思い出した恐怖
金曜日。時刻は夜九時。エドは仕事が終わらずパソコンと睨み合っていた。机の上にはチャンス、エドの斜め後ろには椅子に座りパソコンを膝にのせたキースが居て、三人総出で仕事を終わらせようと必死になっていた。ローテーブルの上にはピザがのっているが、リクは眠くて殆ど食べていない。事の発端はエドが何とか土曜日から火曜日まで四連休を取ろうとした所為で、エドが不在の平日二日間にやらねばならない仕事を、今日中に終わらせようと無茶をしているからであった。
「キースとチャンスがいれば何とかなると思っていたんだ」
リクにはエドの仕事はわからないから、ただ三人が仕事を終えるのを待つしかない。十時頃やっと目処が付いたらしく、
「キース、チャンス、やっぱり二人は頼もしいな」
とか何とか褒めているエドの声を最後にリクの記憶は途絶えた。リクは八時半頃からずっと眠かった。
目を覚ますと朝。自分の部屋。リクはまた運んでもらってしまった。しかしどうしてこんなに眠いのか、一旦眠ると目が覚めないのか。時刻は六時半。廊下に出て一階を見下ろすと人気はない。ただローテーブルの上にチャンスが置かれていた。朝食を作るには丁度いい時間だが、昨晩エドとキースとチャンスがあれからどうなったのかをリクは知らない。果たして何時に起きてくるかわからないから、食事の支度は誰かもう一人起きて来るまで待つことにした。
「おはよう、チャンス」
一階に下りてチャンスに声を掛ける。
「おはようございます」
「昨日はあれからどうなった?」
「今朝は真っ先にリク様が起きて来られるかもしれないと、あれからの説明の為に私がここに置かれました」
「大変だったんだ」
「仕事が終わったのは十一時半頃です。それから家に着いたのが十二時十五分頃。二人はピザの残りを温めて食べていました。寝たのはキースが十二時五十分。エド様が一時半でした。リク様は昨晩殆ど食事を取られていないので、お腹が空いているなら先に朝食を食べていていいと伝えて欲しいと、私はエド様から頼まれました」
二人共そう簡単には起きて来そうもない。リクは冷蔵庫から牛乳を取り出すとコップに二杯だけ飲んで、キッチンカウンターの上に置かれている瓶の中に入っているチョコレートソースのかかったクッキーを二枚取り出すとそれを食べた。それからシャワーを浴びるとチャンスを連れて自分の部屋へ戻った。
「誰か起きて来るまで数学をやりたいから手伝って」
「わかりました」
それから二時間半、九時半にリクの部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
「おはよう」
と言いながらドアを開けたのはエドだった。
「一階にチャンスがいないから、やっぱり起きていたか。朝食は?」
「おはよう。まだ。これから一緒に食べよう。キースは?」
「まだ寝ている。作って置いておくか」
リクはチャンスを連れてエドと一緒に一階に下りると、チャンスを食卓に置いてエドと朝食を作り始めた。
「最近ずっと一人暮らしだったから、朝食なんていい加減だったな」
「料理不得意?」
「ばれているか」
リクは先日キッチンで、キースとセシリアに挟まれて困っていたエドの姿を思い出した。寧ろ二人の邪魔をしていたような。今朝エドは豪快に卵をフライパンに投入してスクランブルエッグを作っている。リクはその横でトマトを切っていた。朝食の支度ができてもキースが起きて来ないので、二人で先に食べる。
「キース良く寝るね。珍しい」
「あー、昨晩扱き使ったから疲れているんだろう。可哀想なことしたかな」
食べ終わったエドは食器を片付けるとシャワーを浴びに行った。時刻はもう十一時。リクは未だに朝食でお腹一杯。昼食をどうしようか色々案を考えながら、自分の部屋の荷物からこれから勉強する教科の教科書とノートを選び一階へ下りた。暫くしてエドがびしょ濡れの髪から滴を落としながらシャワーから戻って来て、ガウン姿でソファに座ってタブレットを見始めた。
「キース随分と寝るな。ちょっと様子を見て来てくれないか?」
チャンスを側に置いて食卓で教科書を広げているリクに向かって頼んだ。
「うん、いいよ」
リクは二階へ行くとキースの部屋のドアをノックした。返事はない。
「キース!」
声も掛けたが返事はなかった。
「返事がないんだけど」
一階のエドに向かって吹き抜けから言う。
「心配だから中に入って一度起こしてくれ」
「え?」
リクはその場で動けなくなった。中に入るって、キースの部屋の中に入るなんて、リクができる訳ない。起こすなんてとんでもないことだ。寝ている時は絶対近付くなとキースにも言われている。『起こす』という言葉に、突然キースの部屋のドアが怖くなってきた。
「お父さんが起こして!」
廊下にへたり込んだリクは、首を振りながらそう叫んでいた。エドが二階へと駆け上がって来る音が聞こえる。
「リック?」
リクは目の前に現れた驚いた顔のエドにしがみ付いた。その時キースの部屋のドアが開いた。リクは恐る恐るキースを見る。
「おはようございます。……一体何が?」
キースは着替えもせず爆睡していましたという姿だった。ボサボサの寝癖が酷い髪と昨日の服装のまま、寝惚け眼でリクとエドを見ていた。リクはキースから目を逸らした。
あの日の記憶が蘇る。キースにタオルケットを掛けようとして。その後。急に背筋が寒くなる。首を絞めるキース、困惑した顔をするキース。次々と頭に浮かんできて、恐怖感と罪悪感が綯い交ぜになってもう収拾がつかない。リクは震え始め混乱して頭の中がぐちゃぐちゃだ。
エドがすぐさまリクを抱えた。リクは横目でキースを見る。キースはドアの前で固まっている。
「キース、朝食を食べちゃってくれ。リックを落ち着かせるから話はその後だ」
エドはそう言ってから階段へ向かう。
「わかりました」
リクを抱えたエドは一階へ下りて行った。キースがノロノロと一階に下りて来て、キッチンに向かう足音が聞こえる。一階に下されソファに座らされたリクは両足をソファの上にのせ、両腕で膝を抱えて震えていた。
「すっかり忘れていたよ」
エドはリクの頭を優しく撫でた。リクも段々と落ち着いてくる。震えも治まってきた。そこまできてやっと頭が真面に働き出した。自分は何をやっているのか。途端に自分の今とっている行動がもの凄く恥ずかしくなる。
「ごめんなさい。もう大丈夫だから」
急いで両腕を緩め座り直し、深呼吸をした。
「暫くこうしていろ」
エドはリクの頭を自分の胸に付けると背中を摩った。
「お、お父さん!」
「いいから」
エドの力が強くてリクは頭を離せない。食事を終えたキースが皿をキッチンに運んでいる気配がしている。それからシャワーを浴びると言って二階へ戻った。
「あんなことはもう起きないよ。口で言ってもそう簡単には信じられないだろうけど」
何を根拠にそう言っているのかはわからないが、エドがそう言うなら大丈夫だろうとわかる。でもさっきは怖かったのだ。
「本当に大丈夫だから」
親にくっ付いているのもかなり恥ずかしい。リクはエドの胸を手で押して何とか離れる。
「午後に日本食材のあるスーパーへ買い出しに行こう」
「うん」
リクは教科書をしまうと食卓の上に英単語の本を広げて、チャンスを横に置いて勉強を始めた。エドはシャワーを終えてリビングに来たキースを呼び止め先程の一件の説明をしている。キースはどんな思いでエドからの説明を聞いているのかと思うと、リクは二人の方を向けない。目の前の英単語も殆ど頭に入らなかった。
読んでくださってありがとうございました。




