第1話(紅)
その日、白石 勇志は上機嫌で商店街の大通りを歩いていた。
足取りは軽く、日頃友人達からは仏頂面と言われている表情筋は傍から見てもわかるほどに緩んでいる。その理由は、現在彼が手を繋いでいる可憐な少女の存在にあった。
少女は頭に被った麦わら帽子を押さえながら視界から日差しを隠すと、くすりと微笑みながらそんな勇志の顔を見上げた。
「ふふ、兄さん、嬉しそう」
「嬉しいさ……こうしてやっと、お前と外を歩けるんだから」
少女の名前は白石 絆。同じ苗字の通り、血の分けた勇志の妹である。歳は十歳で十六歳の勇志とは六つほど歳が離れているが、その兄妹仲は非常に良い。
自分と同じく上機嫌そうに笑う彼女に微笑み返しながら、勇志は感慨に浸る。
今目の前に居る触れれば掠れてしまいそうな儚げな少女は、子供ながら日焼け一つ無い色白な肌が表しているようにほとんど外に出たことが無かった。というのも彼女は生まれつき病弱で外出することが出来ず、頻繁に病院に通う不自由な生活を強いられていたのだ。
それが変わったのは、つい数か月前のことだ。
ある日を境に彼女の容体は急激に良化し、健康状態は見る見るうちに良くなっていった。
そんな彼女の回復は医者の目にも驚きだったのだろう。これならば薬が要らなくなる日も近いとまで言われ、今日ではこうして共に外出することが出来るようになった。
勇志は今この時ほど、神の存在を信じたことは無い。病に苦しんでも気丈に振舞い、泣いている姿すら兄に見せようとしなかった健気な妹はこの時を持ってようやく報われたのだ。
勇志にはそれが、たまらなく嬉しかった。
「私も嬉しいよ。こうして兄さんと出掛けられるようになるなんて、思ってなかったから」
「絆……」
「いつも私のこと見捨てないで、励ましてくれてありがとう」
「馬鹿言うなって。妹を見捨てる兄が居るか……俺にとってお前との時間は、一番幸せなんだぞ?」
「兄さんったら、シスコンさんだね」
「……そんな言葉、どこで覚えた?」
「ふふ、ひみつ」
今勇志が行っているのは、妹と共にこの町を見て回る散歩である。
満足に外出出来なかった彼女に、今まで自分が見てきた町を見てもらいたいと……そう思ったのだ。
中でも妹はこの町の観光スポットであるペンギンと遊べる水族館がお気に入りらしく、華麗な泳ぎを見せるペンギンの姿をキラキラした目で眺めていたのが記憶に新しい。
今日はどこに連れて行こうか……今後の予定に思いを馳せながら、勇志は赤信号の灯る横断歩道の前で立ち止まる。
しかし、その時だった。
「ッ!? 兄さん!」
「どうした絆? なっ――」
青信号を待ちながら横断歩道の前で待機していた二人の元へ、大型のトラックが一台、減速することなく突っ込んできたのである。
車輪は完全に車の道路を外れて暴走しており、歩道まで乗り上げて猛然と突進してきた。
運転手が信号を見ていない暴走運転――違う。
運転手が信号を見ていないのではなく、運転手が「居なかった」のだ。
突っ込んできた暴走トラックは、ブレーキを掛ける者の居ない完全な無人運転だった。
(くそっ……!)
絆の手を引いて急いでその場を離れようとする勇志だが、暴走トラックの接近まで到底間に合わない。
中学時代は剣道部にも所属していた彼の運動神経は、人並み以上には高い。しかしそんな彼が全力疾走したとしても、100キロ以上の速さで暴走する大型トラックからは逃れようになかった。
せめてもの抵抗として絆の身体を全身で覆うように庇い、暴走トラックの魔の手から逃そうとするが、無意味な抵抗であることは誰の目に見ても明らかであった。
自分諸共、絆は――妹は死ぬ。自らの死を悟りながらも、勇志にはそれだけは受け入れられなかった。
「……っ!!」
妹の命が消えていく――その現実を否定するように絶叫を上げた瞬間、紅蓮の光が、槍のように直下してきた。
――トラックは突如として飛来してきたその光に貫かれ、内部から破裂するように砕け散ったのである。
勇志はその時、何が起きたのかわからず呆然としていた。
「……兄さん? 何が……」
「なんだ……? なんなんだ、これは……」
自分達を跳ね飛ばそうとしたトラックの暴走は、トラックの爆散、消滅という形で食い止められた。
混乱する思考の中でこの場で起こった状況を整理した勇志はトラックを貫いた紅蓮の光が頭上から落ちてきたことを思い出し、上空を振り仰いだ。
そこにあったのは、太陽のように輝く白く眩い光。人の目で見るにはあまりにも眩しく、始めは顔をしかめるように目を細めなければならないほどだった。
「あ……」
目が慣れてくるに連れて、その光が徐々に人の形をしていることがわかるようになる。
そしてさらに時間が経ち、勇志の目にもその光の正体がわかるようになった。
――そこに居たのは、天使だった。
病衣のような汚れ無き白い衣服を纏い、背中からはその儚い装いとは対照的な炎のような紅蓮の翼が二枚生えている。
顔は――光に隠れているが、その顔立ちが非常に整っていることはわかった。特徴的なのは肩先まで下ろされた紅色の髪で、不意に横切った北風がしなやかに、幻想的にその髪を揺らしていた。
――白衣を纏った、紅の天使。
その姿を見上げた勇志は、自身の心に今までに感じたことのない何かが芽生えたことを自覚する。それほどまでに天使の姿は神々しく美しく、神聖なもののように思えたのだ。
トラックの破片を見下ろしていた天使は自分の役目は終えたとばかりに天へと昇っていくと、勇志の視界から消え去っていった。
その際一瞬だけ見えた華奢な後ろ姿に、勇志は妹の絆にも似た少女の面影を見た。
「兄さん、今のは……」
「夢、じゃないよな……?」
「うん……多分、現実だよ」
事実は小説より奇なりという言葉があるが、今体験したことはまさにその通りだと実感する。
この時、白石兄妹は紅の天使を見るという、非日常に触れた。
その日、那楼総合病院の病室で目を覚ました少女、紅井 久玲奈は自らの身に起こった「変貌」に思考を巡らせていた。
この病院の世話になるまで裕福な家庭の中で平穏に暮らしていた彼女は、幼い頃は容姿に恵まれていたこともありかつては充実した人生を送っていた筈だった。
そんな日常に変化が訪れたのは二年前、久玲奈が中学一年生になってから間もないある日のことだ。
その日――久玲奈の住む家の前で、トラック同士の衝突事故が発生したのである。
その衝撃によって跳ね飛ばされた一台のトラックが軌道を変えて転がり、彼女が住む家の中まで突っ込んできたのである。当時その家で一人だけ留守番をしていた久玲奈が気づいた頃には既に彼女の身体は崩壊した自宅の瓦礫に埋もれ、辺りはトラックの炎上によるおびただしい炎に包まれていた。
……幸いにして駆けつけてくれた救助隊が間に合ったことによって一命を取り留めた久玲奈だが、その事故で全身は原型を留めないほど大火傷となり、事故から二年が過ぎた今になっても病院生活が続いている。
骨折の方は不幸中の幸いと言うべきか命に別状無い程度で済み、今では手術跡こそあれど折れた骨自体は完治している。
しかし全身に負った火傷の方はもはや現代医療でも手の施しようもない悲惨な状態であり、久玲奈を焼いた炎はその全身から潤いを消し、顔面は焼き崩れ、肉は醜く歪んでしまった。包帯塗れの身体は寝返りを打つだけでも痛みは走り、満足に歩くことすらままならない。下着をつけることすらも激痛になり、かつては麗しかった女としての久玲奈は完全に死んでしまったのだ。
九死に一生を得て命だけは助かった久玲奈だが、その後の入院生活で「いっそ死んでいれば」と憂鬱に思ったことは一度や二度のことではない。
そんな「紅井久玲奈」という少女のこれまでに人生をどこか他人事のように思いながら、久玲奈は枕に頭を預けながら茫然と天井を眺める。
……長い、夢を見ているようだった。
ここに居ながらも、ここではない別の世界に居る「私自身」の人生。
それは夢のように幻想的であったが、夢見心地ではない現実的な質感のある光景だった。
夢の内容は愉快なことに、今から一年以内に自分が「異世界」に召喚され、勇者として魔王と戦いに行くという荒唐無稽な出来事であった。
非現実的でありながらも紛れも無く現実だと訴えてくるその夢は、まるで未来の自分自身の記憶を追憶しているように思えた。
久玲奈からしてみれば予知夢のようにも見えるその光景を脳内に映しながら、彼女の意識は溶け込んでいくようにその世界へと落ちていた。
――次元の壁をも越えた先に、地球とは違う文明を持つ異世界があった。
そこは剣と魔法が闊歩するファンタジーRPGのような世界観であり、地上に住む人々は人類の敵である「魔族」と日夜戦い続けていた。
しかし彼らの生活圏は魔族の中で最も進化した「魔王」によって脅かされ、既に大地の半分以上が魔族の手に落ちていた。
そんな異世界――「幻想世界フォストルディア」の人々を救う為に、白い召喚魔術師によって地球から十三人の若者達が召喚されたのだ。
その十三人の中に、未来のアカイクレナは居た。
召喚された彼女らのことを異世界の人々は「勇者」と呼んでいたが……実態は決して、名前ほど輝かしいものではなかった。
クレナも含めた勇者達は、誰もが望んで召喚を引き受けたわけではない。彼らは皆平穏な日常生活を送っていた中でわけのわからないまま地球から引き離され、異世界へと送り飛ばされたのである。
そして自分達を召喚した白い召喚師から、君達は勇者だ、敵と戦え、王の役に立てることを光栄に思え等と言いたいことだけを一方的に告げられ――拒否権も無く魔王討伐の命令を受けることになったのだ。
許可なく召喚された上にそんな無茶苦茶な命令をされた勇者達は当然のように抗議したが、そんな子供達に対して白い召喚師は有無も言わさずに「隷属の呪い」を掛けた。
「私の命令に従わなければ死ぬ」と言い放った彼の、言葉通りの呪いの魔法であった。
勇者の一人はその言葉に従わず、激昂の余り白い召喚師に殴りかかろうとしたが……その瞬間彼の心臓は破裂し、断末魔すら無く死亡することになった。道端の蟻が踏み潰されるような一瞬の出来事であり、召喚された勇者達の中で最初の犠牲者が生まれた瞬間だった。
『だから、言ったではないか』
嘲るように、すっとぼけたようにそう呟く召喚師の姿は、クレナ達の目には死神にしか見えなかったものだ。
一同は「人の死」という壮絶な光景を見せられたことで激しく動揺し、そんな彼女らに向かって白い召喚師は白々しく言い放った。
『そう怯えることはあるまい。この私が今、君達の本当の力を目覚めさせてあげよう。その力は勇者の名に違わず、この世界を揺るがすほどに絶大な物だ。その力で魔族を滅ぼしてさえくれれば、後は君達の自由だ。望み通り、君達を元の世界に帰すと約束しよう』
その言葉の後、一同の足元に光の魔法陣が浮かび上がり、子供の身体の内から得体の知れない力が湧き上がってきた。
それは勇者として召喚されたクレナ達の中に眠っていた、「魔力」を始めとする超常の力が覚醒した瞬間だった。
しかしそうして異世界で戦う為に強力な能力を得た後も、隷属の呪いを受けているクレナ達は悪魔のような白い召喚師に従うしかなかった。
白い召喚師から与えられた命令は、ただ自分の命令に従ってこの世界に住まう人類の敵「魔王」を討つことのみ。そこに勇者達の意志を挟む余地など、どこにも無い。
勇者などと言えば聞こえは良いが、クレナ達地球人の立場は国にとって都合の良い戦奴隷と何ら変わり無かったのだ。
 




