第6話(紅)
ネット小説、というものがインターネット社会にはある。インターネットやパソコン通信にて書き綴られ、公開されている小説のことだ。
このネット小説というものは誰でも気軽に執筆することが出来、ネットの海を介して大勢の人々に公開することが出来る。そう言ったシステムもあってか、作品の大半を占めるのはアマチュア作家の趣味によるものが多かった。
しかしそのアマチュア作家が学校の教室の中でまで、包み隠さず堂々と開けっ広げにしているケースはそう多くは無いだろう。
白石勇志が通う天阜嶺高校には、ネット小説作家のクラスメイトが居る。
自分の書いたネット小説を手当たり次第周りのクラスメイト達に読ませ、その感想を貪欲に求める男が居たのだ。
そんな自殺志願者の如き無謀な男の名前は、田中正雄と言った。
「さあ、読みたまえ!」
「え?」
昼休みの時間、勇志が教室の机で数少ない友人である宮本と昼食を摂っていたその時、彼が自らのスマートフォンの画面を見せて唐突にそう命じてきたのである。
勇志は別段正雄と仲が良い訳ではない。元々人見知りな性格の勇志は、日頃から友人以外の者と話すことは多くなかった。
そんな勇志に対して妙に尊大な態度で近づいてきた正雄が強引にスマートフォンを押し付けると、同じ場所で昼食を摂っていた宮本が呆れたように「まーた始まったよ」と息をついた。
「なんだこれは……」
「正雄の書いたネット小説だよ。コイツ、自分の小説を完結させた時はクラスメイト全員に読ませるんだ」
「以前女子にネット小説を読んだことがあるかと聞いたら、は? キモイんだけどと言われた。ネット小説の知名度などそんなものだ。しかし俺としてはサイト内だけではない、より多くの感想が欲しいからな……作家たるもの、身近な人間の意見が必要なのだよ」
「田中は、小説家を目指しているのか?」
「左様」
「……変わった喋り方だな」
「自分のことをラノベ主人公だと思い込んでいるんだろ……精神異常者だよ」
「照れるではないか」
「褒めてねぇよ」
彼のスマートフォンの画面には、ネット小説投稿サイトにおける小説のトップページが開かれていた。
そこには「異世界で寺院を開いたけど、誰一人として僧侶が集まらない件」という奇抜なタイトルと共に長々しいあらすじ文が書き綴られている。
「随分、コアな小説を書いているんだな……」
「コイツが授業時間すら堂々と書いているのは有名な話だぜ?」
「ふっ、それほどでもない。歴史の授業は新しいネタに事欠かないのでな」
勇志は正雄と特別仲が良いわけではないが、宮本と正雄は小学校から続く縁らしい。腐れ縁とは宮本の弁だが、勇志の目には彼らが気心の知れた友人関係にしか見えない。
それを少しだけ羨ましいと思いながら、勇志は言われた通り画面をタップして小説のページを開いた。
それから十分ほど使って速読しながら内容を把握した勇志だが、この時点での感想は何とも言えないものだった。
物語の内容は、ある日剣と魔法のファンタジー世界にクラスメイトごと召喚された主人公タナカが王様から魔王討伐を命じられるが、彼は熱心な仏教徒である為に異世界の宗教観とはそりが合わず、パーティメンバーから外され国外追放されてしまう。その後タナカは思い切って「ならばこちらの世界で仏教を広めるまで!」と寺院を開き、世間に仏の教えを広めようとするのだが……何故か集まって来るのは歳端もいかない美少女ばかりだったという話である。
「このキャラ達の登場は、少し強引じゃないか?」
「美少女無くして書籍化は叶わん。しかし作品の売りである寺院要素を外すわけにはいかなくてな」
「寺院要素というが……途中から魔王軍とのバトル物になっていないか? これはこれで面白いとは思うが……」
「魔物を仏の力で消滅させているだろう! 見ろこのセリフ、「キャー! 流石タナカ様だわ! 寺生まれって凄い!!」と書いてあるではないか。主人公の能力は、寺生まれだからこそ身に着いたものだ」
「そういうものか」
「そういうものだ」
「違う、間違っているぞ……」
作者からリアルタイムでの解説を直に貰いながら、勇志は正雄の小説を読み進めていく。
登場時からやけに主人公への好感度が高いヒロイン達や、仏の力と称した謎パワーで無双していく主人公のタナカマサル。勇志が個人的に「惜しい」と感じたのはこの辺りである。
仏教のぶの字も存在しない異世界で主人公がどのように仏教を広めていくのかと思いきや、内容は主人公が少女達を侍らせながら無双していくチートハーレム物に過ぎなかったのだ。あまりネット小説の世界に馴染みのない勇志の目にはこれはこれで新鮮だったが、タイトルやあらすじから抱いた期待からは少し裏切られる内容だった。
「このタイトルとあらすじは変えた方がいいんじゃないか? 本筋からぶれている気がするが……」
「ふっ、タイトルなど、読者に興味を抱いてもらえればそれでいいのだよ」
勇志が率直な意見を述べると、正雄が知ったような口で答える。
確かに本文との差異はあれど、このタイトルとあらすじから色々な想像を掻き立てられたのは事実である。この程度のことはネット小説界隈では常識なのかもしれないと勇志はタイトル改変に口を挟むのは止め、とりあえず切りの良いところまで読み進めることにした。
ツッコミどころは多かったが、なんだかんだで続きが気になる物語だったのである。
「どうだったかね?」
スマートフォンを正雄に返すと、勇志は早速感想を求められる。自分の作品を恥ずかし気もなく披露し、その感想からより良い作品に仕上げようとする姿は作家志望者としては賞賛に値するだろう。
しかしこうして面と向かうとどう言えば良いものかと悩み、勇志は答えを窮した。
「安心したまえ、どんな感想でも真摯に受け止めてあげよう」とやけに上から目線の言葉を受けて、勇志はようやく切り出した。
「文章は読みやすかったし、登場人物のキャラも立っていたと思うが……クラスメイトごと召喚する意味はあったのか?」
彼の作品「異世界で寺院を開いたけど、誰一人として僧侶が集まらない件」は主人公が40人のクラスメイト達と共に異世界に召喚されるのだが、その扱いは正直言って微妙なものだった。
クラスメイト達は右も左も勝手の違う世界の中において主人公と共通点のある数少ない人物だというのに、彼らは揃いも揃って国外追放された主人公に罵詈雑言を浴びせながら見捨てていくという悪役の役回りだったのだ。
どうやら主人公はクラスでは変人さが災いしていじめられていたらしいが、何も異世界にまで因縁を持ち込むことはないのではないかと思ったのだ。
そんな勇志の疑問に対して、正雄が得意げな顔で答える。
「そこが大事なのだよ。お前はまだ八話ぐらいしか読んでいないが、次の話からはいじめっ子達への復讐編が始まるのだ」
「寺院要素は……」
「彼らを極楽浄土へ送る!」
「何か、俺の知っている仏教とは違う気がする……」
「BUKKYOUだな」
クラスメイトごと召喚された仏教徒の主人公が、異世界で仏ならぬHOTOKEの力に目覚めて無双し、ついでにこれまで主人公を虐げてきたいじめっ子達をGOKURAKUに昇天させる。つまりはそういうことだろうか。
そうして馬鹿らしいことを真剣に考えていると、勇志はなんだか頭が痛くなってきた。
「復讐か……異世界で新しい力を身に着けてまでそれって言うのも、何か引っ掛かる……」
「フッ、それが人間というものだ」
「良いこと言った顔してんじゃねぇよ」
「それに……召喚されたクラスメイト達、どこかで見たことあるな」
「無論、このクラスを参考にさせてもらった!」
「無断でな」
「……ああ、それでか」
作中異世界に召喚されたクラスメイト達も含めて、現実のクラスメイトをもじった名前の人物や、似たような外見描写のものが多かったのだ。主人公の名前が作者と同じタナカであることからも、もはや潔くすらある。
中には黒石勇次という明らかに勇志をモデルにした人物も登場しており、そのキャラは無駄に女キャラを侍らせながら主人公を嘲け笑う嫌な奴として描かれていた。
「俺は……そんなに嫌味な奴だったのか……」
「俺なんてリザードマンだぞ? 幼女をベロベロしながら食べようとするおぞましい変態キャラだ」
「作中に出てくる人物は全てフィクションだ。問題無い」
「問題だらけだよ。それを直接本人に見せられるお前の神経がおかしい」
「ふっ……」
「何勝ち誇ってんだよ……」
割と真剣に気を落とす勇志と、自分の扱いに慣れているのか苦笑いを浮かべる宮本。
そんなことを話しているうちに昼食を食べ終わった勇志は弁当箱を片付け、自分のスマートフォンを取り出してWEBサイトを開いた。
それはネット小説の投稿サイト――先ほどまで正雄のスマートフォンから見ていたサイトだった。
正雄の小説を読んでみて、他の作品はどんなものがあるのだろうと興味が沸いてきたのだ。
「……しかしこのサイトには、異世界とか転生とかいう単語がやけに多いな」
投稿サイトにおける人気順を表したランキング表を見てみれば、ざっと見渡した限り半数以上の作品に「異世界」というキーワードが加わっていた。
タイトルも正雄の書いた小説のように長ったらしいものが多く、それが上から下まで連続で並んでいる画面を見るのはなんだか脂っこいものを四六時中食べ続けているような気分だ。
「「転生したらスラム街」、「今日も素晴らしき世界に祝福を見せてもらったぞ!」、「鋼鉄のVRMMO ~だから! 世界にジーグのパワーを見せなきゃならないんだろう!~」、「集いし妄想が新たな進化の扉を開く ~転生召喚! 飛翔せよ、俺~」……あー、確かにタイトルだけでお腹いっぱいになるな」
「そうとも! このサイトには平凡な日本人がある日突然異世界に召喚される話が多い。それが一番読者から人気があるからな。俺の書いたクラスメイト召喚も一大ジャンルだが、トラックに撥ねられて死んだと思ったら異世界に転生していた話や、死んだと思ったら恋愛ゲームの悪役キャラに生まれ変わっていた話など、同じ異世界ものでもジャンルは多岐に渡る。VRMMOという仮装現実化したゲームを舞台にしたSF物も多いが、こちらはそろそろ現実で実現してしまうのが気になるところだ」
「ヘブンズナイトオンラインだっけ? 確かにあんなものが現実になっちまうと、空想もやりにくくなるかもなぁ」
現代社会をベースにした物語が驚くほど少ないのは、それだけ読者の多くが非日常を求めていると言うことなのだろうか。
普段こういったライトノベルの類は読まない勇志だが、こうしてランキングに載っている以上異世界召喚や転生というジャンルが人気だと言うことはよくわかった。
見ればこのサイトでは作品の書籍化も盛んに行われているようであり、そういった作品の多くもまた異世界が舞台になっている。実際、勇志もなんだかんだで正雄の作品を楽しめた以上、需要があることは疑いようになかった。
しかしこうしてトラックにぶつかって異世界転生や異世界召喚などという文章を読んでいると、勇志の脳裏には先日の出来事が蘇ってきた。
(あれは……何だったんだ……?)
無人のトラックに襲われた自分と妹。
そのトラックを破壊し、自分達を守ってくれた紅の天使。
その体験は今も勇志の脳裏に焼き付いており、片時も忘れてはいない。
あれは、夢や幻などではない。白石兄妹が確かに体験した、現実の非日常だった。
(綺麗だったな……)
あの時、光の加減で目元までははっきりと見えなかったが、白衣を纏った紅蓮の姿は今まで見てきた何よりも美しいと思った。
勇志の脳裏に蘇るのは、紅の髪色に見合う炎の如き荒々しさを持ちながら、儚く消えてしまいそうな存在感を併せ持った少女の姿だ。
あの時は何よりも第一に妹が助かって良かったと言う思いが強かったが、時が経つにつれて勇志の感情は自分達を助けてくれた紅の天使へと向かっていた。
それは時折、周囲から上の空に見えるほどに。
「おーい勇志、大丈夫かー?」
「ん……あ、ああ」
「最近多いな。また妹のこと考えていたのか?」
「……まあな」
「ほう……白石君には妹が居るのか」
「くっそかわいい妹がな。コイツにはどこのラノベ主人公かってぐらい、天使みたいな妹が居るんだ」
「……くわしく」
「やめろ」
何故か話題が妹の絆のことへ向かおうとしたところで、勇志は意識を現実に向ける。
宮本は高校生らしからぬロン毛を伸ばしたいかにもカッコつけたホストのような風貌をしているが、意外と面倒見が良く気さくな男であり勇志も信用している。しかし正雄に妹のことを知られるのは何かこう、マズい気がしたのだ。
「そろそろ昼休み終わるぞ。席に戻れ」
「おっ、もうそんな時間か」
「時間を取って済まなかったな、白石君。しかしお前の意見は参考になった。願わくば評価点をくれ。ではな」
「……ああ」
五時限目の授業の開始が迫っていることを言い訳に、勇志は二人を自分の席から追い出す。
しかしその時の勇志の脳裏からもまだ、紅の天使の姿は離れていなかった。
非日常に襲われたあの日のことが幻想でないのなら、もう一度会いたいと――そう思っていたのだ。
尤も会って何をするつもりかと聞かれても、勇志には答えることは出来なかったが。
――だがこの日、彼の元に再び非日常は訪れた。
昼休みの終了時刻に伴って、クラスメイトの全員が教室に集まったその瞬間。
足元から突如として眩い光が広がっていき、この教室の全てを覆い尽くしていったのである。
「え?」
「やっ、なにこれ……なに……?」
照明の光などではない、余りにも強烈で眩い光が一同を襲っていた。
教室内はざわつき、男女問わず一同から動揺の声が広がっていく。
勇志もまたその一人だったが、彼だけはその光の出元である足元を注視していた。
上手く言葉に出来ないが、この光には言い知れない寒気を感じる。
飲み込まれれば二度と現実に帰れないのではないかという、根拠の無い恐怖だった。
しかしその恐怖に抗いながら教室の床に広がる「円」を見て、勇志は絶句する。
「これは……!」
光で描かれたその「円」の中には、解読できない何かの文字が刻まれていた。
その姿はまるで、ファンタジー映画に出てくる「魔法陣」のようだった。
教室の窓の一部がパリンと割れて、外から小さな何かが入って来たのはその直後である。
「鳥……?」
光の中でその正体に気づくことが出来たのは、クラスメイトの中でもおそらく勇志だけだろう。
一羽のスズメが小鳥とは思えない力で窓ガラスを突き破ってくると、光の円の中心に飛び込むなり赤く輝いたのだ。
そして次の瞬間、この光を上書きしていくように紅蓮の炎が顕現した。
「うわああ!?」
「ッ――あつ……くない……?」
おびただしい量の炎が、教室中を覆い尽くしていく。
勇志を含むクラスメイト全員が為す術も無くその炎に飲み込まれていったが、不思議なことに身を焼かれる熱さは感じなかった。
まるで、炎であって炎ではない何かのような――それに飲み込まれながら勇志は、この不可思議な現象の中で何故か心が穏やかになっていた。
まるで、ずっと前からこの炎に温められて生きてきたかのように……勇志にはこの身を包む紅蓮の炎が心地良かったのである。
やがて数秒後、教室を覆い尽くした炎はあっさりと消え去った。
周囲を確認する勇志だが、自身の身体が焼かれていなかったように、見渡した教室もまた一切黒焦げになっていなかった。
そして足元に広がっていた魔法陣のような光の円もまた、始めから何も無かったように存在を消していた。
「……っ、宮本! 田中!」
自分以外の者はどうなったのかと一同の様子を窺えば、勇志以外のクラスメイト達は皆力無く机の上に突っ伏していた。
いずれの者にも意識は無く、勇志は頭からさっと血の気が引いていくのを感じた。
まさか全員死んでしまったのか……と、最悪な想像が彼の思考に浮かんだその瞬間、前方から耳当たりの良い声が聴こえてきた。
「だいじょうぶ、みんな、ねむっているだけ」
小さく、幼子のようなたどたどしい言葉。
しかしそれは何故か、たった一言で勇志の心を安心させる声だった。
初めて鼓膜に触れたその声色はクラスメイトの誰のものでもなく、勇志は顔を上げてその声の主へと振り向いた。
「……!? 君は……っ」
教卓の上――一人の少女が、勇志の姿を真っ直ぐに見つめていた。
他校のものであろうこの学校とは違う制服を纏った少女が、左脚を伸ばし、右膝を立てた体勢で座っていたのだ。
その体勢からめくれ上がったスカートの中身は右膝を抱えた両腕によって隠されていたが、その姿には不思議と同年代の女子には無い気品があった。教卓の上に腰を下ろしているという、普通ならば行儀が悪い姿勢でありながらもだ。
そんな少女に見下ろされながら、勇志は言い知れない感情を抱いた。
「あの時の……!」
肩先まで下ろされた、ショートヘアーの紅の髪。
身に纏う雰囲気も間違いなく、翼こそ生えていないもののあの時の紅の天使だった。
紅の髪と同じ色をした真紅の瞳は今新しく見たものだが、勇志が目にしたその顔は想像していたよりもずっと美しく、綺麗だった。
そしてそんな少女の小さな口から零れ出てきたのは、勇志にとって予想外な言葉だった。
「ユウシ……」
「え……俺の名前、知って……」
教えていない、それどころか話したこともない少女が勇志の名を呟くと、抱えていた右膝を伸ばして教卓の上から降りていく。その際に太腿の間から一瞬だけ赤い布地が見えたが、勇志がそこに意識を割くことはなかった。
――教卓から降り立った彼女がそのまま勇志の元へと歩み寄り、何も言わずに抱き着いてきたのである。
「……? !?!?!?」
彼の胸に当たる柔らかい感触と、鼻孔をくすぐる甘い香り。
紅の天使が起こした思いがけない行動に思考がついていけず、素っ頓狂な声を上げることすら勇志には出来なかった。
ただ、今の自分の顔は火が出るほど真っ赤になっているだろうなということはどうにか理解出来た。今だけは宮本やクラスメイト達が気絶していて良かったと思う。
……しかし、これは一体どういう状況なのだろうか。
他人からも妹からも仏頂面と呼ばれることの多い勇志だが、その心はあくまでも健全な高校生男子である。綺麗な少女に抱き着かれて嬉しい感情はもちろんあったが、冷静さが戻るに連れて彼女の奇行を不審に思った。
「俺のこと、知っているのか……?」
「……っ……ッッ……!」
「ほわっ!?」
もしかしたらあの日の前にも会ったことがあるのかと問おうとした矢先、こちらを抱きしめる彼女の腕がより強くなった。その力強さに間抜けな声が出てしまったが、この少女の反応はいくらなんでも尋常ではない。
表面上は平静を取り繕うとしていた勇志だが、内心ではおちおち、おちつけ俺! れれれれ冷静になれ……と何とか普段の冷静さを取り戻そうと必死に奮闘していた。未だかつて経験したことのないこの状況の中で、彼の理性は真っ赤に燃えていたのである。
しかしその理性は程なくして、彼女から聴こえてきたすすり声によって冷却された。
「……ユウシ……ユウシぃ……!」
「……泣いているのか?」
噛み殺したような声を放ちながら、彼女は涙を流していたのだ。
泣くことは許されない。だけど、この時ばかりは感情を抑えられないように。その様子はまるで、病気に苦しんでいた頃の妹の姿と重なった。
名前も知らない少女が何故、何に苦しんでいるのかはわからない。
しかし勇志にはどうしても彼女の行動が、ただの見知らぬ少女の奇行とは思えなかった。
「……っ……ぁ……」
気づけば涙に震える少女の背中を、あやすように撫でている自分が居た。
最初勇志の手が触れた時は驚いたように肩が跳ねたが、しばらくそうしていると次第に落ちついたのか勇志を抱きしめる彼女の腕が徐々に弱まっていく。
やがて少女はゆっくりと腕を解き、勇志の胸に埋めていた顔を離して口を開いた。
「……どこにも……」
真紅の瞳を上目遣いに見上げ、勇志と視線を合わせて言い放つ。
「……どこにもあなたを、いかせません……」
涙の滲んだその瞳は、しかし苛烈に燃え盛る炎のように荒々しかった。
普通の少女ではあり得ないアンバランスさに勇志は思わず目を奪われ……あの日、天使のような彼女の姿を見上げた時よりも強い高鳴りが、その胸に響き渡った。
「……なんだか、君とは初めて話している気がしない……」
「…………」
「って、なに言ってんだろうな、俺は……でも、俺にはさっぱりわからなくて……」
気づけばナンパ師のようなことを口走っている自分が居たが、その言葉に偽りがあるわけではない。
何故だか彼女とこうして向き合うのは初めての気がしなくて……家族とは決定的に違うのだが、それに近しいものを勇志は紅の少女に感じていたのだ。
「……俺達のこと、助けてくれたんだよな? ありがとう」
依然心拍数は荒れているが、少し落ち着いたところで先日のことと、今のことを合わせて礼を言う。
その言葉を受けた少女は一瞬驚き、しばし目を閉じた後、儚げに笑みながらか細い声で言い放った。
――愛していました……今度は私が、貴方を救います。
その声が聴こえた途端、勇志の意識は唐突に闇へと落ちていった。
貴方が目覚めた時、この記憶は無くなっていると……物悲しそうな表情を浮かべた少女に、そう言われながら。




