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短編小説集

因果

作者: 摂氏

煙草が一本、灰と消えてはまた一本。四本、五本と消えては、また一本。肺を侵す煙草の煙に、胸の痛みを覚えても、僕は止めようとは思わなかった。

煙草に害があることは知っている。疾患を抱える可能性を高めることも知っている。でも、それがどうした。病気が怖くて、煙草は吸えない。

それに……今の僕には、快楽に抗ってまで、生にしがみつく理由なんて見当たらなかった。

「……」

吐き出す吐息は闇に紛れ、いずれ霧散する。夜の帳に姿を晦ませ、生の気配は燻る煙草の火種だけ。煙草の火種に僕の命を焚べ、落ちる灰は僕の命の燃え滓なのだろう。

もう、どうにでもなれと思った。大学生活、最後の一年間。遊ぶ時間も取らずに、心血を注いだ卒業研究に嫌われ、一年の残留が決定した僕に、いったい何が残されているのか。生きる意味さえも、濃い靄の掛かった世界には見出せなかった。

親の期待を背負い、教授の期待を背負い、就職先の期待も背負った果てに、荷重に耐えきれなかった僕の腰は崩れ、全ては地に投げ出されてしまった。拾って、抱え直す力も、もう残ってはいない。疲労だけが溜まり、多くの期待を裏切ってしまった僕は、一体どんな顔をしているのだろうか。どんな顔を作ればいいのだろうか。

別に、許してもらおうなんて思わない。ただ、溢れる悔しさと、申し訳ないという気持ちだけが、今の僕の全てだった。

燻る煙は、何処へ行く?空か。虚無の辺獄か。それとも、僕の想像もつかない未知の世界か。いや、そのどれでもいい。僕は、煙草の煙が羨ましかった。このまま消えてしまえるのならば、どれほど楽になれるのだろう。無となり、あらゆる因果律から開放された自分は、一体どれほど軽くなれるのだろう。

もう、一年間を共にした仲間たちの元へ帰る気分にもなれなかった。絶望の渦中で、多くの期待と不安を抱えて藻掻く彼らの希望に満ちた未来は、暗闇の中で目を見開き、藻掻き苦しむ僕には眩しすぎる。大きな積荷を抱えても、決して折れることなく、明るい未来を掴むべく駆け走る彼らに合わせる顔なんて、どこに在るというのだろうか。弱い僕に残された居場所は……頼れる相棒に縋ることができる、この喫煙所だけだった。

ここは、負に満ち満ちていた。負に満ち溢れた僕の居場所なのだから、当たり前の話だ。もし、僕以外の誰かが、ここへ踏み入れたとしたら……。そいつもまた、負を抱えた落武者なのだろう。

そう、漠然と瞑想に耽っていた時に、一つの影が落ちた。僕の影とは違う、もう一人の影。それは、軽い靴の音を規則的に響かせ、上下に揺れ動く。俯いていた顔を擡げた先に見えた人影は、淡い三日月が照らす程度の仄暗い空間では、男女の区別さえもつかない。僕にできることは、大きさを増す影を眺め、靴の音に耳を欹てること。ただ、それだけだった。

やがて、その影は、吸殻入れを挟んだ僕の隣で動きを止めた。靴の音も止み、場の静寂に宿る、痛み。無音の静寂。男女の区別さえもつかない影の威圧のせいか、静寂さえも耳に痛かった。

「……」

会話もなく、動きもない。死んだような世界に、死んだような影と、僕の命の灯火。

気が付けば、暗い影は無言でライターを灯していた。一瞬の淡い灯火に浮かんだ、影の主。凛とした表情。その姿に、見覚えはなかった。

ただ、冬の寒空の下に佇む少女の姿に、幻想的な光景を見たような……そんな気がしたのは、僕の気のせいではないのだろう。このまま、ずっと眺めていたいような……不思議な気持ちが、僕の胸中には溢れていた。

「私の顔……」

「え?」

「何か、付いていますか?」

唐突に声を掛けられ、僕は言葉に窮する。彼女の顔に、何か付いていたかと問われれば、目と鼻と口……と、なんとも捻りのない答えばかりが脳裏を過ぎるが、当然ながら、そんな返答は使い物にならない。求められてもいないだろう。

暗いからと、人様の顔をジロジロと眺めるのは、良くなかったか……。

その程度のこと、少し考えればわかることだった。

「いや、ごめん。何でもないんだ」

僕は、自分の非礼を詫びるつもりで、素直に謝った。

「そう、ですか……」

ひどく落ち込んだ様子が伺える口調で、少女は僕の非礼を許してくれたようだった。

本当ならば、僕と少女の接点は、これが最初で最後。再び、視線を通い合わせることもなく、関係の全ては、ここで終わりを告げるはずだった。

でも……何故だろうな。なんとなく。本当に、なんとなくだ。僕は、少女に声を掛けたい衝動に駆られていた。夜も深く、月明かりも仄かな状況に後押しされたのかもしれない。幻想的な少女に、一種の憧れ。親近感にも近い感情を覚えていたのかもしれない。

だから、僕の口は静かに開いたんだ。

「何か、悩み事?」

「え?」

今度は、少女が聞き返す番だった。

「少し、落ち込んでいる様子だったから……」

僕の口は、僕の構成物ではないかのように、流暢に言葉を紡いだ。対して、少女は寡黙だった。しばらく、無言で煙草の火種だけを揺らし、生の存在だけを醸す。

「少しだけ……ならば、どれほど良かったでしょうか」

そう呟いた少女は、思い切ったように煙草を吹かした。

「ゲホッ!」

一息、煙草の煙を吸い込んだ途端に、少女は噎せた咳を吐いた。

「だ、大丈夫?」

ひどく噎せた様子の少女の咳を聞き、僕は言葉を掛ける。

「大丈夫、です……」

囁く声の合間合間に、咳が交じる。ここまで噎せる人も珍しい。煙草を初めて吸ったのだろうか、と思わせる程度には、ひどい咳だった。

「ふぅ……」

やがて落ち着いた様子で、少女は小さな溜息を吐いた。

「煙草って……こんなに噎せるんですね」

嗄れてはいるものの、可愛らしい声音で紡ぐ言葉には、大きな影が見て取れた。

「でも、不思議です」

「不思議?」

「はい」と呟いた少女は、二度目の煙草に、再び咳き込んだ。宵闇に響き渡る、少女の咳。不思議な状況だと、僕は暢気に思いながら、少女の言葉を待った。

「死に損ねた後の煙草は、咳込んでしまいましたが……とても美味しいんです」

「……」

その言葉。その言葉の重さに、僕は言葉を失った。文字通り、言葉が何一つ思い浮かばなかったのだ。

死に損ねたって……。

「何故って……聞いても、いいかな」

「ええ。あまり、面白い話ではないですよ」

軽い調子で話す少女の言葉の重さが、僕には伝わった。面白い話ではないと前置きする少女の背景にある物語は、本当に面白いものではないのだろうと、僕は少女の言動、一言一句から察していた。

僕は、煙草の灰を灰皿に落として、少女の影へと対峙した。

「卒業研究の単位を、落としてしまったんです」

「え……?」

僕の眼前に対峙する少女の口から漏れた、彼女の事実。置かれた立場、今の心情。それを察することは、今の僕には容易なことだった。

「家族が、お母さんだけなのに……」

その言葉の裏に秘めた、大きな意味。

「……期待を、裏切ってしまったんだ」

少女は、小さく頷いた。

僕は、彼女の心中を察した。憂いが巣食う心に、正の感情の居場所はない。救済の在り処を求めて彷徨い、果てに辿り着く最悪のシナリオは、罪業からの永劫の解放。それは即ち、死を指す。その寸前に、彼女は思い留まったのだろう。

……僕が、辿る可能性もある未来だった。

「お母さんに、どんな顔をして話せばいいのか、私にはわからなくて……」

「だから君は……」

「はい」

三度目の一服に、少女は咳き込むことなく、すんなりと煙草を吸いこなして見せた。

「死ねば、楽になれる……それは、きっと間違いではない」

スッと吐き出す少女の吐息に混ざった白煙の芳香が、僕の鼻腔をふわっと撫でる。僕が愛用している煙草とは銘柄の違う香りだが、いつかの日に嗅いだことのある匂いに、懐かしさと、仄かな感情の昂りを感じた。

僕も、自分の指先に挟んだ煙草を咥え、深く息を吸い込んだ。

「でも、私には無理でした」

絞り出したような明るい声音が、僕の心を貫いた。

「僕も、同じような状況だったよ」

「同じ……ですか?」

君ほど、深刻ではないけれどもね。互いの顔は見えずとも、自分自身に対する若干の嘲笑が、僕の口角を吊り上げた。

「卒業研究の単位を落として、絶望している」

僕の言葉を遮るものはなく、それは静寂へと消えていく。君の耳には届いているか。それは定かではないが、でも視界の隅に灯る彼女の命の灯火は、僕の間近に居る君の存在を、確かに示していた。

「そして、死にたいと思っていたよ」

絶望し、死にたいと、僕は願った。でも、その果てに死ぬことはできず、僕は今ここに居る。

「君が、ここへ来るまでね」

君が来て、君の絶望を知り、僕は一縷の光を見たのかもしれない。今は、死にたいと願う心は消えた。絶望の果てに見えた光。この正体は、果たして狂気か正気か。

「辿り着く先は、みんな同じなのでしょうか」

少女は、寂しげに呟く。その言葉は、確かに僕の耳を掻き分け、脳が捉えていた。

「でも、死にたいと願えど、僕たちは結局死ねなかった」

そういうものなのだろう。死にたいと願う気持ちは、確かに在った。でも、本当に死ねるほどの絶望は……ここにはなかった。

「まだ、死ねるような状況じゃないんだよ。僕たちは……」

その言葉に、少女は小さく笑った。

「そうかも、しれないですね」

消え入るような囁き声が途切れ、入れ替わるように、硬質な靴の音が響き渡る。それは、ほんの数回の旋律を奏で、僕の眼前で、ピタリと止んだ。

薄暗い月明かりを背に、表情は見えずとも、暗い輪郭は見える。少女の瞳は見えずとも、少女の視線は感じる。

その瞬間、甲高い着火音と共に、眼前に淡い光が灯った。その先には、少女の柔和な微笑みが在った。

「……貴方の顔を、見てみたいと思いました」

目がぴたりと合った少女は、恥ずかしそうに目を逸らした。

「奇遇だね」

僕は、淡い灯火が宿る少女の瞳から目を逸らさずに、言葉を続ける。

「僕も、君の顔が見てみたいと思っていたところなんだ」

少女と、再び視線が通い合った瞬間、僕と少女を繋げた淡い灯火は、淡い残像となって静かに消えた。

「もっと、おじいちゃんみたいな人かなぁ……なんて思っていました」

「不服だった?」

「いえ、そんなことないです」

靴の音一つ。また一つと、静かに遠ざかっていく少女の影。再び、灰皿を挟んで向かい合わせの君と僕。静寂が、僕たちの世界を震わせた。

「ただの……照れ隠しです」

少女は、すっかり短くなった煙草を、吸殻入れへと放り込みながら答えた。

「それ、自分で言うんだ」

僕も、少女の後に続いて、吸殻入れの淵へと煙草を擦りつけ、吸殻入れへと落とした。その直後、いつの間にやら聞き慣れた靴の音を、静寂が織り成す喧騒の合間に聞いた。

「また、明日も来ますか?」

少女は、去り際に問い掛ける。僕は、何事も考えずに、しばらく唸る。本当は、その質問の答えは用意してあったけれども……。

「君が来るなら、ここに居るよ」

なんて……少し、照れくさいからさ。

僕は、シガレットケースから一本、煙草を取り出しながら言葉を投げた。

その言葉を受け取った少女は、きっと僕の視線の先で、ほくそ笑んでいるのだろう。

「なら、お昼に……また来ます」

止めたままの歩み。影の落ちる背中。少女は、再び歩き始めた。

「今度は……」

歩みは止めず、靴の音を響かせながら、少女の言葉は続く。

「貴方の姿、よく見せて下さいね」

そう呟くように囁いた少女は、一歩一歩と、確かな足取りで、その姿を校舎の影へと馴染ませて消えていった。

僕は、その影を最後まで見届けた後に、取り出した煙草へと火を灯した。

「……」

校舎の影から一歩、外へと歩み出ると、満天の星空の煌めきが、僕を覆い尽くしていた。

満天の煌めき。一面の星空。見上げた、その眼前で明滅を繰り返す光点。この手を伸ばせば届きそうなのに届くことはない、遥かな距離の彼方で煌めく星々。まるで、天井に張り付いた電飾のように、平らな空に浮かんでいた。大空を舞う飛行機よりも下に、大空を漂う雲よりも低い場所で煌めいているかのように見える彼らは、大空よりも高く、太陽よりも遠く、僕の手が届く全ての距離よりも遠いところから、僕を見下ろしている。今、この時も。この先も。僕が死んだ後も、ずっと……。

「……ちっぽけなもんだ」

ふと、叙情に浸る僕の口からは、静かに言葉が漏れた。自分自身、ロマンチストだと思ったことはないが、今この時だけは、自分がひどくロマンチストの様相を醸しているかのように思えた。

人間なんて、果てさえも霞む、途方もない宇宙に起こり得るあらゆる事象とは比較にもならない程に矮小な存在だ。人が一人死んでも、この宇宙は何も変わらない。

なのに、僕たちは生きている。さて、何故か。

それは、そこに意味があるからだ。生きている意味があるから、僕は呼吸をし、煙草を燻らせ、空を眺める。大宇宙が把握できない、僕の生きる意味。今はまだ、僕自身さえも、それが示すモノは見えていないけれども……。

でも、それは必ず、どこかにあるのだろう。僕が、深層意識の奥底で、生きたいと思っている理由が、どこかにある。絶望に染まらず、死の誘いを一蹴し、絶望を糧にしてまで生きている理由が。必ず。

ふと気が付けば、指先に挟んだ煙草の灰は、柳の枝のように長く枝垂れていた。その灰を、僕は、この場で落とす。

何のことはない。なるようになるさ。

それに、今は……。

僕は、腕に巻いた時計に視線を落とす。時刻は既に、深夜の三時を跨いでいた。

もうすぐ、夜は明けるだろう。でも、彼女が来ると言った、昼の時刻までは、あと短針の半周以上も残っていた。

「……」

交錯する絶望同士が巡り合わせた、妙な縁だけれども……もしかすれば、僕が生きる意味は、これなのかもしれないな。

尚早かもしれないが、そう思わずにはいられなかった。まだ、君に再び会えると決まったわけではないのに……。

でも、来たる明日の昼までに、済ませられる憂いは全て捨て去っておこう。できることは、全て済ませておこう。そして、君と再び巡り会った時、新しい一歩を踏み出せるように……。

「名前と連絡先……聞いておけばよかったかな」

……なんて台詞も、数刻前の憂鬱に苛まれていた頃には、きっと思い浮かばなかったと思う。そんな余裕なんてなかったと、あの頃の僕は言うのだろう。今となっては笑い話だ。

煙草を一本吸っては、また一本。煙草を吸う手は、相も変わらずに休まる気配もなく、身体の調子を気遣う程度の余裕はあるが、気遣う気は毛頭ない。

でも、これでいいのだろう。そうだとも。なるようになるのさ。

僕は、淡い光を放つ、新月から三日目の月に君の姿を重ねる。ぷすぷすと燻る煙草から燻る煙が鼻腔を通り抜ける感覚。

……何故だろうな。僕は、それが無性に懐かしかったんだ。

僕が通う大学の喫煙所で、延々と煙草を吹かしている時に捻り出した短編です。煙草というものは、一本吸って、また一本。もう一本、もう一本と本数が増えていった先に、美味しさが見えてまいります。初煙草とは、大概は美味しいものではございませんが、その先に美味しさはあるのです。

話が逸れました。加えて、本編とは一切関係のないご報告で申し訳ないのですが、卒業研究の単位が降ってきました。大変に喜ばしいことでございます。

次作は、今日明日にでも投稿する予定でおりますので、そちらの方もよろしくお願いいたします。

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