第39話
ソファーの上に小さな身体を寝かせ、敷いたクッションの上にゆっくりと頭を乗せる。
掛け布団代わりに自身の上着を掛けてあげると、彼女の穏やかな寝顔を見てクレナは小さく息をついた。
その一幕だけを見れば小さな子供を寝かしつける優しい姉、もしくは母親のようにも見えようが、彼女の胸中はそれらのように穏やかではなかった。
「この子の記憶を混乱させたのは、わざとか?」
問い掛けながら、紅井クレナが冷め切った眼差しを皇ソロへと向ける。
灼熱を連想させる真紅の眼光は、今しがた寝かせしつけた双葉志亜に向けていたものとは真逆の感情が込められていた。
それは憤怒と嫌悪。いっそわかりやすく氷の眼差しを向けられたソロは、彼女から視線を逸らすように志亜の寝顔を見つめた。
「……いや、ここまでの反応は想定外だった。彼女はどうにも、思い出してはならない記憶まで思い出してしまったらしい」
「なら、記憶を消すか?」
「本当に危険な記憶は消しておいたさ。だが、彼女の前世が「白石勇志」であったという記憶は消していない。消しても、すぐに思い出すだろうからね」
ソロが彼女の状態を語った――次の瞬間、クレナの右手から紅蓮の刃が迸り、炎の剣となってソロの胸元へと突きつけられる。
炎の剣――それはクレナの持つ「C.HEAT」、「浄化の炎」を武器として凝縮した力だ。
その剣を生身の人間であるソロに向けて躊躇いなく突きつけるクレナの瞳に迷いは無く、今すぐにでも彼の身を貫こうとする剣幕だった。
「答えろ」
抑揚のない冷淡な声で、クレナがソロに対して尋問する。
それは彼女にとって、何としてでも確かめなければならないことだった。
「その白石勇志は……アカイクレナと過ごしたユウシのことか?」
今あそこで眠っている少女、双葉志亜が宿している魂。
その存在に対して、クレナが虚偽は許さないと視線で訴え、サングラス越しのソロの目を睨んだ。
そんな彼女の問いに、ソロは数拍の間を置いて答える。
「ああ、そうだ」
肯定。
神妙な態度でそう返したソロは、依然炎の剣を突きつけられた態勢のまま右手を上げると、自らのサングラスを目元から外した。
裸眼の状態を人に見せるのは、随分と久しぶりのように感じる。
そんなソロの、双葉志亜の姿を見据える両目は美しくも禍々しい黄金色に輝いていた。
「その子の魂は君の知るユウシであり、この僕――魔王ソロを倒したユウシのものだ。彼は時を越えて、双葉志亜として生まれ変わったんだよ」
瞳は黄金に、虹彩は白銀の光を放つ「魔王」ソロの両目――それは彼が普段人目から隠している、あらゆる真実を見抜く「魔眼」だった。
その力が、少女に宿る異様な魂の存在を見抜いてしまった。
種明かしをすればそんな根も葉もない説明で済んでしまう、あまりにもファンタジーな存在。それが今この世界に存在する、魔王ソロという男だった。
「……いつから、知っていた?」
「この時代で、君に会う前から」
「なぜ私に言わなかった!?」
そう、この世界でただ一人、ソロだけはかねてより知っていたのだ。
双葉志亜という少女が、「シライシユウシ」という勇者の魂を宿していることを。
志亜がかつての未来でアカイクレナの恋人だった男の――成れの果てであることを。
「そうやって高みの見物を決めていたのか!? 貴様はまた!」
「ユウシが起きる。騒ぐな」
「貴様……っ!」
眠っている志亜の傍で声を荒げるクレナだが、その反応も無理はないだろうとソロは彼女の心中を推し量る。
愛していた男が目の前の少女だった。そして、自分はそのことに気づかなかった。
その事実に対し、彼女が発狂の一つもしたくなるほどの衝撃を受けたであろうことは魔眼を使わなくとも容易に想像つく。闇のように愛が深く、一途で直情的――そんな彼女の性格は、前世でも見続けていたものだった。
「君も、随分饒舌に話せるようになったね。この一年で、ようやくその身に魂が定着したようだ」
「なに?」
「君なら気づいているかもしれないが、君やフィアさんの呂律が幼子のように回らなくなっているのはね……君達の肉体と魂がまだ、完全に定着していないからでもあるんだ。時間が経てば、追々治っていくものなんだが……とりわけユウシ――フィアさんは、その定着に苦戦しているらしい」
「この子が私と似た存在なのは気づいていた。だが、本当に……この子は、ユウシなのか……?」
「……こうして眠り姫のような姿を見ていると、信じられないかもしれないけどね。間違いなく、彼女こそが僕達の知っているシライシユウシの生まれ変わりだよ」
静かに寝息を立てている少女の姿を、慈しむような目で眺めながらソロが言う。
少女の姿には生前の彼の面影はどこにもない。しかし唯一にして絶対なる力を持つ魔王の魔眼が、彼女がユウシであることを示している。
そして社長権限でゲーム上のログを見て確認したところ、その事実を裏付ける点は各所にあった。
それは彼女の性格であり、実力であり、キャラクター達への反応であり……かつての「彼」だと思って見直してみると、フィア=ユウシという関係が自然なほど結びついてしまうのだ。
――君までこの世界に導かれるとは……これも、運命か。
自身が【Heavens Knight Online】というゲームを作った理由を振り返りながら、ソロはかつて死闘を繰り広げ、その果てに自身を討ち滅ぼしてくれた勇者との再会に、一人大きな感慨に浸る。
しかしそんなソロの喜悦的な表情とは違い、彼に炎の剣を向けるクレナは絶望に染まった目で身体を震わせていた。
「……っ、わたしは……気づかなかった……のか……」
誰よりも彼を愛し、彼の為に生きていた。
そんな彼女にとって、こんなにも近くに居ながら彼の存在に気づかなかったことが余程ショックだったのだろう。
「僕だって、この「眼」さえ無ければとても気づかなかっただろう。生まれ変わった彼……彼女は、君が気づけないほど充実していて、この世界に溶け込んでいたんだよ」
双葉志亜という少女はクレナやソロのように現代日本では明らかに浮いている髪色をしているわけでも、魔法や「C.HEAT」のような超常の力を使えるわけでもない。その点で言えば双葉志亜という人間は、普通の地球人と何ら変わりのない少女であろう。
そんな少女がこの世界で親しい友人を持ち、他の人々と同じように生きていたのだからクレナが気づかなかったのも至って当たり前であり、気に病む必要は無いと言えた。
しかしユウシのことを誰よりも愛するが故に、クレナにとってその事実は重いものとなっているのだろう。
君らしい難儀な恋人を持ってしまったな、と……ソロは同情しながらも温かい視線を双葉志亜へと向ける。
しかしその視線はクレナの身が割り込まれ、怒りの目で遮られた。
「……なんだ、その目は……! その目でユウシを見ていいのは私だけだ!」
慈しむような彼の視線から双葉志亜を隠すように立ち塞がると、クレナが憎悪に燃える目でソロを睨み、炎の剣を振り上げたのである。
「貴様さえいなければ……!」そう叫んだクレナは、その激情に任せて剣を構え――
「くれな」
「……!」
――背後、ソファーの上で眠る少女の声に、ハッと息を呑む。
その瞬間、クレナは展開していた炎の剣を呆気なく消失させると、目にも留まらぬ速さで振り返り、膝をついて少女の顔を窺った。
「あいたかった」
「あ……ユウ……シ?」
本当に、ユウシなんだ――声は変わっても、姿は変わっても、何一つ変わらない優しさが胸に染み渡り、クレナはソロの言った言葉が真実であることを確信する。
――彼が今、ここにいる。
それを理解したクレナは胸の内から込み上がってくる想いを抑えられず、「アカイクレナ」としての感情を爆発させた。
「ユウシ! 私はここにいます! 私も、帰って来たんです!」
……ずっと会いたかった。
この世界では私の知っている貴方とは会えないと、諦めていた。
しかし彼は、アカイクレナが恋い焦がれた青年はここに居る。
姿は違っても時を越えて今、彼はこの地球に帰ってきたのだ。
「絆も一緒です! みんな……みんなも、生きています! だから、貴方も……っ!」
おかえりなさい……誰よりも温かく抱擁して、そう言いたかった。
ゼン・オーディスを討ち、異世界召喚を根絶させたこの世界は優しくて、彼が愛した人々も皆――ここに居る。
彼の妹である白石絆も、この時代の彼である白石勇志も、この世界には誰もが汚れを知ることもなく幸せに生きている。
だから――
「私とずっと……ずっと、一緒にいてください……!」
彼もまたこの世界に生まれ変わったのなら、もう二度とこの手を離しはしない。
少女に生まれ変わったことで自分よりも小さくなってしまった彼の手を握りながら、クレナは紅の瞳から大粒の雫を落として懇願した。
それに対して、彼が返したのは――緊張を削ぐような、静かな寝息だった。
「すぅ……すぅ……」
心なしか安らかになった顔で眠る彼女は、まるでこちらを信頼しきっているように穏やかな寝息を立てている。
取り乱していたクレナはその小動物のような姿を見て我に返り、これまでの自身の狂乱を恥じて僅かに頬を染める。
彼女が先程クレナの名を呼んだのは、眠りながらに呟いた寝言だったのだ。
そのことを理解したクレナは、握っていた彼女の手をそっと離した。
「……記憶を失ってもなお、彼は君達のことを想っていたんだな。まったく、彼らしいと言うか……」
そんなソロの呟きに突っかかる気力も無くなったクレナは、ふぅ、と脱力の息を吐いて壁に寄り掛かる。
そして再びソロの方へ向けた目には敵意はなく、今にも斬りかかろうとしていた先よりは落ち着いた精神状態だった。
「……ユウシが起きたら、何を話すつもりだ」
「何を、とは?」
「ユウシにどう説明するのかときいている」
「ふむ……そうだね」
クレナが問い掛けたのは、今後の方針だ。
ソロ自身は双葉志亜がこうなったのは想定外だったと言っていたが、彼にそのことで狼狽える様子は見えないし、あのように彼女の記憶を揺さぶるようなことを言ったのも全て意図的なもののように感じてしまう。
――残忍で狡猾、「元人間」だからか妙なところで人情があるが、腹の内では何を考えているかわからない極悪人。
それが、クレナの知るソロという男……「魔王」の人物像だった。
そんな評価をされていることを知っているのか否か、ソロは再びサングラスを掛け直した目で眠る志亜の姿を見据えた後、塾考の素振りをしながら言い放った。
「記憶を持っているからと勘違いしないでもらいたいが、彼女はあくまでもユウシではなく、双葉志亜だよ。しかし、そうだな……彼女が起きたら改めてどのぐらいの記憶を思い出したのか確認してから、このゲームを作った理由を話そうか。今日のところは、それで勘弁してもらおう」
先程の反応から判断するに記憶を取り戻したのは間違い無いが、どの程度のものかはまだユウシ――双葉志亜本人しかわからない状態だ。
しかしもし、起きた彼女の人格がシライシユウシという前世の人格に塗り潰されるようなことがあれば……
「ユウシが、お前を許すと思うのか?」
「もちろん、彼女が生前のユウシなら決して許さないだろうさ。今はこんなでも、僕は彼からゼン・オーディスの次に憎まれた恐ろしい大魔王だからね」
「……今更仲間面するようなら、今度こそぶった斬る」
「ああ、その時はこの魂まで完全に焼き払ってくれよ。……もう二度と、生まれ変わることがないようにね」
未来の世界――前世でのアカイクレナはユウシの恋人だったが、魔王ソロはユウシの敵だった。
それも、ソロの好きなRPGで言えばまさしくラスボス的な存在である。邪悪な召喚師ゼン・オーディスは裏ボスに当たるが、お互いに敵同士だったことに違いはない。
……尤も、今はまだこの命をくれてやる気は持ち合わせていないが。
たとえ、相手がソロにとって特別な存在の一人である、彼の生まれ変わりだとしてもだ。
「一応言っておくが、前世の記憶を取り戻そうと、死人が生き返ったわけじゃない。他ならぬ君がアカイクレナでも、紅井久玲奈でもないようにね」
「……お前に言われなくてもわかっている。それでも、私は……」
双葉志亜がユウシの生まれ変わりだとしても、ユウシ本人が生き返ったわけではない。
しかし頭でわかっていても、起きた彼女にはどう接すれば良いのか……それを悩むのは、元勇者も元魔王もきっと同じだった。




