佐久間邸の母
試験休み三日目の朝。十二月に入ってからも然程寒い日がなかったので、今朝は凄く寒く感じた。これで平年並みらしい。キースとチャンスは仕事中。掃除洗濯を終了させたリクは、クッションを枕代りにリビングの床に寝そべってウトウトしていた。昨日は楽しかった。先輩達もいい人達だった。化学部入ろうかなと思う。そんなことを考えながら、いつの間にか眠ってしまった。そして夢を見た。
リクは佐久間家の庭に居た。大量のヒマワリが咲いていて、蝉の声が聞こえる。真っ青な空に入道雲。季節は夏だ。リクがキースと一緒に初めて佐久間の家に挨拶に行った夏休みのあの日とは違う。あの日庭にヒマワリは植わっていなかったから。
ふと視界を水色の何かが横切った。その水色を凝視すると、どうやら人だ。大きな麦わら帽子が見える。水色は服の色のようだ。その人物は屈んでしまったので庭の草花に埋もれてしまい、顔が良く見えない。パチンパチンと花鋏の音が聞こえる。その人物の手前には桔梗の花が揺れていた。どうやら桔梗を切っているようだ。暫くしてその人物は立ち上がった。麦わらから長い真っ直ぐな黒髪が見えている。女性だ。水色は彼女のワンピースの色。ノースリーブの水色のワンピースに白いエプロン。手には青紫の桔梗の花束。彼女は麦わら帽子を背中へ落とし、紐で首に引っ掛けただけの状態にした。そして鋏を持った方の腕で、額の汗を拭う。
やっと見えたその顔はリクの母だった。多分二十代の。何故母が佐久間の家に居るのか。母は大事そうに桔梗の花束を抱えたまま庭を突っ切り、家の裏へと回った。家の裏にはあの離れがある筈。母に付いて行くと、母は離れのドアを開けて中へ入った。そして母は中に入ると、ドアを閉めてしまった。リクは離れの前に取り残される。
離れには入らないようにと佐久間からは言われている。でも気になる。母は離れで何をしているのか。何故中へ入って行ったのか。あの自然と入って行った様子だと、母はきっと入ってはいけないと言われていない。
離れのドアの前には先程桔梗を切った花鋏が置かれている。リクはそれをじっと見ながら、母が出て来るのを待った。しかしいくら待っても母は出て来ない。
入ってみようかと思うが、やはりそれは駄目だ。リクが勝手に入っていい場所ではない。あそこには佐久間の恋人との思い出の品が置かれている。照り付ける太陽、喧しい蝉の声。やがてドアが開いて母が出てきた。桔梗の花は中に飾ったのか、母は手ぶらだ。屈んで花鋏を拾うと、今度は母屋の方へ歩いて行った。母屋の玄関から中へ入る。こちらはリクも一緒に中へ入った。
玄関の靴入れの上には花鋏と麦わら帽子が置かれていて、洗面所の方から水の流れる音が聞こえてきた。洗面所で手を洗っていると思われる。先程から一度も佐久間を見掛けない。留守なのだろう。佐久間の留守中に勝手に入っているなんて、母はリクとキースみたいだ。違うところは母はあの離れに入れさせてもらえている。母は洗面所から出て来ると、靴入れの脇に置いてあるトートバッグからタオルを取り出した。それに花鋏を包むとトートバッグにしまう。それからエプロンも外して畳み、トートバッグに入れた。麦わら帽子を被り、トートバッグから取り出した水筒の中身を一口飲むと、母はサンダルを履いてドアを出た。ドアに鍵を掛ける音がする。どうやら帰るようだ。
リクは門が見える窓の方へ移動すると、門へ向かい庭を突っ切って行く母の後ろ姿を見送った。
誰かがリクの肩を揺すっている。
「おい、起きろ、リク」
「うーっ」
リクは唸り声を上げながら目を開けた。目だけで周囲を見回す。
「あれ? キース?」
「どうしたんだ? 汗びっしょりだぞ。大丈夫か?」
「ええ?」
リクは手の平で額を触った。
「うわ、何だ、これ?」
手の平にべったりと汗が付いた。トレーナーの襟ぐりを引っ張り覗き込んで、体もたしかめる。リクは何故か汗びっしょりであった。顔も、首筋も、汗が流れているのを感じる。
「全身汗だくだ。どうなっているんだ? 取り敢えず、シャワー浴びて来る」
リビングは暖房を切っている。この部屋で寝て暑いなんてこの季節におかしい。リクは着替えを持ってバタバタとバスルームへ向かった。
シャワーを終え洗濯機の前を通ると、汗のシミが付いているクッションカバーがランドリーボックスに突っ込まれていた。カバーを外したクッション本体はベランダに出してあった。やってくれたのはキースしかいない。今日は天気が良くてよかったと思う。
昼食後に、何でああなったのかキースに聞かれた。
「母の夢を見た。夢の中の季節が真夏で。ただそれだけなんだけど」
悪夢を見ていたのではないが、一応エドに連絡するそうだ。
翌日の学校は答案返却日。後は何日か登校日があってから冬休みに突入する。リクと笹本はいつも通り学食で昼食を食べていた。そこへ学食で買った食べ物をトレーに乗せた水野が近付いて来た。今日はまだ雨宮、田端、川原の三人は来ていない。
「一緒のテーブルで食べていいかしら?」
水野が尋ねた。
「断る。お前と食うと、飯が不味くなる」
笹本は水野を睨みながら言った。リクは水野を無視する。
「そう。ねぇ、桜井。あんたキース君と暮らしているんだって?」
「え?」
無視を続けようと思っていたのに、その言葉に思わず反応してしまった。水野は何でそれを知っているのか。
「何で知っているって顔してる。私もまさか一緒に住んでいるとは思わなかった。でも夏休み前の状況を考えてみれば、キース君は桜井の登下校に付いて来ていたのだから、同居しているって考えた方が自然だったわね」
水野は楽しそうに話す。
「学園祭で白衣着ているあんたを見て、化学部に入ったんだろうなと踏んでいたの。一昨日化学部は皆で遊びに出掛けたんでしょう? その時の会話を聞いていた部員の一人が、今朝私に教えてくれたの」
リクは親睦会の日を思い返す。覚えがあるとすれば、駅へ向かっていた時の笹本との会話だ。きっとあれを誰かが聞いていたのだ。
「お前、やり過ぎだろ!」
笹本が立ち上がって抗議した。
「どうしてもキース君に会いたいの」
水野は、何が悪いのという顔をしている。いつも通り雨宮と田端と川原がやって来た。水野はそれを見付けるとさっさと移動していく。少し離れたテーブルに、いつも水野とつるんでいる二人の女子の姿があった。リクと笹本に声を掛けたのは多分嫌がらせなだけで、別のテーブルで友達が待っていた。
「後で化学部の誰が言ったのか確認しよう」
早速やって来た三人に今の水野の話をしている笹本は、リク以上に怒っているように見えた。話を聞いた三人も険しい顔をした。リク以外の四人は近くのテーブルで昼食を食べる水野を睨んだが、水野はリク達を見ようともせず友人達と食事をしていた。
学校からの帰り道、駅へと曲がる交差点で笹本と別れた。一人マンションに向かおうとすると、前からキースが歩いて来た。タートルネックのインナーに、フリースのパーカーとダメージジーンズ、スニーカー、ボディバッグ。特に高級品や流行の最先端の物は身につけていない。それだけだ。なのに、相変わらずオーラが凄い。
「迎えに来たんだ。やはり心配だから」
キースはそう言ってリクを見下ろした。
「ありがとう。仕事忙しいだろう?」
「ああ、でもリクがこれほど側に居て、御二人が黙っているとは思えないからな。用心するにこしたことはない」
しかしリクは祖父母よりも、水野の方が気になった。とうとう一緒に住んでいるのがばれてしまった。それをキースに話しておいた方がいい。
「俺達が一緒に住んでいるのが水野にばれた。住所とかも調べられるかもしれない」
「え? 何で?」
「一昨日の化学部の親睦会で、俺と笹本が話しているのを聞いた誰かが、水野に教えたらしい」
「そうか。何らかの形でそういう情報は漏れていくな」
キースは怒っている様子はない。二人で並んで家に向かう。水野に尾行されているのではないかと、リクはビクビクしながら歩いていた。
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