第7話(紅)
何故、貴方はそうも強く在れるのか――未来のアカイクレナが、彼にそう訊ねたことがある。
平穏な生活から切り離され、病弱な妹と戦乱の世界へと召喚され、終わりなき戦いを強制されて……そんな夢も希望も無い世界で何故そうまで明日を信じ続けられるのか、クレナにはわからなかったのだ。
何もかも諦めきった腐った目でそう訊ねるクレナに対して、彼は困ったように苦笑を浮かべる。しかし確固たる意志を宿した目で、彼は応えた。
『君に強いって言われるのはむず痒いな。俺はただ、絆にとって良い兄貴で居たいだけなんだと思う』
『そんな簡単な話じゃない……いくら妹が居たって、貴方が弱みを見せない理由にはならない。見栄を張るだけで、そんな風に生きられるもんか』
『そうか? 案外馬鹿にしたもんじゃないぞ、見栄っ張りって言うのも』
『…………』
『そんな言葉で納得できるかって顔だな……まったく、君には敵わないよ』
『何が、です?』
『正直な話、空元気なところもある。魔王軍との戦いは終わりが見えないし、仲間のみんなも減っていくばかりだしな……』
彼は決して、どんな困難にも挫けない無敵のヒーローだったわけではない。人並みに悩むし、人並みに落ち込みもする。
ただ、クレナにはそんな彼の姿がいつも輝いて見えた。時々弱さを見せてくれたその時ほど、支えてあげたいと思ったものだ。
『君にだから言えるが、俺だって怖くて仕方ないんだ。こんな暮らしをしていたら、どんどん自分がおかしくなってきて……なんだかもう、人間じゃなくなっているような気がしてな』
『そんなこと……ユウシは人間です。私の知る誰よりも』
『……ありがとう。そうか……ああ、そういうことなのか』
『? 何のことです?』
クレナとの会話の中で、彼は何かに気づいたように晴れ晴れしい表情を浮かべる。
何年も戦い続けてもなお終わりが見えず、絆を育んだ仲間達とも死に別れていく。その日々がどんなに苦しくても、彼は希望を信じて進み続けるのだと言った。
たどり着く場所が見えなくても、彼はただ諦めたくなかったのだ。
その希望こそが、仲間と共にあった。
『兄貴としての立場だけじゃない。俺はただ大切な人を守りたかったから、ここまで戦い続けることが出来た。ただ、諦めたくなかったんだよ。地球に帰ることも、妹を守ることも……仲間のみんなと生き残ることも』
彼には守るべき存在があった。そして同じ境遇の者達と共に戦っていく中で、仲間達の存在もまた家族のように大切な存在に変わっていたのだ。
この戦乱の世界で、召喚された当初より自分の心が荒んでいるのは誰もが実感していた。だがそれでも、いつの日かみんなで故郷に帰り、笑い合う日を信じて――彼はどこまでも、純粋であろうとしていたのだ。
『……無理だ。最初はあんなに居たみんなも、もう五人しか居ない……それに運良く生き残ったとしても、あいつが約束を守るもんか……』
悲観的に生きていたクレナは希望なんてものは最初から信じておらず、一度は彼の思想を甘ったれだと否定した。
貴方の言うことは、ただの楽観論だと。現実はどこまでも不条理で、残酷だ。魔王軍などという世界規模の軍隊をたった数人で相手をして、全員が生き残れる筈が無い。仮に生き残れたとしても、あの性悪な召喚師が約束を守ることなどあり得ないと。
彼の方とて、そんなことはわかっている筈なのだ。
しかしその上で彼は立ち止まらないことを――進み続けることを選んだ。
『生き残るさ。オーディスのことは、俺だって信じちゃいないが……この世界には、これだけ不思議な力があるんだ。戦っている内に、いつか俺達が帰る方法が見つかるかもしれないだろう? この呪いを解く方法だって、どこかにあるかもしれない』
呆れるほどに真っ直ぐで、眩しくて……しかしそれだけではなく、彼の心には現実と向き合ってもなお前に進んでいく「勇気ある者」だった。
あの召喚師によって連れてこられた十三人の勇者の中で、白石勇志という人間は誰よりも勇者を名乗るに相応しい男だったのだ。
『そして俺が守りたい人の中には、君も居るんだ。頼りないかもしれないが……俺がついている。だから君も、進むことを怖がるな』
『…………』
誰よりも勇気があって、誰よりも強くて。
そして誰よりも、アカイクレナの本質を理解してくれる人だった。
『いつ何が起きるのかわからない。いつ壊れてしまうのかもわからない……そんな未来と向き合うのは、俺だって怖い。だから俺も、君に頼んでいいか?』
『何を、頼むんですか……?』
『俺と一緒に進んでほしいんだ。今もこれからも……同じ時間を、ずっと』
『あ……』
絶望の未来しか待ち受けていないと悲観していたクレナを、いつかその腕で抱きしめてくれたあの日――彼女が抱えていた心の闇は、いつのまにか取り払われていた。
言葉は陳腐なだけではない。彼はその行動によって、未来のクレナに道を示してくれたのだ。
何もかもを諦めていたアカイクレナの荒み切った心を、希望の光で照らしてくれた。
『ユウシ……わ、私は……』
『いいんだクレナ、俺は君が……』
それが異世界にて十九歳になった頃、クレナが経験した初めての恋だった。
ムードも減ったくれもない魔物達の屍の上で抱擁を交わし、いつの日かはっきりと言ってくれた彼の言葉が今の記憶にも焼き付いている。
彼が伸ばしてくれた手を掴み、二度と離さないと誓った未来のクレナの熱情は、今の「紅井クレナ」の心にも受け継がれているのだ。
――だがその光景を、この世界で繰り返させるつもりはない。
何故ならば彼と彼の大切な妹も、異世界の勇者になることはないからだ。
彼らの異世界召喚は、この紅井クレナが阻止する。
召喚師が何度彼らを連れ去ろうとしても、何度でも妨害してみせる。
それが未来の自分から記憶を受け継いだ、ここに居る自分の役目だとクレナは規定していた。
「……わたしは、みらいをひていした。だけど、たちどまるつもりはない」
魔法を使って気絶させた白石勇志の身体を抱き抱えながら、クレナは彼の座席までゆっくりと運んでいく。
三日前は、今回と同じようなことを兄の紅井彗にもやったものだ。彼のように魔力の覚醒していない一般人が相手ならば、こうして痛みを与えることなく数分間眠らせることは容易い。
その間に認識阻害魔法の応用で記憶を封印しておけば、ここで起こった全てが何も無かったことになる。やろうと思えば、完全犯罪だって容易いものだ。
しかし、流石は未来では最高クラスの勇者だった白石勇志である。まだ魔力が覚醒していないにも関わらずその魔法耐性は並外れており、彼だけはクレナがこうして直接手を触れなくては他のクラスメイト達のように気絶させられなかったほどだ。
そう、元々クレナは、勇志を気絶させる為に彼の元へと近づいたのだ。本来ならこの場で彼と話す気も、抱き着く気も無かった。
無事な彼の姿を見て、子供のように泣きじゃくるつもりも無かったのだ。
「……えへへ……」
……だから、違う。
こうして彼の身体を運びながら、だらしなく頬が綻んでいるのも何かの間違いである。そう自身に言い聞かせながらも、彼の体温を感じているクレナの顔はほんのりと赤らんでいた。
「ユウシ……」
三日前、クレナはこの町に現れた「魔物」と戦ったことで、敵を蹂躙し踏み潰すことにこの上ない充実を感じる自分の歪みに気づいてしまった。時間を置いて素に戻れば、そんな自分自身の在り様を恐ろしく思ったものだ。
しかしそんな自分と比べて、今ここに居る白石勇志は平凡な高校生そのものだ。
異世界に召喚されていない彼の心は当然ながらあの世界に染まっておらず、無垢なまま……勇者ではない「ただの白石勇志」がそこに居た。
未来のアカイクレナさえ見たことがない、彼の姿がそこにあったのだ。
そんな彼と目と鼻の先まで近づいてしまったら、魔物との戦い以来心が不安定だったクレナが平然としていられる筈も無かった。
気づけばクレナは、彼の命を身体で感じようと抱き着いていた――そんな、先ほどの経緯である。
客観的に見れば、不審者以外の何物でもないだろう。
理性を取り戻した今になって、クレナの中では羞恥心が湧き上がっている。
尤も彼を含めてこの場に居る者達には全員、記憶の封印を施している。起きた頃には自分達が魔方陣式召喚魔法に巻き込まれそうになっていたことも、クレナがこの場に来たことも覚えていないだろう。三日前、魔物と出くわした兄の記憶にも同じ魔法を掛けて対応していた。
このような非日常を、彼らが知る必要はない。
この目が届く限りこの町からは誰一人として異世界召喚させないし、異世界の存在さえも感知させる気は無い。空想は空想のまま、現実の外側に存在していればいいのだとクレナは思う。
出来ることならば他の勇者達のことも守りたいものだが……最優先するのは白石兄妹の二人だ。未来のクレナと最後まで一緒に居てくれた二人だけには、何を犠牲にしても平和な時を過ごしてほしかったから。
この世界ではまともな面識も無いくせに、他人の生活を縛り付ける……とんだ悪女である。そう自覚するクレナであったが、この方針を改める気は無い。
『……俺達のこと、助けてくれたんだよな? ありがとう』
彼が言ってくれたその言葉に、クレナの頬がだらしなく綻ぶ。
目が覚めた頃にはクレナと会ったことは覚えていないだろうが、白石勇志が状況を飲み込めていないながらも自分に感謝してくれたのは身に染みるほど伝わってきた。
対価としては、それで十分すぎる。彼の優しくて温かい言葉だけで、クレナは未来永劫戦える気持ちだった。
しかし出来ることならば彼とは、こんな形ではなく……勇者や異世界召喚とは関係の無い、一人の女として会いたいものだと寂しく笑う。
「……すすみつづけます……みらいのわたしがのぞんだ、あなたのしあわせをつかむために」
気絶した勇志の身体を座席に座らせた後、クレナは去る間際にもう一度彼の頭を自分の胸まで抱き寄せて呟く。
未来の自分が見たことがないあどけない寝顔を間近に、少しだけ優越感に浸りながらクレナは微笑む。
――彼はここに居る。ああ、どこにも行かない。どこにもイカセナイ。
一生自分の傍に居ろなどと、おこがましいことを言うつもりは無い。しかし彼がどんな未来を進もうと、彼の居場所はいつまでもこの世界であるべきだとクレナは思う。
――だからこそ、それを脅かす者が許せない。勝手なことをする奴らが許せない。
「ふ……ふふふふ……」
異世界に召喚された人間に、幸福な未来は訪れない。それが未来の自分が見てきた確固たる事実であり、この時代の自分に与えてくれた警告だと言うのなら……クレナはどんな手を使ってでも、彼らの異世界召喚を認めなかった。
「いちどならず、にどまでも……」
勇者としての適性の高さ故か、最悪なことに白石勇志が狙われるのは宿命の域にあるらしい。
それも今回の異世界召喚は、無駄に緻密な策が講じられたものだった。
今回名も知らぬ異世界召喚師は、学校に居たクレナを「封鎖結界」に閉じ込めた後で、この学校に居る勇志をクラスメイトごと魔方陣式召喚魔法で連れ去ろうとしたのだ。
クレナの動きを封じつつ、彼を奪おうとしたのである。そこには明確な計画性があった。
結界はクレナの力を持ってすれば苦も無く壊すことが出来る強度であるが、その分だけこちらの動きが僅かに拘束されるのは間違いない。その点では、今回の手口は一見効果的に思えた。
しかしこちらとて、その程度のことは想定済みである。
そんな時の為に、クレナは彼らの見張りにスズメ型の使い魔を送り込んでいたのだ。
「くだらないこざいくを、しやがって」
使い魔は、ただバレにくい盗撮カメラとして使っていたわけではない。スズメ型の使い魔にはもしもの時の為に、使い魔の居場所と私自身の居場所を入れ替える能力が付与されていたのだ。
封鎖結界に囚われたクレナは、その力で自分の居場所を勇志の学校の近くに配置していた使い魔と入れ替えた。それは疑似的な瞬間移動のようなものであり、使い魔が放たれている限り、クレナには距離という概念は存在しない。
どんなに距離が離れていようが、クレナは執念で駆け付ける。そして一度ならず二度までも勇志を狙った召喚魔法に、クレナの怒りの臨界点はとっくに振り切れていた。
「ぜったいに……」
封鎖結界に閉じ込めたことで安心でもしていたのだろうか、間抜けなことに今回の術者は魔方陣を展開する際に膨大な魔力を放っていた。その痕跡を辿れば、術者の現在地を探知するのは簡単である。
「ゆるさない」
彼の存在を見つけたことに喜びを浮かべながら、クレナがそう呟く。
敵側は気配を絶ったつもりなのだろうが、研ぎ澄まされたクレナの六感は相手の居場所をとっくに割り出していた。後は地の果てまで追い掛け、生まれてきたことを後悔させるまで懲らしめてやるだけだ。
ユウシから身を離した後、クレナは全開に空けた窓ガラスの枠に足を掛けて身を乗り出す。
瞬間、飛行魔法を発動し、背中から紅蓮の翼を広げる。
校舎の三階に位置するこの場所から眼下に広がる外の景色に意識を向けたクレナは、その翼を羽ばたかせながら一気に空中へと飛び出した。




