第9話(紅)
幻想世界フォストルディアという異世界は地球の先進国と比べて全体的な科学技術の水準こそ高くないものの、地球には無い「魔法」が存在し、人々はその不可思議な力を用いて日常を過ごしていた。
しかし地上には、人や動物の他に「魔物」と言った異形の存在があった。そしてその「魔物」に連なる外敵の存在により、人々の生存圏は最盛期の十分の一以下にまで追いやられたのである。
外敵の名前は「魔王軍」。
「魔界」と呼ばれるもう一つの異世界からやってきた「魔族」の一団は地上への侵攻を行い、圧倒的な力を持つ「魔王」の手によって数多の国が落ちていった。
人類にも「剣聖」と呼ばれるような腕利きの戦士の存在はあったが彼らの抵抗も虚しく、かつては数百か国以上もあった人々の国々は既に一桁にまで減少していた。
そんな世界における数少ない国の中でクレナの記憶に最も強烈な印象を刻んでいたのは、最大にして唯一の大国である「フィクス帝国」の存在だった。
未来のクレナはその国に対して、魔王軍以上の敵意を抱いていると言ってもいい。
それもその筈で、この「フィクス帝国」こそがフォストルディアを象徴する国家であり、未来のクレナ達を強制的に異世界召喚した元凶なのだ。
魔王軍に追い詰められている以上人々が困窮するのはわかるし、なりふり構っていられない状況だったというのもわかる。しかしそれでも、地球の子供達に過酷な戦いを押し付けておいて、自分達はのうのうと結界の中に引きこもり続けていたロクデナシ共に対する未来のクレナの憤りは、今のクレナがロア・ハーベストに向けているものよりも遥かに大きかった。
慈悲深く優しかった白石絆は健気にもそんな腐りきった異世界人達さえ救おうとしていたものだが、クレナから言わせてみれば、かの国に自分達が命を削ってまで守る価値などありはしなかった。
そんなフォストルディアのフィクス帝国――そこから来訪して来たと思わしき召喚師の少年は、目の前の現実が信じられないとばかりに狼狽えていた。
「そんな……デーモンがやられるなんて……っ」
『もう二度と、お前達の思い通りにはさせない。それでもまた私を縛ろうとするなら……今度は私がお前達を滅ぼしてやる』
翻訳魔法を乗せた言葉でクレナは召喚師ロアに宣戦布告を叩きつけ、生成し直した炎の剣を右手に構え直す。
この剣から溢れる紅蓮の炎で焼き払ったスカル・デーモンの肉体は既に消滅しており、残る彼の召喚獣はキラーマンティス・マザーとワイバーンだけだ。
いずれも、決して弱い魔物ではない。しかし未来の自分から受け継いだこの力がある限り、クレナにとって恐るに足らない相手だった。
借り物の力を惜しげもなく振るっていることになるのだろうが、クレナはそんな自分を省みないしこのスタンスを崩すつもりはない。故に、倒すべき者の命を絶つことにも躊躇いは無かった。
「キッ!」
キラーマンティス・マザーが唸りを上げ、薄羽根を広げながら大鎌を振るう。
紅蓮を纏ったクレナが炎の剣を払い、敵の大鎌と二、三回打ち合う。
たったそれだけの接触で、キラーマンティス・マザーの武器は真っ二つに切り裂かれ、両腕ごと残骸となって地に落ちていった。
「じゃま」
圧倒的な力の差がある中で、あえて蹂躙に時間を掛ける必要は無い。しかしこの時のクレナが相手の全力に対してそれ以上の力で返り討ちにしていく感覚に、言い知れぬ快感を抱いていたのは確かだった。
その高揚の中でクレナは炎の剣の一閃でキラーマンティス・マザーの身体を両断し、焼き払っていく。
「あ、ああ……」
一瞬にして二体もの召喚獣が倒された光景を間近に、ロアが愕然とする。
信じられない光景に声も出ないと言ったところか、自分が規格外の怪物を相手にしていたことにようやく気づいたのだろう。
しかし少年が浮かべた絶望の表情を見ても、クレナはその心に何の揺らぎも無かった。
馬鹿なことをした彼がここで死ぬのも全て自業自得だと切り捨て、クレナは紅蓮の翼を広げながら彼の乗るワイバーンの元へと切迫していく。
高速移動するクレナを近寄らせまいとワイバーンが火球のブレスを連射してくるが、そんなものでは鋭角的に飛行するクレナの影すら捉えられなかった。
「……!」
「しね」
間合いに入った瞬間、クレナは靴のつま先でワイバーンの顎を蹴り上げると、その巨体を大きく仰け反らせる。
その震動によりバランスを崩したロアの姿を見据えると、クレナは右手に持った炎の剣の刀身を五メートルほどの長さまで一気に増幅させた。
クレナの「C.HEAT」能力である「浄化の炎」を魔力で固定して作り出したこの炎の剣は、剣として扱ってはいるものの厳密には剣ではなく剣の形をした炎に過ぎない。
故に炎で生成された刀身は、クレナの意志一つで任意の長さに伸び縮みさせることが出来た。
「うわあああっ!?」
一瞬にして大剣に変形した炎の剣が、ワイバーンの肉体を断末魔すら上げる隙もなく焼き払っていく。
クレナとしては背中に乗っていたロアの存在もまたこの一撃でまとめて仕留めるつもりだったのだが、足元からバランスを崩したことが幸いし、炎に巻き込まれる寸でのところでワイバーンの背中から振り落とされていた。
しかし爆炎の中から飛び出してきた彼の身体は重力に従い、転がり落ちるように無人の町へと墜落していった。
高層ビルの屋上並みの高さから墜落した彼は、普通の人間であればそれだけで呆気なく絶命していたことだろう。
しかし、流石はフォストルディアの召喚師か。墜落の際に何らかの防御魔法を使っていたらしく、彼の身体は五体満足で地上にあった。
尤もクレナが生死を確認する為にその場に降り立った時には、既に彼は満身創痍な様子で膝をついていたが。
「はぁ……はぁ……!」
「ぶざまだな」
息も絶え絶えな姿で力無くこちらを見上げている彼の姿を眼下に見下ろしながら、クレナは冷たい声で吐き捨てる。その心にあったのは、明確な意志を持った彼らへの侮蔑だ。
異世界の子供にばかり頼って、自分達の世界を守った気になっている。いつまでも他力本願で、そのくせ文句だけは一丁前な連中ばかりだった。
クレナの心の中には、今も彼らに対する怒りが残り続けている。端的に言うとクレナはフォストルディアの人々が……特にフィクス帝国の人間は反吐が出るほどに嫌いだったのだ。
「くるしいなら、らくにしてやる」
自分達の世界がそんなにも窮地に立っているのなら、私の手で苦しみから解放してやるよ。そう嘲笑い、クレナは剣の柄を握り直し、身の丈ぐらいの長さに戻した炎の剣を振りかぶった。
そしてそのまま彼の身体を目掛けて振り下ろし、真っ二つに斬り裂こうとした瞬間――クレナの剣の進行は、彼の頭の先から数ミリ手前の位置でピタリと止まった。
「それは……」
彼の胸元で存在を自己主張するように光っている赤い物体を見た瞬間、クレナは思わず振り下ろす手を止めてしまったのだ。
ボロボロにはだけたロアの上着の胸元からは、一つのペンダントが赤く光っていた。
そしてそのペンダントの存在は、未来の記憶を持っているクレナにはどうしても無視できないものだったのだ。
「その、ペンダントは……」
「……え?」
ロアは攻撃を止めたクレナの姿に目を見開き、喉元から息を呑む音が聴こえてくる。
そんな彼に向かってクレナは、脅迫するように炎の剣を突き付けたまま彼に問い質した。
「……なんで、おまえが、これをもっている?」
そう放ったクレナの声は、自分でもわかるほどに震えていた。
彼の胸元から飛び出してきた赤いペンダント――そこに刻まれた、鳳凰のような真紅の鳥の姿が描かれた紋章は、未来のクレナが幻想世界フォストルディアにおいて唯一価値のあるものだと思っていた地に由来するものだったのだ。
『フィクス帝国の召喚師が、何故「聖地ルディア」の紋章を身につけている?』
ロア・ハーベストという少年がフィクス帝国の召喚師であるならば、その紋章は身につけている筈が無いものだった。
魔王軍と戦う為に地球から適性のある者を攫って勇者という名の戦奴隷として扱うのが、クレナが憎んでいるフィクス帝国の在り方だ。代々召喚魔法によって発展してきたという歴史がある。
一方で聖地ルディアという国はその名前から連想させるように、幻想世界フォストルディアの成り立ちそのものに関わっている聖なる場所である。「創造神ルディア」という神を崇める信徒達によって作られた宗教国家と言えば少し胡散臭く聞こえるかもしれないが、未来のクレナ達にとってはフォストルディアの中に居て唯一気の休まる場所だったのだ。
フィクス帝国の勇者に対する認識が対魔王軍用の戦奴隷という曲がりくねった邪道なものならば、聖地ルディアの勇者論はまさに正道。ルディアの民は、聖地に眠る神の作り出した「聖剣」を引き抜いた者だけを勇者として認めていたのだ。
聖地ルディアはフィクス帝国とは違い、勇者という存在を神聖視しているのである。
他所の世界から拉致して来た子供を隷属させ、それを勇者と呼ぶのは神に対する冒涜だとルディアの民はフィクス帝国を批難し、クレナ達のことを被害者として憐れみ助けようとしてくれたのだ。
……たったそれだけのことと思うかもしれないが、精神的に追い詰められていた未来のクレナ達にとってはそれだけでも大きな安らぎだった。
誰一人として頼れるものが居ない世界の中で、たとえ裏があったのだとしても受け入れてくれる場所があったのは。
ロア・ハーベストが胸に下げていたのは、その「聖地ルディア」の民を意味する紋章が刻まれたペンダントだった。
火の鳥を思わせる真紅の鳥の紋章はフォストルディアを作った神の片割れである「創造神ルディア」の姿だと言われており、ルディアの民にはそれを肌身離さず携帯している風習がある。
そんな代物を隠し持っていた理由をクレナが怪訝な目で訊ねると、彼は声を震わせながら答えた。
「ぼ、僕の故郷だからです……僕は、聖地ルディアの神官見習いですから……」
『神官だと? お前が?』
予想外な返答に自分の目つきがさらに険しくなっているのがわかる。
召喚師の国と言えばフィクス帝国であり、その召喚魔法を激しく嫌悪しているのが聖地ルディアだ。
そのルディアの民が召喚魔法を使うなど、未来のクレナの知識からしてみればあり得ないことだった。
『お前は、フィクス帝国の召喚師じゃないのか?』
「そんなんじゃありませんっ! あんな最低な……! あんな国……っ!」
召喚師であるならばフィクス帝国の者だと決めつけていたクレナの問いに、彼は激しい剣幕で否定する。
強く、感情の篭った言葉だ。その表情にはクレナとの対峙では見えなかった激しい怒りの色が滲んでおり、言葉はフィクス帝国のやり方を批難する内容だった。
聖地ルディアがフィクス帝国を嫌っているように、フィクス帝国もまた聖地ルディアを嫌っている。独裁者である帝王の影響が著しく強いフィクス帝国の民が、たとえ演技でも直接的に批難するとは考えにくい。
これがクレナを騙す為の罠だという線も考えられるが、こうしてボロボロにならなければ見えないような服の下にわざわざ紋章を隠していたことを考えると、その剣幕も手伝ってか彼の語る身の上には信憑性がある気がした。
『話せ』
「え?」
既に戦いはチェックメイトに至っている。文字通り彼の命を握った状態にあるクレナは、その優位性を保ったまま彼に続きを促した。
これは決して、彼に慈悲を掛けたわけではない。
教義に従順な聖地ルディアの民でさえも、神への信仰を裏切って召喚魔法を使おうとしたと言うのなら……いずれにせよ、彼の話は聞く価値があると未来の自分に呼び掛けられた気がしたのだ。
『ここで殺されたくなかったら、私を納得させろ』
あくまでも高圧的に彼を見下ろして、クレナは炎の剣を突き付けながらそう言う。
その言葉にロアは驚きながらも、紺碧の瞳に僅かな期待の色を浮かべて口を開いた。
「……僕の姉が、フィクス帝国に攫われたんです。……ゼン・オーディスという、最悪の召喚師に……」
彼の口から出てきたその人物の名を聞いた瞬間、クレナの全身からあらゆる力が昂っていくのを感じた。
ゼン・オーディス……その名前を忘れたことは、一度として無い。
その男は、未来の世界でクレナと白石兄妹達を異世界召喚した張本人である。フィクス帝国最強にしてフォストルディア随一の召喚師であるあの男を滅ぼせなかったことは、未来のクレナが遺した未練の中でも際立った心残りだった。
「無断でこんなことをして……最低なことをしているのはわかってます。でも……それでも! 絶対に元の世界に帰しますし、どんな裁きでも受けます……! だから、お願いします……ルディアに来て、どうか姉上を助けてください!」
このロアという少年は、自分が何を言っているのかわかっているのだろう。
自分の悪事を理解しているし、悔やんでもいるのだろう。
ロアが両手を地面に着けて頭を下ろし、額を深々とアスファルトへと押し付けていく。
その土下座は、彼なりにこの日本の文化を勉強した上での謝罪だろうか。
「……そうか、おまえがたすけてほしいのは、せかいでも、フィクスでもなかったのか……」
「どうかお願いします! 姉上だけは……! 姉上を助ける為には、どうしても地球人の力が必要なんです! だから……!」
彼が助けてほしいと懇願していたのはフォストルディアという魔王軍に脅かされた世界ではなく、たった一人の自分の姉だったのだ。
姉の為にルディアの教義に反してまで召喚魔法を使い、どんな手を使ったのかはわからないがこの地球にまで乗り込んで助けを求めてきた。その悪徳さを理解した上で、どうしてもフィクス帝国に攫われた姉を助けたかったのだと言う言葉は、筋が通っているように思える。
クレナとて、その気持ちは痛いほどわかる。
自分の全てを投げ打ってまで、どんな手を使ってでも大切な何かを守ろうとする気持ちは。
「……なっとくした」
フォストルディアの召喚師にしては迂闊な奴だと思っていたクレナだが……彼がフィクス帝国の者でないのだとすれば全て腑に落ちる。
彼の言葉を受けたクレナは炎の剣を下ろすと、手元から消失させる。これ以上、彼とのやりとりに武器は必要無いと判断したのだ。
そしてクレナは、土下座の体勢のまま涙を流して懇願している彼の前へ近づき――蔑みの目で見下ろした。
「なに、それ?」
「……っ」
額だけではなく、ロアの頬が上から掛かって来た圧力によって地面へと押し付けられる。
右足を振り上げたクレナが、彼の頭を靴底で踏みつけたのだ。
それは傍から見れば、中学生が小学生を土下座させた上に頭を踏んでいるという凄惨な光景に映るであろうが、生憎今は彼の張った封鎖結界によりここに見物人は居ない。
尤も誰かがこの光景を見ていたとしても、クレナがその足を止めることはなかっただろう。
「おまえは、もののたのみかたも、わからないのか?」
「ご……ごめん……なさい……!」
「ほんとに、おまえたちは……どこまで、なさけない」
彼の気持ちも彼を取り巻いている状況も概ね理解したが、守りたい者の存在を盾にして言い訳する彼のやり方や態度が、クレナには無性に気に入らなかったのだ。
頼みがあるなら召喚魔法を使う前に説明するべきだったのだ。子供の戯言だと聞き入れてもらえない可能性がどんなに高くても、それが本人達に無断で異世界へ連れて行って良い理由にはならない。
彼がフィクス帝国の者ではなく、聖地ルディアの民だというのが真実だとしても、本当ならこのまま頭を踏み潰してやりたいぐらいだった。
――しかし、もしこの少年に地球とフォストルディアを行き来することが出来る力があるのなら。
踏みつけながら、クレナの頭に一つの考えが浮かび上がる。それ故に、クレナは彼の息の根を止めるのは後回しにすることにした。
(嘘を言っていないなら、使えるかもしれない……)
正直に言って、クレナは彼の姉がどうなろうと知ったことではないし、たとえ彼が泣き喚きながら縋りついてこようと意に介すつもりはない。
しかしフォストルディアから次元の壁を越えて来た彼の存在は、地球人を拉致する異世界召喚師に対して有効な道具になるのではないかと思ったのだ。
 




