共同生活開始
ゴールデンウィークはほぼ引っ越しで終わった。家電と僅かな家具を除けばリクの荷物は殆どなかったし、キースも今のところ荷物は殆どない。部屋はリクとキースで一部屋ずつ使う。キッチンやリビングは共有スペースとした。今まで単身用に住んでいたリクには、2LDKが異様に広く感じられた。唯一チャンスだけはリクとキースと一緒に暮らせると、引っ越しの朝から燥いでいる。
「今日から出来るだけ家の中では会話は英語でするように」
片付けが終わってリビングでテレビの設定をしていると、自室から出てきたキースにいきなりリクはそう言われた。
「はぁ? そんな急に無理だって。不可能だって」
「簡単なことからでいいし、チャンスを利用しろ」
「チャンスを?」
「チャンスに日本語で言えば、英語に翻訳してくれる。例えば」
キースはテーブルの上にいるチャンスを床に下ろすと、リクの方へ向けた。
「チャンス、『おはようございます』を英語にしてくれ」
「Good morning.」
チャンスの声と同時にお腹の一部が明るくなって、写真のスライドショーに使った画面が現れた。画面には英語でGood morningと表示されている。
「おーっ」
「もっと長い文章でもいけますよ」
チャンスは得意げに、青い目の光を左右に動かした。
「チャンスもリク様の英語の勉強の為に、極力英語で話してあげてくれ」
「はい!」
キースはチャンスを煽る。チャンスはリク様の為という言葉を聞くと、俄然やる気満々になる。リクの役に立つ為に作られたのだから当たり前といえば当たり前なのだが、チャンスのやる気は妥協が一切ないので普通の人間のリクとしては辛くなる時があるのだ。
「フォレスター家で英語の話せない次期当主など、前代未聞だ。それに先生からの話だと、夏休みに入ったら、一度君にアメリカへ来てもらうつもりのようだ。話せないと困るだけだぞ」
「アメリカ? そんな話聞いてないよ!」
「バースデーカードに書いてあったんだ。実はバースデーカードとは名ばかりで、実際は君へのこれからの細かい連絡事項が日本語で書いてあったらしい。夏休み入ってすぐの七月の終わり頃の飛行機のチケットを取っておくから、一人で来るように。俺とチャンスはその一週間前に、一足先にアメリカに戻る予定になっている」
「ひっ、一人で?」
リクは凍りついた。生まれて初めての海外、生まれて初めての飛行機、それを一人でなんて、英語が苦手のリクには考えられなかった。
「確か外国に入国するのって、税関とか通るんだよね?」
「そうだが」
当たり前のことを聞くなと言いたそうな呆れた表情で、キースはリクを見ている。
「英語で聞かれるの?」
「運次第だ」
「運?」
「簡単な英語での質問とパスポートのみで通れる時もあるし、日本語が話せる税関職員に当たる時もある。英語で事細かに聞かれることもある」
リクは入国について聞いているだけで疲れてきたし、後二カ月半で本当に大丈夫なのか不安になってきた。
「言葉が通じると楽しいですよ」
あくまでチャンスの意見はポジティブだ。リクは見習わなければと反省する。
時刻はもう夕方の四時近かった。引っ越しの為に食料を減らしていたので、何か買ってこないと食料がない。リクは近所のスーパーで買い出しをと思ったが、ふとキースは何を食べられるのだろうと疑問に思った。リクが普通にスーパーへ買い物に行けば、買ってくる材料は日本食の材料だ。キースに食べられないと言われてもリクはアメリカ人の食事はわからない。
「スーパーに買い物に行って来ようと思うんだけど、キースは食べられない物ってある? というか、日本の食べ物Ok?」
「何でも食べられる。ただ納豆だけは無理だ。君が食べる分には構わないが」
リクは納豆は大好物である。美味しいと思うが、キースは匂いが嫌いだと付け足した。リクはキースが納豆をかいている姿を思い浮かべてみる。言うまでもなく似合わない。しかし日本語はペラペラ、日本食は食べられる、キースは以前日本に住んでいたのではとリクは予想していた。
でもその前にリクには疑問があった。『キースって何者?』と。父が家庭教師として寄越したくらいだから信頼できる人物であろうとリクもそのまま信頼しているが、あの日いきなり部屋にやって来たキースは自己紹介もなかった。修理して、連絡事項言って、引き揚げていった。折角同居するのだからと尋ねてみようと思った。
「ねぇ、キース。俺のことは父親から聞いて色々知っているだろうけど、俺はキースのこと何も知らないんだよね。一緒に生活するんだし、自己紹介をお願いしたいんだけど」
キースはあからさまに嫌そうな顔をした。
「何を聞きたいんだ?」
溜息交じりに、心底面倒臭そうに尋ね返してきた。
「何って」
「自分のことなど特に話したくもないが」
キースは明らかにリクと距離を置きたがっていた。ある一定の線を引いて、それ以上入り込むなと無言で圧力を掛けてきていた。リクがチャンスのマスターであることが気に入らないのも、リクという人間が好かれていないのもリクにはわかっていた。でも一緒に住むのだから、もう少し歩み寄って欲しかった。このままでは生活し辛い。
「じゃあ、フルネーム」
「キース=サミュエル=リード。名字のスペルはReed」
「おーっ、すげー、さすがアメリカ人、ミドルネームがある。年齢は?」
「十六歳」
「え? 十六歳? え? 俺と同い年? 大人っぽく見える。もっと年上だと思った。じゃ高校は?」
「君の一つ上だ。夏に十七歳になる。十五歳で大学を卒業していて、一年前からフォレスト社で働いている。今は君のお父さんである社長の命令で、日本に来ている」
「大学? 凄い」
「アメリカでは別に珍しくない」
「何で俺の父親は先生って呼ばれているの?」
「俺は自宅学習で学校に行っていなかったから、君のお父さんがたまに勉強を教えてくれた。だから先生と呼んでいる」
「以前日本に住んでいたの? やたら日本語が上手いけど」
「いや、ない。何度か仕事や研究の為に日本には来たが短期間だけだ。日本語は、独学とエド先生の指導とそれに日本人の教師が来た。それ以外に在米の日本人の家で、日本の文化や習慣も教わった」
キースの経歴は凡人のリクには想像もつかない世界だ。リクのような並みの頭の人間と高IQのキースでは話が合わないから、親しくしたくないのかもしれないと思いリクは凹んだ。キースの両親もやはり社長とか学者とか、兄弟も自宅学習でキースと同じ大天才とか、リクはそんな風にキースの家族を想像した。
「両親や兄弟は? やっぱキースと同じで凄い頭いいの?」
何気なくそう聞いてしまったリクは、言った直後にしまったと後悔した。キースが一瞬息を飲んだ後表情が瞬時に固まって、『あ』とも『え』ともつかない形に口が開いて、しばらく絶句していたからだ。それから目を伏せて何も言おうとしない。右手の握りこぶしを左手で包んで、その手は強く握り過ぎて指先が白くなっていた。リクの前では文句を言う時以外は冷たい無表情が多いキースが、こんなに心中を表に出すのは初めてだ。
「キース?」
チャンスが静かな声で、心配そうに声を掛ける。
「調子に乗り過ぎた、ごめん! 今の質問はなし!」
リクは地雷を踏んでしまった。
「兄弟はいない。両親はどちらも小さい頃に亡くなったから、あまり記憶はない。俺の才能を見抜いたエド先生が、孤児の俺を引き取って面倒を見てくださった。両親の死に関しては、俺の中ではもう整理はついている。気を使ってくれなくていい」
キースにとって両親の死は、整理なんてついていないし気を使わなくていいなんて嘘だと、辛そうな声がありありと告げていた。何があったのか気になるが、まだ知り合って間もないリクがキースにしつこく聞ける訳もなく、この気まずい状況を何とか誤魔化すしかない。
「えーと、何か食材になりそうなもの買ってくる」
リクは財布とスマホをエコバッグに突っ込むと、玄関に向かった。リクとキースは今同じ空間にいない方がいいだろうというリクの配慮だった。訳ありのキースに無神経な質問をしてしまった。リクは心から悔やんでいた。
駅前のスーパーまで歩いて行く道すがらリクは気付く。チャンスのチラシチェック情報を今日はまだ聞いていなかった。
二人と一体での共同生活が始まった。リクが学校へ行っている間にキースとチャンスは何をしているのか興味が湧き、リクはチャンスにこのコンビの一日の流れを教えてもらった。
まずキース。彼はリクと一緒に起きて朝食を食べると、掃除や洗濯をしてからパソコンで仕事をして、それをフォレスト社へ送っていた。それから必要ならチャンスの整備をして、チャンスと共にリクの学力向上対策を話し合い、二人で資料を作っていた。夜はリクに勉強を付きっきりで教えて(チャンスとキースの連係プレーで、英語以外の教科もやらされる。英語だけでも疲れ切っているリクにとっては滅茶苦茶ハード……)、夜遅くにアメリカのフォレスト社や社長エドと連絡を取ったり、仕事の打ち合わせをしたりしていた。アメリカと日本で時差があるので仕様がない。日付が変わるまでには仕事を終わらせてもらっているとチャンスは言っているが、未成年を働かせ過ぎだろうとリクはチャンスに感想を漏らした。
次にチャンスだ。これも朝から一日中フル稼働。昼間はキースのパソコンの画面を一緒に見てあれこれ話し合ったり、直にパソコンに繋がれたり、様々なキースの手伝いをしている。以前からずっとキースはチャンスをこうやって教育も兼ねて使っていた。時々二人で仕事関係の話し合いもする。それから夜はリクの勉強の手伝い。特にこの時のチャンスはやる気満々で、暗記モノなど間違えるとマスターのリク相手でも厳しい。
「俺はキースやチャンスとは違う。そう簡単に覚えられないんだよ!」
とリクから抗議されても、チャンスは手を緩めなかった。
最近のリクはキースとチャンスの監視の下、テレビ・ゲーム・スマホ・パソコンの時間管理もしっかりされてしまった。学校で人気の動画サイト閲覧や、SNSで繋がっている笹本・雨宮・川原・田端とのチャットも勉強後だけだった。折角スマホやパソコンの使い方を覚えたのにがっかりであった。
笹本にはリクが親の命令で共同生活を始めたのを話していて、その相手が家庭教師だと告げると、超金持ちはやることが違うなと目を丸くした。
その日も夜遅くリクはスマホに入った笹本からのメッセージを読んでいた。
『英語の宿題の答え教えてくれ。問三の……』
リクは頼まれた答えを箇条書きにして送る。Thank you を意味するスタンプが笹本から送られてきた。その後他愛無い遣り取りを二人でしていたのだが、リクは見事に途中で寝落ちした。
リクの目が覚めたのは午前二時頃で、電気は点けっぱなし、笹本と遣り取りしていたスマホは布団横の床の上に転がっていた。拾い上げたが画面は中途半端に会話が途切れていて、朝笹本に会ったら寝落ちしたことを謝らないといけないと思いながら、リクは目覚まし時計をセットした。寝落ちしたリクは、まだ歯も磨いてないしその上喉も乾いていた。水を飲もうと部屋を出てまずキッチンへ向かう。リビングもキッチンも電気は消えていたが、キースの部屋の電気が点いているのが目に映った。ドアと床の僅かな隙間から、光が廊下に漏れ出ている。キースは時差の所為で、偶に夜中に起こされて仕事をする時もあると言っていた。
チャンスはともかく、キースはこれで朝起きられるのかとリクは心配になってきた。キースはリクと同じティーンエイジャーだ。
数時間前に冷蔵庫にしまい忘れ、キッチンカウンターに出しっぱなしにしていたペットボトルの温い水を飲み切ってから、洗面所へ向かおうとしたリクの耳に、キースの部屋から声が漏れ聞こえてきた。こんな時間に何だろうと、リクは不思議に思った。チャンスと会話しているようではなく、声はキース一人だけだ。
電話の可能性が高い。リクはいけないと思いつつも好奇心から、キースの部屋のドアに近付いて耳を澄ます。そしてしっかり聞いてしまったのは、キースの話す言葉はリクでも容易に聞き取れる言葉だったからだ。
「あ、はい。そちらに滞在させて欲しいとおっしゃっていましたか? しかし社長からは決して日本に行ってはいけないと、言い聞かされている筈ですが」
日本語だった。
「連絡が取れない? わかりました。リチャード様とチャンスからは目を離さないようにします。学校の方は……そうですか。なら大丈夫そうですね。電話をありがとうございました。はい、おやすみなさい」
リクは忍び足で自室へ戻った。リクは今廊下に出たくはなかった。起きているとキースに知られたくなかった。暫く時間が経ってから洗面所へ行くつもりだった。今部屋の外にいると盗み聞きがキースにばれてしまうような気がした。
深夜のこんな時間の電話は至急の用事だ。日本に行ってはいけないと言われている誰かが勝手に日本へ来ようとしている。そしてそれが夜中に連絡を取らねばならないくらい大変な事態となっている。リクとチャンスの名前が挙がる内容の話なのに、チャンスはともかくキースはリクには電話の内容を教えてくれないだろうと思った。
読んでくださりありがとうございました。




