不機嫌なチャンス
「リク!」
部屋のドアがノックされた。この声はキースだ。もう朝なのかと時計を見ると八時半を指していた。リクは今朝も体が熱くて怠い。
「キース?」
起き上がりドアまで歩いて行くと、少しだけドアを開けて廊下を見た。やはりキースが立っていた。
「また熱が上がったのか?」
挨拶を交わすとキースがリクの顔をじっと見ながら言った。
「今起きた。まだ測っていない」
「朝食は食べられるか?」
「少しなら」
その場で熱を測ると三十八度だった。リクは再びベッドに横になる。部屋にエドが入って来た。リクは目を開けて挨拶だけすると、また目を閉じた。体がきつかった。エドはキースからリクの状態を告げられるとダニーに連絡を取ると言って、携帯の置いてあるリビングに下りて行った。
リクも着替えると一階に下りた。食事の支度をしているセシリアに挨拶だけすると、ソファに座って背凭れに寄り掛かる。食事の支度を手伝いたいが、立っているのは辛かった。キースがリクに近寄って来た。
「生のお米があるんだ。お粥を作るが時間が掛かるから部屋に戻っているか?」
「え? でも」
「華から貰ったレシピは全部頭に入っている」
キッチン方向を見ると、普通の朝食はでき上がっているらしく、次々と食卓に運ばれていた。セシリアの居なくなったキッチンでキースがお米を研ぎ、それを鍋に入れて火に掛ける。キースの料理をエドが珍しいのか覗き込んでいた。
「多めに作っておけば、お昼にもリクに食べさせられます」
「それも華が?」
「はい」
「あの夫婦には感謝しないといけないな」
リクは部屋には戻らずそのままソファに横になり、自分はキースに感謝しないといけないと考えていた。そういえば昨晩からチャンスを見ていない。社長室でキースの鞄に入れられ家に連れて帰られ、そのままキースの部屋で過ごしているのだろう。でも何故部屋から出て来ないのか。セシリアがチャンスを知らないから外に出せないのかと思ったが、彼女はウィルの母である。チャンスを知らないとは思えないが。
「リク、起きられるか? お粥ができたぞ」
そのままうつらうつらしていたらキースに声を掛けられた。お粥ができたと聞いて美味しそうだしそれなら食べられそうだと思い、リクは上体を起こすと食卓の方を見た。キースはお粥ができるまで朝食を食べるのを待ってくれていたらしく、エドとセシリアの食器は片付けられキースとリクの食事だけが対面に置かれていた。エドとセシリアはリビングには居ない。ソファをリクが占拠していたので別の部屋に行ったのかもしれない。
「先にキースはお父さん達と食べていてくれてもよかったのに」
「だからあの二人にはかかわり合いたくないと言っているだろう」
冷めた朝食を軽く電子レンジで温めて、キースはあの空気は迷惑だと言いながら食事を始めた。リクの前には梅干しの入ったお粥と長ネギの味噌汁と日本茶。リクは今朝もキースに感謝した。
「ありがとう。いただきます」
「午後になったらスーパーに行ってくる。日本食材を増やそう」
「そういえばチャンスはキースの部屋? 見掛けないけど」
キースのフォークを持つ手が不自然に宙で止まった。
「後でリクの部屋に連れて行く。チャンスは今、最大に不機嫌だ」
リクはチャンスが何かを拗らせているのを感じ取った。でもそれが何なのか思い浮かばない。
朝食後リクは自分の部屋で寝ていた。目を覚まして時計を見るともう二時近くて、エド達は昼食は食べたのだろうかと部屋の外に出てみると、本棚に居たキースが直ぐにキッチンへ行って今朝の残りのお粥を温めてくれた。エドとセシリアはソファに並んで座ってテレビを見ている。リクがお粥を食べ始めると、セシリアとキースがガレージへ繋がるドアへ歩いて行った。
「食べ終わった食器は水に浸けといてくれ」
キースはそう一言だけ言い残して、ドアの向こうへ消えて行った。
「これからダニーが来るんだ。だから俺が留守番で、セシリアとキースにスーパーへの買い物を頼んだんだよ」
エドが説明してくれた。そういえば午前中、日本食材を増やすとキースは言っていた。リクは食事を終えると御飯の糊をふやかす為、言われた通りに食器を水に浸けた。
三時近くなってダニーがやって来た。その時リクは二階の自分の部屋で横になっていた。眠ってはいない。ドアを開けて入って来たダニーに英語で簡単な挨拶だけした。ダニーは少し驚いた顔をする。エドの話だとリクが全く英語を話せないとダニーは思っていたらしい。今朝の体温が三十八度、午後になって三十八度五分に上がった。食事は軽い物を食べているし昨晩は眠れた。エドがそんなリクの昨日から今日に掛けての様子をダニーに通訳してくれた。その後暫く、エドとダニーが英語で話をしていた。込み入った話なのか大分経ってからやっとエドがリクの方を向く。
「治療は眠らせた方がいいか起きたままで大丈夫か聞かれたんだが。いつもはどっちだ?」
「え? そういえばポールさんは最近は俺を眠らせない。何か、最初は眠らせるとか聞いたけど」
思い返せば確かにポールは最初の二回はリクを眠らせた。それ以降は眠らされていない。それをエドからダニーに伝えてもらう。ダニーは医師と患者の相性もあるので、一応今日までは眠らせて治療すると言ってリクを眠らせた。
次に目を覚ますと部屋には誰も居なかった。時計を見ると五時。ダニーはもう帰ったであろうし、エドは一階かもしれない。ドアが開いてエドが入って来た。手にはペットボトルの水と、マグカップを持っている。マグカップからはコーヒーのいい香りが漂ってきた。
「飲むか?」
エドはリクに水を差し出した。リクは受け取ると上半身を起こし、蓋を開けて飲み始める。エドはマグカップを机の上に置くと、リクの背中とベッドの背凭れの間に枕とクッションをいくつか重ねて入れて、体勢が楽になるように寄り掛からせた。それからマグカップを持つと机の椅子を引っ張って来て、リクのベッドの脇に座った。
「株分けされトーチからの圧力が強すぎて、今は体温を三十七度台前半まで下げるのが限界だそうだ。それにまずは睡眠と栄養を取って体力を戻さないと。日本に居た頃ポールもそう言っていただろう? これからダニーはリックが平熱に戻るまで毎日来てくれる」
ドアがノックされた。ドアを開けて入って来たのはキースとチャンスだった。
「リク様! 大丈夫ですか?」
キースの腕に抱えられたチャンスは、リクを見ると大きな声で言った。
「ああ、大丈夫だよ。仕事させてもらえなくて毎日退屈だろう、ごめんな」
「いえ。仕事以外にやることもありますから」
朝食の時、キースはチャンスが不機嫌だと言っていた。いま明らかな不機嫌には見えないが、仕事以外にやることという言葉がリクには引っ掛った。キースの溜息も聞こえる。
「仕事以外って、何をしているんだ?」
嫌な予感がしてリクは恐る恐る尋ねた。
「人間達の観察と分析です。この町ではリク様エド様キース以外は信用できません」
「何で?」
チャンスの極端な物言いにリクは思わず聞き返した。
「まず、あの医者です」
リクはダニーを思い浮かべる。でも言葉が通じないし会ったばかりだし、どんな人間かよく知らない。
「昨日社長室に入って来た時の第一声が、『エド様、今週二度目ですよ。人使いが荒いですね。というか何でこんなに怪我人や病人ばかりここには居るんですか? それに高校生の発熱なんてただの風邪ですよ。寝てりゃ治ります。金曜の夜に勘弁してください』でした。その後既に一週間以上前にポールから送られてきているカルテを、タブレットでのんびり見始めたんです。一向に治療を始めないのでエド様が冷ややかな視線を送って声を掛けたら、『ポールから来たカルテを見直しているんです』とばればれの嘘を吐きました。エド様に『見直しているんじゃなくて、初めて見ているんじゃないのか?』と指摘されたら、『流石鋭い。ばれましたか』と笑って全く反省していません。ポールのカルテを読んだ後、『こういう状態だとは知りませんでした』と今度は血相を変えて治療を開始。あの男はリク様を何だと思っているんですか」
それで機嫌が悪いのかとリクは思ったのだが。
「次はあの女性です」
まだ続きがあった。
「止めろ、チャンス!」
キースがチャンスの話を止めようとした。リクはあの女性とは誰だろうと一瞬考えたが、キースが止めるに入るということは考えられる人物は一人。
「構わないよ、セシリアのことだろう。何があったんだ、チャンス」
「昨日キースが私を鞄にしまう為に布で包んでいた時、あの女性が私を怖い顔で睨んでいました。あの目、敵意を感じます。私に彼女の息子の家出の責任はありません」
エドもキースも気付かなかったと言っている。リクもあの時は体が辛くて周りの状況など気にしなかった。
「更に会社で起きた銃絡みの事件。おかしな人達ばかりです」
リクは早く真面な仕事にチャンスを戻してやりたくなった。人間達の余計な行動や感情ばかり見せられるのではチャンスが可哀想だ。
「チャンスは優秀だな。正しいよ、その観察と分析は」
エドは満足そうに言う。
「医者のダニーはいつ来るかわからないし、セシリア様は一日中家の中をウロウロしている。二人の顔を見たくないし特にセシリア様には危険を感じるからと、チャンスは俺の部屋に立て籠もった。でもさっき丁度ダニーは帰ったし、セシリア様は気に入らないがリクだけは好きだし、やっぱりリクの様子が心配だから会いたいと、我慢できずに俺の部屋からここへ来た」
「ここでリク様の観察分析をしろとキースは言います。暫くこの部屋に立て籠もります。あの女性をここに近付けさせないでください」
リクは目眩がした。キースは何を言っているのか。観察も何もリクは寝ているだけだ。
「でもなぁチャンス、ダニーは五人兄弟の末っ子で甘ったれでいい加減なところもあるけど、あれでも良心的な方だよ。他の医者は全員俺から逃げたから。もっと年配のベテラン医師も何人かサンフランシスコ周辺に居るには居るんだが、皆仕事が忙しいとか何だとか理由を付けて断ってきた。ロバートやリリーに睨まれている相手とかかわり合いたくないというのが本音だろう。ダニーは他の医者達を医師のくせにとんでもない奴らだと非難していた。ただリックの体調を知らなかったから、十代で若いんだし何事もなく帰国するだろうとダニーは軽く考えていたようだ。セシリアについては全部俺が悪い」
エドはリクの背中の下の枕を一つだけ残して、残りの枕とクッションを外した。それからリクに横になるように言った。キースはチャンスをリクの方に向けて机の上に置く。
「暫く寝なさい。リクの夕飯はキースに何か作ってもらうよ」
「さっき買い物で和食の材料を増やした」
「ありがとうキース」
リクはチャンスの青く光る目を見ながら、ゆっくりと瞼を閉じた。
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