていた。
「この続きは、君が持っているだろう?」
佐久間はそう言うとアルバムを閉じた。
「このアルバムを君に見せる日は一生ないと思っていたんだ。君の母親と祖父母の間に問題は無く、君は母の死後、祖父母に可愛がって育てられた。その方がいいだろう、この家で過ごした時間など知らない方がいいだろうと、エドとも話し合ってそう決めた。でも君はどうやら夢で過去を見てしまう能力があるようだ。これ以上由香里の夢で、君を混乱させたくはない」
佐久間はアルバムを手に取り、リクの前に置き直す。
「リク、この写真がいるか?」
「はい」
リクは頷いた。
「データになっているから、今度、何らかの形で渡すよ」
佐久間はそう言うと立ち上がり、アルバムをしまう為に立ち去った。リクの正面に座るエドは先程と同じ体勢だ。顔は組んだ両手に隠れ更に下を向いているので、表情が見えない。遠ざかる佐久間の足音が完全に聞こえなくなった頃、ポツリと言った。
「俺はリックにもお母さんにも何もしてやれなかった」
声が震えていた。
「大丈夫か?」
佐久間はアルバムをしまって戻って来るとリクに話し掛けた。
「はい、驚いてはいますが」
「大丈夫じゃないのはエドの方だな」
相変わらず同じ体勢のエドを佐久間は憐れむような目で見ていた。
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