桜と少女
火曜日はまた三人で会社に行くことになった。セシリアは今日はこの周辺に住む友人に会うそうで、昼少し前から出掛けると言っていた。
会社に着くとリクは会議室へ行かされた。またこの部屋で宿題をしたりゲームをしたりスマホを使ったりすればいいのだろう。問題集を広げているとサイモンが入って来た。
「リック、元気になった?」
「熱も下がったし、もう大丈夫」
「皆心配していたんだよ。昨日リックが来なかったから」
「ありがとう。皆にも元気になったって伝えて」
またサイモンが他の社員に頼まれたのだろう。英語が話せるようになりたいと思う。そうすれば社内の皆と話せるし、ダニーとだってもっと話ができたのだ。でも英語が最不得意科目であるリクには難しい。サイモンが会議室を後にしてリクは勉強に取り掛かった。今日やる社会科系は覚えるだけだ。会議室は静かだし丁度いい。本を丸暗記できるキース程の頭なら、暗記物の苦労なんて無いのだろうと思うと羨ましい。脳レベル標準のリクは覚えても直ぐ忘れる。キースの脳とリクの脳の構造の違いに、神様は不公平だとリクはちょっと神様を恨んだ。
十一時を過ぎた辺りからリクは急に眠くなってきた。昨晩はよく眠れたし今日は睡眠不足はない筈なのだが、まだ疲れが取れていない気がする。隣の椅子を引き寄せて上半身を乗せて横になって眠った。
「リック!」
誰かの大声。体を揺すられる。眠くて仕様がないのにどうにか目を開ける。目を開けたリクの顔を間近で覗き込んでいるのはエドだった。
「リック? 大丈夫か?」
リクを呼んで体を揺すっていたのもエドだった。そして会議室の透明の仕切りの向こうから数人の社員がリクを見ている。
「お父さん? どうしたの?」
「具合が悪いのか?」
「え? いや、寝ていただけだけど」
「会議室の前を通り掛かった社員の一人が、お前が倒れているみたいだと連絡をくれて急いで来たんだ」
「眠くなったから寝ていただけなんだけど、良くなかったみたいだね。周りを驚かせて」
「本当に何でもないんだな?」
「何でもない」
会議室の時計を見るともう直ぐ十二時。
「昼は食べられるか?」
「うん。お腹空いた」
食事を取りたがるリクを見て、エドは嬉しそうだった。
「もう直ぐキースも来るだろう。三人で何か食べに行こう」
エドは会議室を覗き込む社員達に、リクが問題ないことを伝えに行った。
その晩三人が家に戻るとセシリアは居なかった。エドの話では夜も友人達と食事の約束をしたらしい。エドも誘われたが、仕事が残っているのとリクの体調が心配なので断ったと言っていた。リビングのテーブルでリクがキースとチャンスから数学を教わっている。エドはソファで寝ていた。リクが熱を出して週末休めなかった所為で疲れているのだろうと、リクはエドの為に極力静かに過ごした。
食洗機が仕事を終えたのか止まった。リクとキースで中の皿を食器棚に戻していく。今日の夜はステーキを焼いたりして、がっつり系の夕食であった。エドはリクを太らせないと心配だと言う。確かに元からリクは骨の細い体付きだが、今のリクはそれ以外も細い。周囲から心配されるレベルの細さであった。
夜九時半。エドは相変わらずソファで寝ているし、キースは本棚の前に立ちチャンスの為の本を探している。チャンスはそのキースの足元に置かれていた。食卓からその光景を眺めているリクはもう眠くていられない。実は昼食を食べた後午後中眠くて、会議室で何度も居眠りをしていた。帰りの車の中でも寝そうだったし、この時間でもう起きているのは限界だった。エドとキースに挨拶をして部屋に戻った。ベッドに横になると直ぐに眠りに落ちた。
枕に顔を伏せで寝ているリクの背中を誰かが揺らしている。眠いのだから止めて欲しいのに。
「リク!」
キースの声だった。
「起きろ! 七時だぞ!」
七時と聞いて、やばいとか朝食の支度が間に合わないとか学校に遅刻するとか色々なことが頭の中を駆け巡って、リクは飛び起きた。目を覚まして再認識する。エドの家のリクの使っている部屋。部屋の中をぐるりと見回してやっと思い出す。日本ではない。リクが居るのはアメリカだ。
「大丈夫か?」
「え?」
「昨日の夜九時半から寝っぱなしだぞ」
今、朝七時ということは九時間以上寝ていたということになる。その間全く起きなかった。リクは驚いて何も言えない。
「朝食はできている」
急いで着替えて一階に下りると、キースが一人で朝食を作ってくれていた。エドはソファで寝ている。昨晩リクが寝る時もソファで寝ていた。余程リクの所為で睡眠不足なのかと心配になった。エドの方を見ながらテーブルに着くと、リクは昨日と違うあることに気付いた。
「あれ? 朝食三人分?」
「セシリア様なら昨晩サンフランシスコのホテルに移った。御両親が滞在しているのだそうだ。昨晩リクが寝てから色々あって、それで先生はお疲れで横になっている」
リクはキースの色々という言葉が気になった。一体何があったのか。昨晩リクが寝ているうちにセシリアは出て行った。考えてみれば五日間一緒に居たのに挨拶以外リクとセシリアは全く話さなかった。言葉が通じないし、セシリアから見ればリクは邪魔者だし、ウィルの家出はリクが原因だし、でも最終的に妻のセシリアの方が出て行った。
「昨晩何があったかは後日聞かせるから」
キースはそれだけ言うと、朝食ができたとエドに声を掛けた。
会社に着くと今日はリクは社長室へ行かされた。具合が悪ければ横になれるようにと三人掛けのソファに座らされたが、前に置かれているこのローテーブルはちょっと宿題がし辛い。高さ的に机の方が書き易いが仕方ない。昨日リクが会議室で寝てしまってちょっとした騒ぎになったので、今日はエドが見張る為、社長室へ連れて来られた。リクは昨日同様今日も眠い。エドは眠ければソファで寝ていいと言う。結局宿題は捗らず、リクは午前中から寝ることになった。こんなに眠かったら学校が始まったら授業中寝てしまう。でもリクは九月から学校に行きたかった。
目が覚めると丁度お昼だったが、流石に寝過ぎたのかお腹が空いていなかった。リクに昨日同様食べさせる気満々だったエドはがっかりしていた。やって来たキースに何か昼食を買って来てくれるように頼んでいる。それをボーっと見ているとまた眠くなってきた。
午後も直ぐにソファ横になってしまったので、エドから再びダニーを呼ぼうかと声を掛けられた。でも眠い以外何もないので、ダニーを呼ぶ必要はないとリクは思う。どうせあの夢を見た夜は眠れないのだから、今のうちに寝ておこうと気楽に考えていた。でも土曜日の夜に見て以来、あの夢は見ていない。
でもその晩、リクは夢を見た。その夢はトーチではなく、満開の桜の花を見上げる女の子。後ろ姿だから顔はわからない。髪が黒いし、和服を着ているから日本人だろう。桃色の着物が、日の射す眩しい春の景色と一体化していてとても綺麗だ。強めの風が吹いて桜の花びらが散る度に、女の子の長くて艶のある黒髪もサラサラと揺れる。顔が見たいと思っても、女の子の前に回り込めない。体が動かない。声を掛けたくても出なかった。音のない世界だからわからないが誰かが声を掛けたのか、女の子は笑顔で振り向いた。女の子は何か言っているけれど聞き取れない。口の動きも読み取れない。でも顔に見覚えがある。その嬉しそうに微笑む顔は、アルバムの写真で何度も見た、十代の頃のリクの母だった。
驚いて目を覚ますと、体を起して辺りを見回した。今は夏。ここはアメリカ。桜も着物も海の向こうの文化の物。単なる意味のない夢としかリクには考えられない。時刻は午前三時半。昨晩また九時半に寝てしまったから六時間は寝ているし、今日は寝直せなくても睡眠時間に問題はないとリクは考え寝直すのを諦めた。
朝六時半。朝食を作りに一階へ下りた。あれから寝ていないが特に問題はない。食欲もある。やはりトーチがらみではない単なる夢だった。
「夢を見たのか?」
チャンスと仕事をするキースは確認するし、
「何かあったのか?」
とエドも心配する。
「違うよ。大丈夫」
と言ってみたが、二人は不審な目でリクを見ていた。昨日一昨日とあれだけ寝っぱなしだったリクが朝食を作っていると、エドもキースも心配なようだった。
今日も社長室で過ごすが、宿題をしようと思ってもあの十代の母らしき少女が頭から離れなかった。心底嬉しそうな笑顔。あの笑顔は一体誰に向けられていたのだろう。あの夢が実際にあった出来事のように思えてしまう。ただの夢なのに。ぼんやりして手が止まっているリクにエドが声を掛けた。
「何か変だぞ。やっぱり例の夢か?」
「え? あ、いや、そう言う訳じゃ」
「念の為にキースにチャンスの使用を控えるように連絡しておく」
エドが電話に手を伸ばしたので、リクはとうとう白状するしかなくなった。
「昨日の夜は、いつもと違う夢を見たんだ」
エドが上げかけた受話器を一旦置く。
「十代の、少女の頃の母親が、和服を着て桜の木の下に立っている夢」
その一言で、エドは息を呑んで目を見開いた。暫くそのままでいたが、やがて半開きの口を閉じて目を伏せる。それからいつまで待ってもエドは何も言わない。
「お父さん?」
沈黙に耐えきれずに先に口を開いたのはリクだった。呼び掛けられたエドはそこでやっと我に返ったようで、リクに顔を向ける。仕事中であることも傍に居るリクの存在も忘れ、エドは何かを考え込んでいた。しかもかなり深刻に見えた。
「何でもない。その夢で不調を感じたら言いなさい」
エドは首を振りながらそう言って仕事に戻った。昨晩の夢の話をした時のエドの反応はかなりおかしかった。リクがトーチの夢を見ると過剰な程心配するのに、今日のエドはここで話をすっぱりと打ち切った。
エドにはこの夢にはこれ以上触れて欲しくない何かがある。エドは知っている、この夢の意味を。そしてそれをリクに隠している。リクはそう言いきれた。
この日のリクは調子が良かった。昼間眠ることもなく勉強やゲームをし、昼食もしっかり食べた。三時頃にもお腹が空いてスナック菓子を摘まんだ。その様子を見ていたエドはその晩リクを寿司を食べに連れて行った。寿司なんて祖父母が元気だった頃回転寿司に連れて行ってくれた以外、リクは食べに行った記憶がない。最近のリクにしては結構食べたので、エドはリクの滞在中にまた寿司屋へ連れて来たがっていた。週末に観光へ行けるかとポールとダニーに相談したらしいが、まだ止めた方がいいとどちらからも却下された。どこへ連れて行きたかったのかエドは残念がっている。
寿司屋からの帰りの車の中で居眠りをしていると、寝ていいとエドから声を掛けられた。昼間は眠くならなかったが今は眠い。先週こうやって眠って朝まで起きなかったのをリクは思い出した。今日は家に着いたら一旦は起きるぞと心に決める。
家に着いた時何とか目が覚めた。目が覚めたと言っても眠くてフラフラする。車を降りた直後転びそうになって、キースに支えられた。病み上がりに調子に乗り過ぎた。部屋に直行したリクは着替えもせずベッドに倒れ込んだ。
読んでくださってありがとうございました。




