第4話
志亜が何となく空が好きなのは、「彼」が死の間際に見た最後の光景が異世界の空だったことの名残だろうか。
しかしどのような理由があろうと、志亜は空が好きだった。あの大きな青空を眺めている時だけは、志亜は自分の不安定な心が穏やかになっていくのを感じていた。
それはVRMMORPG、【Heavens Knight Online】略称「HKO」内に存在する仮想の空であっても同じだ。
キャラメイクを終えた初のログインから、翌日のこと。
今日も「HKO」にログインした志亜――プレイヤーネーム「フィア」は岩の上に腰を下ろすと、昨日と同じ場所で空を眺めていた。
志亜が「フィア」としてログイン初日に行ったのは、ゲーム的な要素としてはゲームの基本を学ぶチュートリアルだけだ。同じ日にプレイを始めた友人「レイカ」とゲーム内で合流したりもしたが、昨日は特にそれ以上のことはしなかった。
二日目の今日に当たって何をするのかと言うと……フィアはこの日もプレイを急ぐことはなく、のんびりとこの世界の空を眺めていた。
「ん……」
一点の汚れも無い美しい空を漠然と眺めていると、ふと右肩に重りを感じた。
と言っても、大した重さではない。フィアがようやく視線を空から外してそちらへ向いてみると、そこには肩の上でガリガリと木の実を齧っている一匹の小動物の姿があった。
「リス……」
リス――ネズミ目リス科に属する動物の総称をそう呼ぶ。
今フィアの肩に乗っている小動物のシルエットは紛れもなくリスのものであったが、その種類はフィアの知る限り、地球上には存在しないものだった。
何せリスの体毛は純金のような光を放ち、額には身体の一部なのであろうルビーのような赤い宝石が煌いていたのだ。
おそらくこの小動物は、この「HKO」世界においてプレイヤーの敵として存在する「モンスター」の一種なのだろう。しかしフィアの右肩で木の実を頬張っている黄金色の宝石リスの姿からは、こちらに対する敵意が全く感じなかった。
そんなリスモンスターに対してフィアが取った行動は……何もしないことだった。
猛獣に襲われたのなら逃げるなり対処は必要かもしれないが、相手はこちらに対して何の敵意も無い小動物だ。例えそれがゲームのモンスターであろうと、フィアには敵意の無い相手を切ったり殴ったりする気は起きない。
故にフィアはリスの行動を観察するだけで本当に何もしなかったのだが、しばらくそうしていると今度は、周囲に別の小動物がわらわらと集まってきた。
「小鳥」
先ほどまで眺めていた青空からゆっくりと降りてきた数羽の小鳥達が、チュンチュンとスズメのような鳴き声を上げながらフィアの周囲を散歩している。その姿も鳴き声から連想されるように、やはり地球のスズメに似ていた。しかし、宝石リスのようにその身体には地球の生物には無い特徴が各所に見える。
どれも似ているが、違う生き物……そう認識するフィアは現れた存在をモンスターとしてではなく新種の生き物として興味を抱き、動き回る小動物達の仕草に目を細めた。
川や緑と言った自然味溢れる景色に可愛らしい小動物達が加わったこの光景は、近くから見ていて心が安らぐものだ。
「魚もいっぱい」
そして、この場所に居るのはリスや小鳥達だけではない。
緩やかに目の前に流れる川にはサケに似た魚が群れをなして泳いでおり、時折バシャッと音を立てて水面から飛び跳ねていた。
それもまた、風流を感じる景色である。フィアは煎じ茶でも飲みながらこの景色をずっと眺めていたい気分だった。
飛び跳ねる魚達はさらに上流へと向かっていく。そしてそれを――ペンギンが喰らうのだ。
「ペンギン?」
――ペンギンである。
一瞬目に映ったあまりにもあんまりな出来事にフィアは目の錯覚を疑い、ごしごしと両目をこする。
そしてもう一度目を開けてみると――そこには川を泳ぐ魚を相手に無双の限りを尽くしているペンギンの姿があった。
「エンペラーペンギン……」
短い脚に丸いお腹。飛ぶ為ではなく泳ぐ為に特化した翼を持つ巨鳥は、全長130cmに及ぶ大型のコウテイペンギンであった。
春の陽気を思わせる心地よい気温が肌を撫で、みずみずしい緑が生い茂るこの地に――地球に現生する最大種のペンギンが現れたのである。
川から身体の上半分を突き出した体勢で次々と獲物を嘴の中へと浚っていく姿は、まるでジャングルに住むクマのようだ。
シャチやトドと言った天敵から逃げ回っては捕食されるイメージの強いペンギンであるが、餌を相手にしたその戦闘力はまさに圧巻の一言。圧倒的な力で魚の群れを壊滅状態に陥れていくコウテイペンギンの姿に、フィアは簡潔な感想を述べた。
「つよい」
するとそんなフィアの声を聞き取ったのか、じたばたと暴れる魚を嘴にくわえながらペンギンが振り向き、フィアの視線とペンギンの視線が交錯した。
そして見つめ合うこと数秒後、くわえた魚を豪快に一飲みしたペンギンがキュッとその嘴を開いた。
「何してるんだ? こんなところで」
ペンギンの嘴から放たれた、若い女性の声だ。
ちらりと周囲を見回してみるフィアだが、そこには誰も居ない。
前方に向き直ったフィアは、今しがたペンギンから放たれた声が空耳ではないのだと判断する。
「ペンギンが喋った……」
「そう、私は世にも珍しい喋るペンギン。名前はペンちゃんだ。よろしく、お嬢さん」
「ん、よろしく?」
このペンギンの名前は、ペンちゃんと言うらしい。
何ともリアルなコウテイペンギンから挨拶されたフィアは、律儀に頭を下げて挨拶を返す。その際微妙に声が疑問形になってしまったのは、ペンギンと会話をしているという奇妙な状況に対する彼女の困惑所以だった。
そんな彼女の心境に構わず、ペンギン特有の走り方で川から上がってきたペンちゃんが言葉を紡いだ。
「驚いたな。こんな場所に、私以外のプレイヤーが居るなんて」
「プレイヤー……ペンちゃんさんもプレイヤー?」
「ふっ、ペンちゃんはペンちゃんという生物なのだよ」
「ペンちゃんは、ペンちゃん?」
ペンちゃんの登場に驚いた小鳥達は一目散にその場から逃げ出し、それまでフィアの肩に乗っていた宝石リスは急いでフィアの髪の中へと身を隠した。
なんともはや、穏やかな自然の情景はたった一匹のペンギンによってぶち壊されてしまったのである。
しかしフィアは、当のコウテイペンギンに対して何ら悪感情を抱いていなかった。
魚はペンギンの主食。魚を食べることは、ペンギンが生きる為には仕方の無いことだ。フィアとて多くの命を食べてきた上で生きていることは変わらない。自然に対して何か感傷に浸るのは所詮は人間のエゴであり、それを壊されたからといって動物に当たるのは筋違いだとわかっていた。
寧ろフィアは、この大型のコウテイペンギンに対して好意的な意味で興味を抱いていた。
「よっこらせ」
そんな彼女の隣へと身を乗り上げると、ペンちゃんは少々おっさん臭い言葉と共に岩の上へと腰掛ける。少女とペンギンが岩の上で横並びに座って川を眺めている姿は、何ともシュールなものだった。
さて、突然出現し、何故か隣に座ってきたコウテイペンギン。水族館や動物園以外では見ることのない南極の動物であるコウテイペンギンが今まさに手を伸ばせば届く距離に居るという状況の中で、フィアの心では何か、妙に揺さぶられるものがあった。
「……触ってもいいぞ?」
「ッ!」
そんなフィアの心理を的確に突いてきたのが、ペンちゃんの言葉だった。
何を隠そうにもフィアは動物好きである。自身の周りに群がって来た宝石リスや小鳥達を追い払わなかったのも、敵意の有無以前にそう言った要因が大きかったのかもしれない。
しかし、動物へのお触りは双方の合意なしでは成立させ難い問題だった。
「いいの?」
「私は一向に構わん」
「ストレス感じない?」
「大丈夫だ、寧ろ触ってくれ。子供に触られるのが夢だったんだ。マスコット的に考えて」
ペンギンの身体に触れてみたいという感情は確かにあるが、不用意な接触は動物にとってストレスになる。そう思いペンちゃん自身の意見を聞いてみたフィアだが、返って来たのは構うことはないというゴーサインだった。
しかも岩の上に仰向けに寝そべり、ここを触ってくれと言わんばかりにお腹を曝け出した体勢は既に準備万端であった。その姿は子猫が取る服従のポーズを連想させる。
ペンちゃんがそうまで望むのなら、応えない方が失礼に当たるだろう。そう判断したフィアは、その手を恐る恐るペンギンの腹へと差し伸ばしていった。
「ペンちゃんさん、見た目よりふかふか」
「ふふ、そうだろう? この着ぐるみは何よりふかふかモフモフな素材に拘って……」
「着ぐるみ?」
「き、着ぐるみじゃないぞ! 中の人など居ないぞ! ペンちゃんはペンちゃんさ!」
「フィアはフィア。フィアも着ぐるみではない」
「いや、それは見ればわかる……」
予想以上に手触りが良かったペンギンのお腹を小さな手で撫で回しながら、フィアは遅れる形で自己紹介をする。
フィア――そのプレイヤーネームの由来が何であるかは、他ならぬ双葉志亜だけが知っている。それを誰かに話すことは、友人のレイカ以外には恐らく無いだろう。
「フィアって言うのか。見たところ初心者のようだが、ここにはスキルポイント上げや熟練度上げに来たのか? あ、もう少し上を撫でてくれ」
「違う。ここ?」
「ああ、そこいい……違うのか? ここは見つけにくい場所だが、初心者にとっては美味しい穴場なんだけどな。まあ、私はグレンザケを食べに来たわけだが」
「野性的。野生のペンギン」
「はは、照れるじゃないか」
岩の上で撫でる少女、撫でられるペンギンという奇妙な光景が広がる中、一人と一匹は至って真面目な会話を行う。
グレンザケというのは先ほどペンちゃんが捕食していたサケに似た魚達のことだろう。今のペンちゃんはすっかり野生を失っている姿だがここを訪れた理由は何とも野性的な理由で、フィアは真面目に感心してしまった。
フィアがここに居る理由は、元々はゲームを始めた時、キャラメイク後に降りることになったのがこの場所だったからだ。
この「HKO」ではプレイの始め、キャラメイクを終えた後は町ではなく、森や洞窟と言った町外れの場所へとランダムに転送されることになっている。
あまりにもプレイヤーの数が多い為、初心者の町である「始まりの町」がチュートリアル前のプレイヤー達で埋め尽くされ、混乱してしまうことを防ぐ為である。
それ故に初めてログインしたプレイヤーは「始まりの町」へ行く前に、最初に転送されたマップ上でゲームの概要、基本操作を学ぶという手順を踏むようになっている。
転送先はランダムだがどこも出現するモンスターのレベルは低く初心者向けのマップであり、プレイヤー達から上がる不満は特に無い。寧ろ面倒なことは後回しにして早速モンスターと戦うことが出来るこのシステムは、一刻も早くと冒険に逸る多くの初心者プレイヤーにとって好評だった。
フィアがこの場所に居るのもまた、ゲームを始めるに当たってランダムに転送された結果であった。
しかし、それは最初にプレイを始めた昨日の話だ。
既にチュートリアルを終えているフィアが今もまだここに居るのは、もっと単純な理由である。
「フィアがここに居るのは、綺麗だったから」
そう言って、フィアはペンちゃんのお腹を優しく撫でる。
「澄んだ川が、たくさんの緑があって……ここは穏やかで、綺麗な場所だから」
「……そうか、健全な理由だな」
フィアは、この場所が好きだ。
綺麗なこの場所が好きだから、ここに居る――そんな、単純な理由だった。
剣と魔法のファンタジーRPG。
王道たるそれをVRとして体験出来るこのゲームにおいて、フィアが掲げるプレイ目的は「この世界を純粋に楽しむこと」にある。
時にはもちろん戦闘をすることもあるだろうが、フィアはこのVRMMOを武器を持って敵と戦う為だけにプレイするつもりはない。
観光感覚――と言うのが近いのかもしれない。戦闘というものが基本的な要素であるこの世界において、フィアの目的は異質なほど平和的なものだった。