第2話(紅)
それからたった十日間の戦闘訓練を受けた後、彼女ら十二人の勇者達は初めての実戦に向かわされる。
初めて与えられた任務は魔族の手下である「魔物」によって支配された大陸三大都市の解放。
クレナ達は半年ほど掛けてそれぞれの身に宿る超常的な力によって二都市の解放に成功したが、その頃には既に勇者の人数は八人にまで減っていた。
同じ境遇を分かち合い、友情すら芽生え始めていた仲間が一人ずつ居なくなる日々は彼らの精神を擦り減らしていき、つい最近まで誰もが日本で平和な日常を過ごしていた一同の心を追い詰めていった。
今日は生き残れても、次は自分が死ぬ――その恐怖に耐えられず、仲間内で恐慌を起こすこともあった。
しかし勇者達の中には、そのように死に怯える他の仲間達を鼓舞する少年が居た。
『諦めるな! 俺達は必ず帰れる!!』
仲間達の中でリーダーシップを発揮する一人の少年は、絶望的な状況ほど強く、周りの者達を鼓舞していた。
彼もまた自分達を取り巻いているこの状況に苦しんでいる者の一人であったが、それでも彼だけは弱気になれない事情があった。召喚された勇者達の中には、彼にとって大切な妹が居たのだ。
まだ幼い妹の前で自分まで弱気になってしまったら、妹は誰に頼れば良いのだと……強気な言葉の裏には仲間達や自分自身を鼓舞するという意味もあったが、彼にとっては何よりも妹への想いが強かったのである。
……そんな彼――「白石 勇志」はアカイクレナの人生を大きく変えてくれた、彼女の初恋の男だった。
『諦めるなよ、クレナ。生きている限り、希望を捨てちゃ駄目だ』
理不尽な事故に遭って以来、心を閉ざし何もかもが嫌になっていた未来のクレナは、共に異世界へ召喚された彼に多くのことを教えてもらった。
絶望の底でも諦めない気持ちと、現実と戦う強さ、人を愛することの素晴らしさ……どんな状況でも己の信念を曲げることなく駆け抜けていく彼の姿はまさしく本物の「勇者」であり、いつの日かクレナはそんな彼の背中に惹かれていったのである。
彼に認めてもらえるように、自分も頑張ろうと思えたのだ。
――しかし魔族との戦いは、勇者達が戦えば戦うほど激化していった。
時は流れ、クレナ達が召喚されてから六年が過ぎた頃、仲間の人数はクレナと白石勇志、その妹の白石 絆の三人だけとなっていた。
極限状態の中で多くの実戦を乗り越えてきた三人の勇者達は、生半可な敵は一切寄せ付けない圧倒的な戦士へと成長していた。それぞれが一騎当千の活躍で敵を仕留めていき、魔族に怯えるフォストルディアの人々に希望を取り戻していったのである。
しかし白石勇志――彼自身の心に救いは無く、民から掛けられる賞賛の言葉もまた、その心には届いていなかった。
かつてクレナに希望を教えてくれた少年は相次ぐ仲間達の死を前に心を荒み、怒りの戦士へと成れ果ててしまっていたのだ。
いつまで経っても戦いが終わらず、地球に帰ることも出来ない。そんな理不尽に対する憎しみを敵に対してぶつけていた彼の姿はもはや勇者と言うよりも狂戦士と呼ぶに相応しく、未来のクレナにはそんな彼の姿が痛ましくて見ていられなかったものだ。
しかし、その感情が……未来のクレナを死へと至らしめることになった。
『ユウシ……貴方は私に勇気をくれた、希望の光でした』
『待て、クレナ!』
魔王軍との戦いも佳境と言ったところで、アカイクレナは勇者達の中で十一番目の犠牲者となった。
白石兄妹という自分の愛した光を守る為に、彼女は能力の全てを使い、最大の敵である魔王に特攻を仕掛けたのである。
勇志の苦しむ姿は、これ以上見ていられなかった。これ以上彼を、戦わせたくなかった。
だからクレナは最後の力を振り絞って憎き魔王に一矢報い、その命を散らせたのである。
『愛しています、ユウシ。いつかまた、来世で逢いましょう』
それが異世界に召喚された未来の久玲奈の、最期の言葉だった。
「記憶」の整理を終わらせた後、クレナはベッドの上からゆっくりと床に降り立つ。
今しがた彼女が見ていた記憶は全て、未来の彼女自身が体験した人生の追憶である。
どういうことか理由は定かではないが、未来の紅井久玲奈が異世界に召喚され、そこで死ぬということは彼女の頭に溶け込むようにはっきりと理解出来た。
――未来の私が、魔法の力で私に警告したのだろうか? それとも、あの無能創造神が……
この記憶を異世界召喚前の自分に託して、未来の久玲奈はどうしたかったのだろうか……それはわからないが、少なくとも今の自分がこれまでのようにただ己の不幸を嘆き、リハビリに励む気さえ無く何もかも諦めて塞ぎ込むように病室に篭っているべきでないことだけは確かに思えた。
今ここで誕生したクレナという存在は未来の自分自身が体験したこと、感じたことの熱を受け継いでいる。
真の勇者、白石勇志。
そして彼の妹、白石絆。
二人と共に戦った思い出を記憶している彼女はもはや、平凡な人間ではなくなっていたのだ。
――だから。
「……めざめ…ろ……わた、しの……ちぃと………」
火傷で傷ついた喉を軋ませながらも、震える声でクレナは唱える。
次の瞬間、ミイラ男のように包帯塗れの少女の身体が、どこからともなく現れた紅蓮の炎によって包まれた。
炎から溢れていく光はこの病室中に広がっていくが、それが物理的な干渉を持って部屋の物品が焼かれていくことはない。
その紅の炎は炎であって、炎ではないからだ。これは未来のアカイクレナが異世界での戦いで手に入れた「C.HEAT」という「勇者の力」の発現だった。
「C.HEAT」――幻想世界フォストルディアで勇者として目覚めた者が、特殊な能力を手に入れる超常現象である。
白石絆は自身の命と引き換えにあらゆる生命を癒す能力へと目覚め、白石勇志は自身の心と引き換えにあらゆる生命を死に至らしめる能力へと目覚めた。
そして未来のアカイクレナが目覚めた「C.HEAT」はこの紅の炎――あらゆる穢れを焼き払う、「浄化の炎」という力だった。
未来の自分が記憶の中で使っていた能力を今の自分に使えるかは不安だったが、正しく発現したところどうやらその不安は杞憂だったらしい。この分ならばおそらく「魔法」を扱うことも出来るのだろうが、今のクレナにはそんなことを喜んでいる気は無かった。
この心にあるのは強い決意と、病的なまでの執着心だ。
異世界に召喚され、苦しみながら戦っていた白石勇志と白石絆の姿を思い浮かべる。未来のクレナが見ることになった彼らの未来は、絶対に繰り返してはならない光景だった。
「まって…いて、ください……ユウシ……わた、しはあなたを、しょうかんさせ、ない……!」
クレナの身体を包んだ浄化の炎――紅の炎は、その身体を覆う火傷の痕を綺麗に焼き払っていった。火傷を炎で焼き払うと言うと難解な表現になってしまうが、例えるなら傷ついた鳥が聖なる炎の中で不死鳥として蘇ったようなものか。
クレナとしては事故以来自身の身体を蝕んでいた火傷の痛みが無くなったことには少なからず喜びもあったが、その感情を即座に抑えて思考を切り替える。
この身体の火傷を焼き払ったのは痛みを消す為ではなく、あくまでも身支度の為だ。
火傷とは関係の無い瓦礫の落下で負った背中の傷痕だけは残ってしまうが、人に会いに行くに当たっては出来る限り身なりを整えておく必要があった。
痛みが完全に消えるとクレナは炎の顕現を止め、次は病衣を脱いで全身に巻きつけられた包帯を外すことにした。
生まれたままの姿になった後、鏡の前に立って今の自分の姿を確認すると、浄化の炎が目論見通りの効果をもたらしたことに息をつく。
醜く焼け落ちていた顔面は完全に事故前の状態に戻っており、手足の火傷の跡も綺麗に無くなっている。背中に見える火傷以外の怪我の手術跡などはやはり残ってしまっているが、こちらは服を着れば隠れる部分である為、取り敢えず外面上は人に見せられる姿になったことにクレナは安堵した。
焼け焦がれ無惨に禿げてしまった髪の毛もすっかりと元の潤いを取り戻しており、「強化魔法」を使って毛根を強化すれば、こちらもすぐに事故前のショートヘアーまで伸ばすことが出来た。
早回しで死滅した筈の髪が再生していく光景を鏡で見ていると、まるで劇的ビフォーアフターを通り越してもはやホラーテイストなびっくり人間である。そんな自分の姿を自らの目で再確認すると、クレナは溜め息をついて自身の紅い髪を撫でた。
この地球では珍しい、紅の髪。これはたった今「C.HEAT」に目覚めたことによって能力に適応すべく肉体が変化した結果であり、クレナ自身が平凡ではなくなってしまったことの証であった。
「……わたしは……あかい、クレナ……いせかいしょうかんを、とめる、ゆうしゃ……」
長らくの間喋っていなかった為か幼子のように劣化してしまった喉から声を振り絞り、クレナは自己暗示を掛けるように呟く。
クレナはこうして未来の自分の記憶と力を手に入れた以上、最善の未来を掴む為に全力で奔走するつもりだった。
――私に希望を見せてくれた、白石勇志の為に……
クレナは自身に宿る全てを、彼と妹の白石絆の為に使うことを心に誓う。
「……いこう……」
棚の中から新しい病衣を取り出し、裸の肌の上に纏う。
事故以来クレナにはこの病衣が火傷の痕と擦れる感触が痛くて仕方が無かったが、能力によって傷の治った今は室内の冷房がやけにこそばゆかった。
――そして、紅の少女の物語は冒頭へと戻る。
砕け散っていくトラックの姿を眼下に、クレナはホッと胸を撫で下ろす。
間に合って良かった……暴走トラックに轢かれそうになっていた二人を間一髪のところで助けられたことに安堵しながら、彼女は若い二人を空から見下ろしていた。
未来の記憶を基に「C.HEAT」に覚醒したクレナは、その力を使いすぐに病院から脱走した。
全裸の上に病衣を着ているだけの心許ない格好で空を飛ぶことになったクレナだが、その姿は認識阻害魔法という力によって人の目から隠されている為、勇志達以外の者の目に見られることはない。魔力の浸透していないこの地球で魔法による認識阻害を見破れるのは、勇者の適性を持つ者しか居ないのだ。
……尤も、だからと言って今の自身の格好に羞恥心が無いかと言われれば、それは嘘になるのだろうが。
しかしクレナがそうまでなりふり構わず空へ飛び出したのは、彼ら白石兄妹の安否が気になって仕方なかったからだ。
未来の記憶が示している限り、彼らもまた近い日に異世界へと召喚されてしまう。
あの世界の召喚師という連中はどいつもこいつも性悪な使い手であり、あの手この手を使って地球の少年達を自分の世界へと引き抜いていくのだ。
トラックを使った物体式召喚術もその一つだが、もしかしたら今のがそれなのかもしれない。しかしそうなると少々……いや、かなり気掛かりなことがある。
今のクレナに受け継がれた未来の記憶が正しければ、白石兄妹はトラックとの衝突ではなく突如現れた魔法陣によって転移させられた筈なのだ。
無人のトラックが明確に二人を狙っていたところを見るに今のが召喚術だったのは既に疑いように無いが、クレナには病弱で満足に歩けなかった筈の白石絆がすっかり健康体になっているのも含めて「ズレ」を感じていた。
――しかし、あそこに居るのは間違いなく白石兄妹だ。
仏頂面ながらも熱い心を内に秘めた白石勇志と、幼いながら聖母のような慈愛の心を持つ白石絆。
(ああ……)
彼らは今、生きている。ここに居るのだ。
異世界に召喚される前の無垢な姿で、二人はこの町に居た。
彼らの内に眠る潜在魔力を探って空を飛び回り、捜索に当たった自分の判断は間違いではなかったのだ。
二人を見下ろしながら、クレナの瞳から喜びの涙が溢れる。
もしかしたら彼らも自分のように未来の自分自身から記憶を受け継いでいるのではないかと少しだけ期待していたクレナだが、茫然とした表情でこちらを見上げている二人の姿を見るに、その可能性は無いだろう。
しかしそれでも彼らに対する今のクレナの想いは、異世界に居た頃の未来の自分と何も変わっていなかった。
この世界の彼らが平和な世界で、平穏な日常を送っている。それを確認出来ただけで、今は十分だ。
だから――
(声は出なくても、今はいい……)
彼らにまた出会えた感動と火傷の後遺症が合わさり、元より彼らに掛ける声が喉から出てこなかったが、今はそれで構わない。
彼らがこの世界に居る限り、何度でも話す機会は訪れる。
何度でも、会うことが出来る。
何度でも、関係をやり直すことが出来るのだから。
(貴方達は、私が守る……)
たとえこの先、どんな召喚術が彼らに襲い掛かろうとも。
紅井クレナはその全てを叩き潰し、彼らを守る。
異世界での冒険録ではなく、兄妹で暮らす故郷での日常こそを愛する彼らのことを、クレナはこの命に代えても守り抜く所存だった。
背中の翼を羽ばたかせ、少女は彼らの前から姿を眩ませるように天へと昇っていく。
この紅蓮の翼もまた、異世界で手に入れた魔法の一つだ。空を自由に飛ぶことが出来る、見た目通りの飛行魔法である。
異世界召喚を叩き潰すと決意したクレナが、誰よりも異世界召喚の恩恵を受けているのは滑稽な話だと彼女自身も思う。
しかし異世界召喚という人を超えた現象が敵になると言うのなら、それに抗う人を超えた力が必要なのだ。
だからこそ、彼らを守るには人を超えた存在にならなくてはならない。
「わた、しは……もう、うばわせ、ない……」
この世界に生まれ変わった今の自分は、敗北者になってはならない。そう戒めながら、紅蓮の天使が飛翔していった。