第29話
那楼川。
そこは読んで字のごとく、志亜達の住む那楼市に流れている大きな川である。
その川は那楼学園の敷地から離れて数分程度歩いた距離に流れており、河川敷には野球やサッカー用のグラウンドが各所にあり、河原には釣りを楽しむ釣り人達や水遊びをする子供達の姿がちらほらと見えた。
比較的綺麗な水質の川には住処としている魚達は勿論、その魚を食べに来た野鳥達が降り立ち、時々ではあるが珍しい野鳥の姿を目撃することが出来る。それを目的に生物観察を行うことも、生物部の活動には含まれていた。
ごく稀にどこからか野生のアザラシが迷い込んできたという噂が流れることもあり、それが目当てで訪れる人々も何人か居た。
そんな理由もあってか人通りがそれなりに多い川の周りには、心無い人々に放置された空き缶やビニール袋などのゴミの姿が散らばっていた。
そういった廃棄物を片付け処分することが、今回の生物部の活動だった。
日頃から生物の研究を行わせてもらっている感謝の気持ちとして、生物を育んでいる自然に恩返しをしようというのが活動テーマである。
軍手とトング、ゴミ袋を携えながら那楼川の河原に降り立った志亜達生物部一同は、顧問の先生や部長の紫藤美夏の指示の下、活動に当たった。
「川辺での作業だから、原則として二人以上で行動すること。ここら辺は川も浅いし流れも遅いけど、ゴミや珍しい石があるからって川の中には近づきすぎないこと。わかった?」
「イエス部長!」
主な指示は川辺の作業に対する危険意識についての植え付けであり、怪我や事故の発生を強く警戒したものだ。
那楼高校には県内でも成績の良い生徒が集まっているが、小学生に言い聞かせるような指示をするなと侮ることなかれ。時に一歩間違えれば死に至る危険が待ち構えているのが、川という自然が持つ脅威なのだ。
彼女の指示が持つ意味を、志亜は真剣な表情で読み取った。
そうして、志亜達は那楼川のゴミ拾いを開始する。
二人一組以上を原則とした今回の活動であったが、志亜と組んでくれたのはやはり城ケ崎麗花だった。
この時志亜の目に意外に映ったのは、鼻歌混じりにゴミをトングに掴み、志亜の持つゴミ袋の中へ放り込んでいく彼女の姿である。
「あらあら、こんなところにも空き缶が」
「麗花、楽しそう。少し、意外」
「そうですか? まあこんな体験、普段は出来ませんからね。お父様からも、学生のうちにこういう経験をしておくよう仰せつかっておりますし」
絵に描いたような名家の令嬢である彼女は、普段こういったボランティア活動を行うことはない。
自宅の掃除ですら、使用人達の仕事として彼女自身が手を下すことはほとんどないのだ。
そう言った事情があれば自分がこのような活動をすることに反発心を抱きそうなものだが、その辺りに関しては彼女は中々にポジティブな人間だった。
普段経験することのないことを行った時、その経験はいつか自分の糧になる。そう信じている彼女はRPGの主人公が経験値を獲得していくような感覚で庶民じみた苦行を楽しんでおり、新鮮に感じている様子だった。
「その点で言えば、余計な気を遣われないこのクラブは割と居心地が良いですわね。……まあ、うちの執事は今この時でも、物陰からこそこそ見張っているようですけど」
「ふふ……」
軍手をはめてトングでゴミを拾い上げていくドリルヘアーの姿は傍目からはややシュールに映るが、本人は特に気にしていない。
そんな彼女がちらりと横目に映した方向には、岩陰に身を隠しながら彼女の様子を窺っている運転係兼執事の後頭部が見える。彼は城ケ崎家に雇われた護衛の身でもあり、今回のように麗花が野外活動を行う際には陰ながら見守ってくれていた。冷静に考えれば隠れる必要など無いのだが、彼も彼で常に自分が後ろに居ることでお嬢様に気を遣わせたくないとのことだ。
そんな彼の姿にあえて気づかないふりをしながらゴミ拾いを進めていく友人の姿に、志亜は思わず微笑みを浮かべた。
「麗花は、優しい人。やっぱり、大好き」
麗花が見た目に似合わずこうして積極的にゴミ拾いを行ってくれているのは、確かに人生経験の為もあるのだろうが根底には自然を愛する気持ちがあるからなのだろう。自分の執事に対してささやかな気遣いが出来るように、彼女は性根の部分から優しい人間だ。
その優しさを近くで見てきた志亜は、彼女のような人間になりたいと心から思った。
「……貴方って、自分以外の人はみんな優しい人だと思ってそうですね」
「……?」
麗花が志亜の言葉に対して何とも言えない表情を浮かべながら、呆れた口調で呟く。志亜には否定できない言葉だった。
志亜は自分以外の誰かに対して、キラー・トマトの時のように理解出来ない人間だと思ったことはあっても、はっきりと「悪い人間」だと断定したことはない。
自分以外の人間には誰にだって優しい心があり、良いところがある。そう信じているからこそ、自分もまた優しい人間になりたいと思ったのだ。
「麗花、そろそろ志亜が拾う」
「あら、では交代しますか」
川を下りながらしばらくゴミ拾いを続けていくと、頃合いを見てゴミ袋を麗花に預け、今度は志亜がトングを持つ。
数分置きにゴミ拾い係とゴミ袋係を交代する。特に誰かに決められたわけでもなく、自然と出来上がっていた作業の流れだった。
普段の学校生活からもそうだが、麗花との行動は自然と呼吸が合う。中学二年生の頃に友人関係になったばかりの筈が、志亜にはまるで数十年来の仲のように感じていた。
――これが、双葉志亜の交友。「彼」ではない、前世とは何の関係もない大切なもの。
双葉志亜が双葉志亜として生きていける、彼女の傍は居心地が良かった。
双葉志亜を双葉志亜として受け入れてくれる、彼女の存在が温かかった。
そんな友人達と現実生活で過ごしていく、この平穏な時間を志亜は愛していた。
しかし、そこに新たな影が射し込んできたのは、その時だった。
「あ」
「志亜さん? どうかしました?」
ゴミを拾い続けること数分後。川の向こう側まで架かっている「那楼大橋」の下まで移動した時、志亜はその光景を目に映し、トングを扱う手を止めた。
橋の下――上空の日差しから身を隠すように、橋の陰になっている位置に一人の少女が座っていたのだ。
他校の生徒なのであろう。真新しいセーラー服を身に纏った少女が、芝生の丘に座り込みながら河原を見下ろしている。
体育座りの姿勢でスカートの腰を芝生につけている少女の膝上にはB5用紙ほどの大きさのスケッチブックが載せられており、その右手には一本の筆が握られていた。
そんな少女の姿に、麗花が呟く。
「風景画でも描いているのでしょう。あの制服は確か、隣町の天阜嶺高校でしたか……?」
一目見れば、その様子はこの那楼川の風景をスケッチブックに描いているのだろうと窺うことが出来る。もしくは河原をちょこちょことうろついている、小鳥の姿を描いているのかもしれない。
それは別段、不思議な光景というほどではない。
しかし志亜は少女の姿を一目見た瞬間、その視線を外すことが出来なかった。
彼女の描いている描画に対してではない。この時、志亜の心には少女の存在そのものに対して、表現することの出来ない感情が走ったのである。
「くれな……」
ごく自然的に、志亜の口から声が漏れる。
少女は、紅の髪をしていた。
遠目に見た時は橋の陰に被さって暗くなっていたが、近づいてみれば少女の異色な髪色がはっきりと見える。
同じくそれに気づいた麗花が、現実世界らしからぬその色に驚きの声を上げた。
「わっ、あの人の髪、凄い色をしていますね! まるでHKOのアバターみたいですわ……」
「くれない……あかい……?」
赤みがかった、という段階ではなくまさしく真紅の髪だ。燃え盛る炎のようなその髪はセミロングの長さで肩まで真っ直ぐに下ろされており、華奢な身体つきを凄まじい存在感で覆っている。
さらに近づいてみれば瞳の色までも赤いことがわかり、少女は凛とした双眸で河原を歩く小鳥達の姿を眺めていた。
「綺麗な人……」
「志亜さん?」
存在自体が絵画のように思えてしまう少女の姿に、志亜は率直な感想を溢す。
どんな宝石よりも研ぎ澄まされた美しい輝きを放っている、紅の少女。志亜はこれまで麗花を始めとして、女性に対して美人だと感じたことは何度もある。外見にしても、内面にしてもだ。しかしこの紅の少女の姿を目にした時、志亜の心に響いたのはそれらとは次元の違う不思議な感覚だった。
顔立ちや姿だけではなく、彼女から感じる何もかもが美しいと感じる。志亜はたった今目にしたばかりである筈の彼女のことが――世界の誰よりも美しいと感じたのだ。
無論、志亜は同性愛者ではない。しかし……何故だか紅の少女の存在が、この魂に響き渡るほど愛おしく感じるのだ。
そんな無意識の仲、気づけば花に群がる蝶のように、志亜は彼女の元へと歩み寄っていた。
「あのっ」
描画に没頭している彼女に対して、志亜は自分自身さえ用件がわからないまま話し掛ける。
その行動全てが志亜にとって、誰の意志なのかもわからない衝動的なものだった。
「ん……?」
そんな志亜の口から放たれたか細い呼び掛けの声に、紅の少女が気づきスケッチブックから顔を上げる。
真紅の瞳が志亜の目と合わさった時、少女はほんの僅かに表情を変えた。
「……なに?」
「あっ……ぅぅ……」
「………………」
初対面の人間から不意に声を掛けられた少女は、数拍の間を置いて志亜に用件を問い質す。
感情が読み取れないその言葉を聞いてはっと我に返った志亜は、自らが声を掛けた手前どうすればいいのかわからず慌てふためいた。




