二日間連続
事件の夜。時刻はもう直ぐ夜中の十二時。寝付けないリクはベッドに座っていた。神経が高ぶっているのか眠くならない。それでも仕方なくベッドの上に横になってみると、暫くしてうつらうつらし始めた。でも眠りが浅いのか直ぐに目が覚める。それを繰り返しているうちにあの夢を見た。
先日と同様トーチは目の前に在った。高さも五十センチ位。その近さと迫力に先日も何となく感じていたが、夢のこれはリクのではなくエドのトーチだと今日は確信した。必死に足を踏み出そうとするが足は全く動かない。それでも体を前に進めようと足に力を入れたら、無様に転んだ。腕の力を使って起き上がろうとしたが、体は言うことを聞かない。そのまま腕で体を引き摺るように前に進む。体が重くて殆ど前には進めない。両腕が地面と擦れてヒリヒリした。擦り剝けているのかもしれない。全身から汗が出て息が切れてきた。後もう少しなのに……。
リクは飛び起きた。全身汗びっしょりだった。呼吸もまだ荒い。時刻を確かめたら午前四時十五分だった。日本に居た頃とは夢が変わってきた。何とか息を整えて、再びベッドに横になる。しかしこの日は日本に居た頃同様、再びは眠れなかった。事件の影響かもしれなかった。
朝六時に着替えて一階に下りた。まだ誰も起きてきていない。ほぼ毎朝キースが立ち読み――立ち捲り――している本棚の本の一冊を手に取ってみた。それは英語で書かれた日本語文法の本。でもエドもキースもこれが必要ない位日本語が上手い。キースは日本語は勉強したと言っていた。リクはエドがいつ日本語を覚えたのか聞いたことが無い。リクの母と出会った頃だろうか。リクの知っている母の姿は、仏壇の写真と祖父母が持っていたアルバムの写真の姿だけだ。アルバムの写真は母の赤ちゃんの頃から二十歳位にかけての、ごく普通の成長の記録だった。遺影の写真も二十歳頃の写真を使っていた。母は二十七歳の時に事故で急死したと聞いている。リクを産んで一年位だった。
日本語文法の本を本棚に戻すと、朝食を作ろうとキッチンへ移動した。リクは夢の所為で食欲はないが、二人は起きてきたら朝食を食べるだろう。チャンスは今朝はキースの部屋に居る。昨日の一件で仕事が遅れているので、夜少し進めておきたいと仕事を持ち帰ったキースの部屋でそのまま過ごした筈である。まずはエドが起きて来て、十五分後にキースがチャンスを抱えて階下にやって来た。皆に挨拶をすると適当に作った食事を並べる。こういう日、リクはまずキースに睡眠不足を言わなければならない。言うとキースはいつも「わかった」とだけ言って後は特に何も言わない。今朝もそうだった。リクの食欲のなさをエドがかなり心配していた。キースは見慣れているようで、黙々と隣で食事をしていた。
その日も会社に連れて行かれて、今日は社長室に居るように言われた。昨日のこともあるし、リクの具合が悪くなったら直ぐに対処したいからだとエドは言っている。日頃はこの位なら学校に行って授業に出ているリクにとっては、エドが大袈裟にしか思えない。ローテーブルを使って宿題をしながらローテーブル上のチャンスを見ると、暇そうに立っていた。リクが睡眠不足でなければ今頃キースと仕事ができていただろう。日本でもこうして、仕事をしているキースの横でじっとしているのかと思うとチャンスが可哀想だった。
昼になったが食欲はない。こういう日、学校では学食で饂飩を食べたり、自販機で冷凍焼きおにぎりを買ったり。エドが自分の昼飯用にサンドイッチを買って来て、少し分けてくれた。これ位でリクはもう十分だった。夕方までには毎回お腹が空いてくるから夕食は食べられるのでリクはそう気にしていない。昼食が終わるとエドはリクに少し横になれと言った。眠くもないしその必要もないと思うのだが、ソファに寝かされ膝掛を掛けられた。だからいつもは学校に行っているのだと抗議したくなったが、一旦は大人しく言うことを聞いた。でも三十分もすると横になっている気にはなれなくて、起き上がると宿題を始めた。ちょこちょこチャンスに手伝ってもらう。チャンスにとっては朝飯前だ。でもエドはリクを気にしている。移動も車だし学校に居るよりはずっと楽なのにとリクは思う。
夜になってキースがやって来た。今日は一日顔を見なかったが、チャンス抜きで何をしていたのだろうと気になった。キースは初日以外はずっとカジュアルな服装で会社に来ている。会社の中にもスーツじゃない社員が何人も居た。夏場で暑い所為か、エドはスーツの上着は着ずに持ち歩いているだけだ。Yシャツも長袖を袖捲りしていた。
「キース終わった? じゃあ、帰るか」
エドも帰り支度をする。リクもテーブルの上の宿題を片付けて、チャンスをキースに渡した。チャンスはスリープモードにされると、衝撃吸収用の布に包まれキースの鞄の中にしまわれた。帰りの車の中リクは居眠りもせず、寝不足で重い頭を車のドアの窓に押し付けてぼんやり考えていた。どうしてこんなことになっているのだろう。変な夢は見る。殺されそうになる。全部エドの所為だ。次期当主なんてものを押し付けて。生活を引っ掻き回して。でも、チャンスもキースもスティーブもリクは出会えて良かったと思っている。こんな状態にならなければ出会えなかっただろう。学校に友達もできた。この四か月間でリクの生活はそれまでとガラリと変わった。周りに増えた人々だけは失いたくない。一年前の生活に戻されるのは今となっては怖かった。
その晩は夕飯を食べ終わると早く寝るようにエドに言われた。エドの口調は心配の混じった強制的なものだった。せめて夕飯の片付け位は手伝いたいと言ったのだが、聞き入れてもらえなかった。まだ九時前だというのにベッドに入る。それでも目を閉じればうつらうつらし始めた。
目の前にはトーチ。まただ。近付きたくても足が動かない。無理に足を動かしたら昨晩同様また転んだ。どうすることもできず手元の土を両手で握り締める。顔を上げると何か言いたげにトーチが燃えている。リクは歯を食いしばり、立ち上がろうと両腕に力を入れた。思い通りに動かない体と格闘する。
どうして株分けされたトーチは痣のないリクを選んだのかわからない。トーチだってウィルや他の一族の子供を選べばもっと安定するのに。
目を覚ますと自分が使っている部屋だった。時計を見ると四時半。リクは汗をかいた額に手の平を当てると、溜息を吐く。二晩連続なんて勘弁してくれと両腕で頭を抱えた。
もう眠れない気がした。部屋の電気を点けてチェストから服を取り出すとそれに着替える。眠れないのだからベッドに横になっていても仕様がない。数学の続きでもしようとバックパックから課題を取り出した。
朝六時半。昨日よりは三十分遅く部屋を出た。それでも十分朝食の準備には間に合う。今朝最初に起きてきたのはチャンスを抱えたキース。チャンスは昨晩はメンテが必要で、そのままキースの部屋で過ごしていた。
「おはよう、キース。ごめん。今日も」
キースは一瞬驚いた顔をしたが、
「謝るな。君が悪いんじゃない」
そう言って朝食の支度を手伝い始めた。
「先生にもちゃんと言えよ」
リクは頷く。続いてエドが起きて来て、
「二人が居ると朝食ができていて助かるな」
と言って食卓に座った。言い難い今朝の事情をエドに話す。直ぐにエドの顔が強張った。二日連続なんて初めてだ。何でこうなったなんてリクにもわからない。リクはキースのこともチャンスのことも直視できなかった。
「リック、そんな顔するな。一切の責任はお前にはない。責任があるのは当主の俺だ」
エドがはっきりとそう言った。今日はキースと家に残るかと言われたが、リクは断った。リクはキースにだけは会社で仕事をさせてあげたい。狙われているリクを家に一人で置いておけないなら一緒に会社に行く方がいい。
会社では今日も社長室に連れて行かれた。勉強もゲームもスマホも禁止。ソファに横になっていろと言われ、膝掛を毛布代わりに掛けられた。テーブルの上からリクを見下ろすチャンス。チャンスもこの状況が二日目だ。
「俺はここで大人しくしているから、チャンスをキースと仕事させる訳にはいかないの?」
リクは駄目元でエドに聞いてみる。
「二日間連続なんて初めてなんだろう。やめた方がいい」
先程から何度か用事があってこの部屋にやって来た秘書が、不思議そうにリクを見て行く。目を瞑ると意識が沈みかけて、でも直ぐに何かに引き戻された。眠ることもしっかり意識を保っていることもできず、中途半端な頭で午前中を過ごす。やがて昼になったのか肩を揺すられた。目を開けてみると、床に膝をついたエドがリクを覗き込んでいた。
「良く眠れたか?」
「わからない」
「昼食は?」
「いらない」
朝よりも怠くなってきた。午後はしっかり眠りたい。昼食もサンドイッチを渡されたが、殆ど食べられなかった。午後になって寒気がし始めた。夏なのに、体に膝掛をしっかり巻き付けても寒い。数時間寒さに耐えた後やってきたのは今度は熱さ。体が熱い。息苦しい。
「お父さん……」
リクはとうとうエドに呼び掛けた。机に居るエドがリクの方を見る。
「リク様がおかしいです」
リクの目の前に居るチャンスがエドに告げる。エドが急いでソファへやって来た。
「リック?」
リクの様子を見たエドは、リクの額に手を当てた。
「熱があるな。今医者を頼むから」
エドは机の上の電話の受話器を取ると数本電話をかけていた。それからソファに座るとリクの頭を自分の膝の上にのせる。
「お父さん?」
「寝辛いか?」
「そういうんじゃないよ、人が来たら恥ずかしいだろ。止めてよ、この体勢は。小さい子じゃないんだし」
そんな風に抗議してみたが、実は寧ろ凄く安心した。エドに触れているのが世界で最も安全な状態であると、自分の中の何かがしっかりとそう告げていた。抵抗空しく、リクは自然と眠りに引き込まれていった。
読んでくださってありがとうございました。




