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薔薇の花束をあなたに  作者: 一色潤
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薔薇の花束をあなたに②

 その日、東京は太陽の熱を嫌というほど浴びて、この夏の最高気温を叩き出していた。真は蝉の声を聞いていた。じーっと耳を傾けていると、冷房の効いた室内であるのに、身体が熱くなってくるように感じられるのが不思議だった。

 「行ってらっしゃい!」

 玄関から母が父を送り出す声が聞こえる。程無く、妹の行ってきますが聞こえ、最後に母が玄関から出ていく音が聞こえる。いつもの1日だ。

 昼過ぎ、ゲームをしていると、階下で電話が鳴った。薫は夏休みだというので遊びに出掛けており、出る者はいない。当然真は無視している。最初の方は律儀に電話に出たりもしたが、大抵がやかましいセールスなので止めた。いつもは無視しているとすぐに切れてしまうが、今日はやけにコール音が長い。おやと思ってしばらく様子を伺っていたが、ふっと電話が切れたので、真はゲームを再会した。



 「ただいま!」

 母の元気な声が聞こえる。気付けば、もう夕方になっていた。もうこんなに時間がたったのかと思いながら、背中を伸ばす。一息つくと真はゲームを止め、空想を始めた。暫く自分の物語に浸っていると、階下から母が調理を始めた音が聞こえてくる。トントンという包丁のリズムが、耳に心地いい。

 「ただいま。」

 ぶっきらぼうな薫の声が聞こえる。今日はいつもより早いな、などと考えながら、しばらく空想していると、けたたましく電話が鳴った。

 「はい、斎藤です。」

 母が電話をとる。

 「えっ、主人が?」

 困惑の声。後に、「確認します。」という言葉が続いた。

 「真、下りて来なさい。」

 電話を切ってすぐ、陽子は真を呼んだ。真も不穏な響きを感じた為、素直に母に従う。居間には薫もいた。目があったが、薫はすぐに不機嫌そうに顔を背けてしまった。陽子は不安そうな顔で何事か考えていたが、やがて頭を整理するように、ゆっくりと話し始めた。

 「あのね、さっきパパの職場から電話があったんだけど、パパね、今日、会社に行ってないらしいの。」

 「それってずる休みしたってこと?」

 薫が不思議そうに聞く。実に子供らしい発想だ。子供は、大人は強いから、仕事に行くのは当たり前で、そこに何の抵抗もないと思っている。だから、大人が仕事をサボるとかそんな事は、考えもしないのだ。

 「そうね、でもパパはそんな事しないよね。真は何か知らない?お留守番してる間、パパ帰って来たりしなかった?」

 「帰って来てないよ、多分。僕、2階にいたから。」

 「そう、分かった。パパの事だから、すぐに帰ってくるわ。とりあえず、ご飯にしましょ。」

 

 ……その夜、母は方々に電話をかけていた。階段の陰から真はその様子をずっと見ていたが、どんどん母の表情に陰りが見えてきた。一軒電話をかけ、切る度に、溜め息が増え、落ち着かない。父の携帯には、何度かけても繋がらないようだ。心当たりの最後の親戚への電話を切った後、母は大きく溜め息をつき、警察に電話をかけた。

 こういった場合、警察の反応は実に事務的なもので、というのも、多くの人が勘違いしているのだが、警察はサービス業ではない。それに中立でなければならないので、自然と相談者は冷たい態度を取られているように感じるものだ。しかし行政文書というものは一切の私情が挟まれない物であるので、それに従って受付をする警察官の態度も、自然と無機質なものになってしまうというのは、何百万という人間がひしめき合って生活をする東京という大都市の特性を考えれば致し方無いことであろう。田舎の駐在さんのような親しみやすい仕事の仕方は、東京では難しい。と言っても相談者は必死である。警察にとっては1日に何件も届け出される捜索願いの中の一件であるかもしれないが、相談者は大切な人を失うかもしれない瀬戸際に立っている訳だから、真摯に対応して頂かないと困るというものだ。だが斎藤家の場合、真摯に対応して頂いているとは言い難い状態で、1日、2日、時だけが無情に過ぎていった。

 3日目、斎藤家は無茶苦茶だった。今や母の顔は憔悴の極みに至っており、妹はストレスからか兄に手やら口やらで激しく当たり散らし、オウムは何やらがなりたてる始末。温厚な父と母が幸せを夢見て建てた、決して大きくはないマイホームの中は、もはや戦々恐々奇々怪々、収集不可能な魔窟と化していた。このような状況であれば、もはや解決策は二つしかない。全員で破滅に向かうか、それとも……

 「うるさーーい!!」

 突如地域に響き渡る大音声。家の中の誰もが振り向いた。そこには、肩を激しく上下させて呼吸をする真の姿があった。

 「うるさいんだよ、薫もアオも!喚いたって叩いたって、父さんは帰って来ないんだよ!アオもさっきエサあげたんだから静かにしててよ!」

 オウムの名前はアオというらしい。青いからであろう。

 「だいたい薫はいつもいつも……!!」

 それから堰を切ったように真が溜め込んでいた不満が溢れだした。斎藤真、初めての怒声である。最初は圧倒されていた薫も、ずっと黙ってはいない。なんせ思春期真っ盛り、この時期の女の子は、怒らせるとブルドッグより狂暴だ。やかましい!と啖呵を切って、掴み合いのケンカを始めてしまった。

 「正論を言われたらすぐ暴力に訴えかけるのか!野蛮女!」

 「うっさい!何が正論よ!あんたこそ何も出来ないくせにしゃしゃり出て来ないでよ、このうん○製造機!いつもみたいに部屋に引っ込んで自分の世界だけで生きてろ!」

 「何で薫にそんな事言われなきゃ行けないんだ!僕にだって好きなことをする権利はあるぞ!」

 「あんた知らないの?権利っていうのは義務を果たした人間が使えるものなの!ただ生かしてもらってるだけのあんたに好きに生きる権利なんか無いわ!好きに生きたかったら何か一つでも世の中の役に立ってみなさいよ!」

 最初の威勢がどんどん失われていた真だが、これには大きくトーンダウン。

 「そんな事言ったって、僕が何をどうしたって世の中は何にも変わらないし、僕なんかには何も出来ないんだよ!」

 「つべこべうるさいんだよ、あんたは。とにかく動けばいいのよ、考えたってどうせ今のあんたには何も分かりやしないんだから!あたしには夢があるの。それに向かって勉強してるだけで満足!将来誰かを幸せにできるかもしれない。その可能性を追うってだけで、十分世の中の為になってるんじゃないの?違う!?」

 薫に思いきり気持ちをぶつけられて、真はガックリと下を向いた。

 「自分で何にも出来ないと思ってるなら、そのまま下だけ向いてずっと部屋に引っ込んでた方がいいんじゃない?目障りなんだよね。」

 うあっ、と一声あげて、真は薫に背を向けてドアに突進する。あり得ない勢いでドアを開け、床が震えるほどの強さでドアを閉めた。階段を太鼓のような音をさせて登り、自室に戻ると思いっきりベッドに飛び込んだ。枕に顔を埋めて大声をあげる。曇った絶叫を吐き出しながら手足を気違いのように振り回す。ベッドがバタバタと叩かれて羽毛や埃が舞う。そんなことを二三回繰り返してもなお、もやもやは晴れてくれない。部屋の壁をバンバン叩く。

 「くそっ、くそっ」

 壁を叩く。

 「ちくしょうっ」

 地団駄も踏む。

 「なんなんだよっ、くそぅう」

 声にならない声が出る。涙は出ないのに目頭だけが燃えるように熱い。自分の意思を表明したからこその昂り、否定された悔しさ、妹になじられ尽くす屈辱。それらをぐっと堪えられるのは、真がもっと経験を積んで、大人になってからの話だろう。今は、ただただ野生に戻って暴れまわる事しかできない。また、必要でもあろう、そういう経験も。

 とうとう疲れきって、というよりは、少し落ち着いて暴れまわる意味もないと考えられるようになって、真はベッドにぼふんと沈みこんだ。目をつむって視覚を遮断すると、真っ暗な宇宙に自分のぐちゃぐちゃで整理のつかない思考だけがぐるぐると回る。少し冷静になってきたので、その断片的な思考の中からいくつかの言葉を取り出すことができた。それは、薫に言われた言葉、「義務」と「夢」、そして「可能性」だった。真にも夢はあった。真は歴史が好きで、特に武士の生きざまなどは大好物。図書館で源義経や織田信長の伝記を借りては読み返しては借り、年中武士の世界に浸っていた。自然、憧れる気持ちが強く、将来は警察官になって世の中の為に働きたいと思っていた。しかし中学に上がってから、クラスに馴染めず、歴史が好きな以外にこれといった長所もなく、どんどん自分に自信が無くなっていった。自分が好きな歴史の分野でも、テストの点数で自分より上位の者はいくらでもいると気付いたとき、もう学校を楽しいと思うことは何一つ無くなった。こんな自分では、警察官になんかなれるわけがない。


 そうだ、そうだった。それで僕は今みたいになってしまったんだ。どうしようもない。恥ずかしくて人と仲良くできなくて、そのくせ構ってほしくて、大好きな歴史のテストで良い点が取れれば皆の話題になれるかなって期待して、でも僕よりも歴史が好きで点数も取れるやつは沢山いて、結局僕には何にも無いって思ったら何もできなくなってしまったんだ。こんな僕に何ができる。何もできない。そんなやつは警察官になんかなれやしない。なれやしないんだ。


 本当にそうか?真は、この答えは何かしっくり来ない。そう思った。思えば、後先考えずに人に自分をぶつけたのは初めてだった。それは真にとって、重要な一歩に感じられた。頭に昇った血は冷えて、かえって思考は鋭さを増している。


 僕は大した人間じゃない。それは分かる。だけど、それは今だ。今の自分だ。明日の自分じゃない。可能性だ。そうだ、可能性だとも!今の僕は確かに糞だ。だけど、それは明日の僕じゃない!可能性を追っていけば、夢にたどり着けるじゃないか!


 真の閉じた瞼に、希望が見えた。人間が生きるために必要なもの、それは食べ物でも住む場所でもない。明日を生きるための希望だ。真はこれ程の高揚感を味わったことが無かった。確かに道は見えた。ならば後は進むだけだ。真は勢い良く体を起こした。立ち上がり、部屋の中をぐるぐると歩き回る。それにあわせて思考も回る。進むためには最初の一歩が肝心だ。ならばどうする。


 「お父さんを探そう。」


 真は、確かな一歩を踏み出した。

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