第18話
初めて彼女の存在を知った時、城ヶ崎麗花は第一に「気に入らない」と思った。
日本経済をリードする城ヶ崎グループ――その会長次女として生まれた麗花は両親からも存分に可愛がられ、幼少から欲しいものがあれば大抵の物は我が儘一つで手に入れることが出来た。
美形の両親から受け継いだ容姿の端麗さも周りの子供達の中で群を抜いており、おまけに頭脳も明晰と来ている。麗花はさしたる努力をせずとも、学業の成績は小学校の頃から常に優秀だった。
家柄にも容姿にも頭脳にも恵まれ、もはや天から二物以上の物を与えられたとしか思えないような彼女には、周りの者達もこぞって麗花様麗花様とはやし立て、そうすることが当然のように敬意と畏怖を持って取り巻いていた。
しかし、性格までは完璧ではなかった。
なまじ周りの環境に恵まれすぎていたが為に、麗花は傲慢かつ自己中心的な性格に育ってしまい、幼い頃の麗花の言動によって振り回され、困り果てた人間の数も少なくはなかった。
いかにも少女漫画の悪役として登場しそうな、高飛車なお嬢様。中学校に上がってから間もない頃の麗花は、まさにその典型例と言える問題児だったのだ。
そんな彼女の日常に変化が訪れたのは、中学最初の学力テストの成績が廊下に貼り出された時のことだった。
中学生にもなればテストの内容も急激に難しくなり、不覚にも麗花は小学生時代よりもやや点数を落としてしまった。しかし、それでも周りのクラスメイト達と比べればその成績ははずば抜けて高く、今回も一位は頂きましたわと麗花は余裕の気分で掲示板を眺めていた。
そして、麗花は気づいたのである。
《1位 双葉志亜 100.0》
これまで自身の定位置だと思っていた一位の座には、見知らぬ女子生徒の名前があったのだ。横に並んで記されている平均点は100点。それは全ての教科で満点を取ったことを意味しており、麗花や取り巻きのみならず掲示板を見た全ての生徒達からざわめきが広がった。
――その瞬間、麗花は戦慄を覚えた。
完膚なきまでの敗北。
滅多に味わったことのない屈辱。
こんな気分はオンラインゲームの対戦で名前も知らない廃ゲーマーに打ち負かされた時以来だと、少々令嬢らしからぬ愉快な趣味を持つ彼女は声を上げて悔しがった。
城ヶ崎麗花はプライドが高く、負けず嫌いな性格だ。
しかし彼女がここで乙女ゲームの悪役令嬢よろしく自身に屈辱を与えた「双葉志亜」に対して何らかのちょっかいを掛けることをしなかったのは、彼女のそのプライドが良い方向に働いた結果だった。
いかなることにも常に勝者たり、勝者には相応の敬意を払う。それが城ヶ崎家の家訓であり、麗花にとっての行動原理でもある。
今回のテストの敗北は自身の学力が及ばなかったからの一言に尽き、全ては持って生まれた才能にあぐらをかき、今まで勤勉を怠ってきた自らのおごり高ぶりが招いた結果だと、彼女自身もこの敗北には納得していたのである。
しかし、それでも彼女の意に反して数人の取り巻き達が要らぬ気遣いを働き、「双葉志亜」に対して下賎な嫌がらせを働こうとしたことはあった。しかしそのような愚行は、麗花が直々に睨みを効かせることで制止させた。
『貴方達は引っ込んでいなさい。この落とし前は、この私、城ヶ崎麗花の手で着けます』
そう言って事を起こす前に麗花が取り巻き達を退けたことは、今も双葉志亜は知らないことだ。
名家として気高い誇りを持つ麗花は、姑息な輩を好まない。
敗北の屈辱には、自らの手で正々堂々とリベンジを果たす。彼女の思考は、至ってシンプルだった。
しかし、努力も虚しくその後も麗花の成績が双葉志亜の成績を上回ることはなかった。
次のテストも。そのまた次のテストも。
大好きなゲームの時間をも削って勉学に打ち込み、万全の体制で臨んでも、城ヶ崎麗花の成績は双葉志亜に対して常に一歩及ばなかったのだ。
ここまで来ると麗花の心から以前までの余裕は消え去り、焦燥感を抱き始めた。
そして、城ヶ崎麗花たる自分を何度も打ち負かすこの双葉志亜という生徒は一体何者なのか、もしかしたら自分以上の天才なのではないかと、恐れを含んだ興味を抱いたのである。
今まで挫折という挫折を味わったことのない麗花にとって、双葉志亜という壁は興味深く、ある種の執着心を芽生えさせるに足る存在だった。
……意を決して実際に会ってみると、当初イメージしていた人物とは掛け離れていたわけだが、だからこそ彼女の中にあった執着心はいつの間にか友情に変わっていたのかもしれない。
接していく内に、彼女のことが何だか放っておけなくなった。自分の中にある母性的な何かを刺激されたのかもしれない。
尤もこんな小っ恥ずかしい話は、余程のことがない限り本人の前では言わないだろうが。
(最初は気に入らなかった……この私よりも優秀でありながら、いつも何かに怯えている貴方が)
城ヶ崎麗花は自他共に認めるナルシストである。自分が何よりも一番だと考えている、まごうことなき自己愛者だ。
双葉志亜はそんな麗花とは対照的に、自己否定の強い少女である。
自分には他の人間よりも価値が無いと思っており、どれだけ周りの人間が口を酸っぱくして言っても、彼女は自分の意志で自分を大切にしようとしない。
それが、麗花には腹立たしかった。
彼女は自分が気に掛けるほどの優れた人間だ。ならばこそ、麗花には志亜に堂々として欲しかった。自分の認めたライバルとして、相応しい立ち振る舞いをして欲しかったのだ。
そんな気持ちで、いつだったか麗花は彼女に怒りをぶつけたことがある。
それが、弾みで友達宣言をしてしまった、中学二年のことである。
閑話休題。
麗花は目蓋を開けると、自らの意識を回想から目の前へと移動した。
昼休みの教室の中、心配そうな目でこちらの顔色を覗う小柄な少女に対して、麗花は小さくため息を吐く。そうすると目の前の彼女は子犬の尻尾のようにしゅんと目尻を下げ、心の底から申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい……」
基本的に無表情で、高らかに笑ったり、声を上げて泣いたりすることは滅多にないのがこの双葉志亜という少女だ。そんな彼女だが、このように自分が悪いことをしたと思った時などは諸に表情に出す。良いことは隠して、悪いことばかり前に出していく態度は出会った頃から何も変わっていない。
尤も、彼女がこう言った表情を浮かべる時は、大抵本当の原因は彼女の他にあるものだが。
今回の謝罪もまた、それに当たる。
「何故、貴方が謝るのです?」
麗花にとって、志亜の謝罪など要らないのだ。麗花は志亜から何か悪いことをされたわけではないし、謝罪される謂れなどどこにもない。このような「意味の無い謝罪」という小市民的な行動は、麗花が嫌悪する行動の一つだった。
しかし、志亜とて意味もなく謝罪する人間ではない。彼女には彼女なりの考えがあって、自らに否があると感じているのであろう。
双葉志亜という少女は、出会った頃からそんな人間だ。あまりにも変わらない卑屈な姿勢を前に、麗花は思わず出会った頃のことを回想してしまったほどだ。
「麗花、怒っている。志亜が、悪いことをしたから、怒ってる……?」
「貴方は本当に……本当になんなんでしょうね」
「ごめんなさい、麗花。ごめんなさい……」
「……いえ、私は別に志亜さんに怒っているわけではありませんよ」
彼女の洞察力は高く、他人の感情の揺らぎに対しては人一倍敏感だ。誰かが落ち込んでいる時などは進んで声を掛け、彼女なりに力になろうと相談を受けようとする。時々、その行為が迷惑かもしれないと引き下がることもあるが、実際に迷惑だと感じた者はこの教室には居ないだろう。
そんな彼女が指摘するように、今の麗花は確かに怒っていた。それはもう、昼休みであるというのに教室のクラスメイト達が静まり返って麗花の様子を注視するほどに、麗花は激しい怒りを感じている。
志亜もまた麗花の怒りを感じ取り、その原因が会話をしている自分にあると判断したからこそ謝罪をしたのだろう。それは麗花とてわかっている。
だが、違う。違うのだ。麗花の怒りの理由は彼女ではなく……
「そのPK、キラー・トマトと言いましたね。よ~く覚えておきましょう」
この昼休みで志亜の口から聞いた「HKO」の話で出てきた、ゲーム内の志亜に対して悪事を働いたという不届き者についてのことだ。
志亜の語りでは精一杯彼らを弁護する言葉が並べられていたが、麗花には彼らの事情など知ったことではない。麗花が悪者だと判断したら、それは全て悪者なのである。
判断基準が自己中心的であるが故に、麗花の出す結論は常にわかりやすかった。
――そうだ、報復をしよう。
京都に出掛けるような感覚で麗花の中でメラメラと怒りの炎が燃え上がり、既に頭の中では彼らに対する十数パターンもの報復手段が浮かんでいた。
「それと、その方の仲間も同罪ですね。今回は志亜さんを助けてくれたようですが、自分のギルメンの管理すら出来ない方々など粛清するべきです」
昨日その場に自分が居合わせていなかったのが、実に悔やまれる。
世紀末なプレイヤーによって森が焼かれ、そのプレイヤーと志亜が対話し、和解したところで今度はキラー・トマトという変なPKに横槍を入れられる。キラーはPK仲間の裏切りやその日志亜のフレンドになったコウテイペンギン達によって撃退され、焼かれた森も志亜によって封印を解かれた新たなヘブンズナイツ「フィフス」によって元の姿へと復活を遂げた。
……昨日だけで、随分と濃いプレイ内容である。その頃ハーメラスの図書館に篭って延々と「魔法」を習得し続けていただけの自分とは偉い違いだと、志亜に対して嫉妬が沸かないこともない。
「私としてはそのペンギンさんのことも気に入りませんね。ペンギンさんではなく私がその場に居れば、面倒なことになる前に全て片付けて差し上げましたのに」
尤も麗花のこの怒りは、その場に自分が居合わせていなかった間の悪さに対する八つ当たり的な感情に近いのかもしれない。
このような面白そうなイベントを近くに居ながらもみすみす見逃してしまったことに対して、ゲーマー令嬢たる麗花の心の中は口惜しさに溢れていた。
そう、だからこの報復はそんな自らの鬱憤を晴らす為のものであり、決して志亜の為に行うのではないのだと、麗花は誰に言うでもなく己の心に言い聞かせた。この令嬢、妙なところで素直ではなかった。
「麗花」
「なんですか?」
「全部、昨日終わったこと。だから、誰も憎まないで」
「憎んでいるのではありません。腹が立っているのです」
「怒りは、憎しみになる。憎しみは、悲しみ……悲しいは辛いから、怒らないで」
「……まったく、貴方という人は」
表面ににじみ出ていた麗花の邪悪な感情を察知したのか、志亜が彼女なりに饒舌な言葉で止めに入る。
その言葉から伝わってきた志亜の必死さに麗花の頭は幾分落ち着いたが、麗花としてはそれでも納得行かなかった。
「志亜さんは甘すぎます。そうやって下手に出てばかりいるから、どんどん自分が不利になっていくのですよ? 貴方は何とも思わないのでしょうが、私には貴方が有象無象の雑魚共に侮られるのが気に入らないのです」
誰も憎まない、傷付けまいとする志亜の信念は立派だとは思うが、戦闘がメインとなるHKOでは折角の力を無駄にしてしまう弱点になる。
彼女がその気にさえなれば、相手がPKだろうと森を焼いたプレイヤーだろうと、面倒なことになる前に即座に叩き潰すことが出来た筈だ。
麗花は双葉志亜という友人の実力を非常に高く評価している。
呆れ顔を浮かべながら自身の意見を述べる麗花に、志亜はほんの少しだけ嬉しそうな顔をする。自分が麗花に心配されていると感じ、申し訳なさの他に確かな喜びを感じているのだろう。表情自体はあまり変わっていないが、彼女は喜怒哀楽に関しては人一倍激しい人間なのだ。
それも、麗花が友人付き合いをするようになってから知ったことだが。
「志亜のこと、心配してくれてありがとう」
「そ、そういうのではありませんわ、ええ。貴方が侮られることで私まで侮られた気分になるのが不愉快なんです。そこは勘違いなさらずに、ええ」
麗花は志亜のことを、対等な友人としてよく見ている。
しかし妙なところで素直になれないのが、城ヶ崎麗花の数少ない欠点だ。麗花は他人が見てもわかるほどに、志亜に対して嘘をつくのが下手だった。
友人付き合いを始めた頃はこのような照れ隠しを志亜が間に受けてしまい、鬱々と落ち込んでしまう彼女の誤解を解こうと奔走するラブコメのような事件が発生したものだが、今となっては志亜の方も麗花の言葉の真意を理解しており、このような見え透いた悪意無き嘘は微笑み一つで流せるようになっていた。
「志亜も、麗花が悪いことをされるのは嫌。麗花は、大切な友達だから」
「っ……あ〜もう! 調子狂いますね、貴方は本当に!」
「ごめんなさい」
「だからなんで謝るんですか! もういいですよ、今回の件に関して私は一切手を出しませんっ」
「ありがとう、麗花。麗花は優しい人。志亜は大好き」
「……面と向かって言わないでください」
そんな麗花に対して、志亜の方はいつまでも幼子の心を忘れぬ素直な人間である。
面と向かって話すには小っ恥ずかしいことも、彼女は平気な顔で言い放つ。何一つ曇りのない穏やかな表情で。
想像するに、彼女の「前世」とやらはさぞ天然な女たらしだったのだろう。志亜が女の子で良かったと、麗花はやや頭痛を催しながらそう思った。
「志亜さん、今日は私に付き合ってください」
「ん……麗花に?」
気分が悪い。
ああ、気分が悪い。こんな日はVRMMOに限ると、麗花は放課後の活動方針を変更する。
「そろそろ町を出ようと思いましてね。まずは外のフィールドを探索しながら、ハーメラス以外の町に行くつもりです」
城ヶ崎家の名に賭けて、麗花は一度交わした約束を違えることはしない。昨日の志亜の周りで起こったことには一切手を出さないと約束した以上、件のキラー・トマトらに対する報復は諦めざるを得なかった。
しかしそれでは腹の虫が収まらないというところだ。故に麗花は、他の方法で鬱憤を晴らすことに決めたのだ。
「今日は、麗花と一緒?」
「ええ、そう言っているのです。一応確認しておきますが、そちらの都合は問題ありませんよね?」
「一緒は大丈夫。都合は、志亜が合わせる」」
お互いゲームを始めてからまだ日は浅いが、共にパーティを組むのはこれが初めてになる。
仲が良い筈でありながらも常日頃から二人で行動しないのは、麗花の意地のようなものである。友人関係ではあるが、麗花にとって志亜がいずれ超えなければならない宿敵であるという点は変わっていないのだ。常にライバルと一緒に行動をするという選択は、麗花のプライドが許さなかった。
「麗花と一緒、楽しみ」
一方で志亜の方にはそのようなプライドは欠片も無く、友人との冒険を心から楽しみにしている様子だった。
微かに頬を弛緩させて穏やかに笑む小さなライバルの姿に、麗花は毒気を抜かれる。
「苛立ちとか怒りとか、いつもこうやってどうでもよくなるのですよね……」
「?」
「HKO」の世界には「ヒール」という相手の傷を癒す魔法が存在するが、彼女の場合は現実世界でもその魔法を使えるようだ。彼女と話していると疲れやら負の感情やらが薄れていき、気づいた頃には綺麗さっぱり無くなっている。遠巻きにこちらの様子を眺めていたクラスメイト達も皆、一様に午前の授業の疲れが吹き飛んだような温かい笑みを浮かべていた。
……やはりまだ、今の自分では勝てないようだ。
学園一の令嬢である自分を差し置いて、誰よりも教室に強い影響を与えているライバルの姿に麗花は複雑な思いで苦笑した。
 




