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薔薇の花束をあなたに  作者: 一色潤
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少年と、誰かの旅の物語

 鳥に憧れたことはないだろうか。僕はいつも憧れている。大人達がどこまでも続く電車のレールに郷愁の念を抱くように、僕は空を飛ぶ鳥に今の環境に無いものを求めている。別に鳥だけじゃない。道行く車、はしゃぐ子供の声、テレビの中のきらきらした人達……。誰もが僕とは違う、そう、どこか違う世界に住んでいて、僕はそれを見ているだけで、想像するだけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられる思いがするんだ。今も窓の外から楽しそうな子供たちの声が聞こえる。外は快晴、締め切ったカーテンの隙間から光が漏れる。太陽が大地を照らし、世の中が活動を始めても、僕はこの灰色の部屋の底で、深海の生き物の死骸のように沈澱しているだけだ。

 外の子供たちの声が一段と大きくなる。友達と合流したのだろうか。眩しい。子供たちには未来がある、道行く車には目的地がある、テレビの中の人達には夢がある。僕には何もない。進むべき道も、向かうべき場所も。何かをしなくちゃ、そう思ってはいるけど何もできない。だってしょうがないじゃないか。僕にはなんにも無いんだから。



 斎藤真は、所謂引きこもりだ。15歳、中学3年生、髪は伸びるに任せていて、目もとまで隠れている。肌は驚くほど白く、ただでさえ華奢な体つきを、一層弱々しく見せている。中学2年に上がってすぐ引きこもりになり、もう1年以上学校へ行っていない。誰かに虐められていたという訳ではない。ただ、うまくクラスに馴染めなかったのだ。友達もおらず、空気のような存在になっていたところ、インフルエンザで1週間学校を休んでしまったのがきっかけで不登校になってしまった。それからは外で知り合いに会うのが怖く、自宅に引きこもる毎日を送っている。

 さて、そんな彼が今何をしているのかというと、まず朝遅めに目覚めて1発目のネガティブタイムだ。30分程度、今の境遇を嘆いてみたり、他人の生活を羨ましがったりしている。そうして悶々とした後、空腹に気付き居間で食事をとる。2階の自室から1階の居間まで降りて食事をする訳だが、家族に会うのは抵抗は無い。無視すればいいだけだからだ。もしくはあーだのうんだの空返事をしてさっさっと食べ終わって自室に帰ってしまう。と言っても、そもそも家族にもあまり会わない。父の出勤も妹の通学も朝早くて、真が下りてくる時間にはいないし、母もパートがあるため二人よりは遅いがすぐに出掛けてしまうからだ。朝、昼はそのまま作りおきのものを食べ、夜は真を除く3人の団欒が終わった後にそそくさと食事に行く。そうすれば、もちろん父母にはあれこれ話しかけられるし、妹にはなじられるが、被害は最小限で済むのだ。最初は家族が寝静まった後、コソコソと食事に降りたものだが、そのうち空腹に耐えかねて仕方なく今のやり方にしたのだ。初めは妹の暴言も本当に心にきたし、父母の優しさが痛くて堪らなかったが、今はもう慣れてしまった。

 食事に関してはこのようなところでやっている。入浴は深夜に行う。ではその他の時間には何をやっているのかと言うと、これはもうゲームしかない。ひたすらプレイしている。気に入ったものは何度でも繰り返しプレイするし、やりこみも凄い。ゲームの主人公を鍛えるのと同じぐらい自分を鍛えていれば、間違いなくひとかどの人物になれているはずだ。しかしゲームはいつまでもプレイしていると、さすがに疲れる。そうすると真はいつも、ベッドに横になり、静かに目を閉じる。目を閉じて空想する。それは、ゲームの続きの想像だったり、印象に残ったシーンを反芻することだったりもするが、彼の一番好きな空想は、その世界の中で、登場人物達と一緒に冒険をするというものだ。あの場面では僕がこんな感じで颯爽と登場して、あそこでは僕が皆をピンチから救って……。そんなことを時間を気にせずいつまでも想像しているのが、彼にとって一番の楽しみなのだ。ゲームの本編をプレイするのと同じぐらいに。そうこうしてるうちに、彼の1日は終わる。寝ようと思って眠ることは無い。眠くなったら自然と眠るし、眠たくないなら起きていて遊ぶ。ある意味、実に自然でリズミカルな生活を送っているのだ。

 さて、そうして続けた引きこもり生活も、少し前に一周年を迎えた。現在、世間は夏休み。年中夏休みの真には関係のない話だが、世間にとってはとても重要なことだ。学生や受験生にとっては、勉学、遊びに熱中できる貴重な時間であるし、大人達も、帰省やら週末の行楽やらに大忙しだ。人も自然も、1年の中で一番エネルギッシュな季節、それが夏だ。そうして老若男女がそれぞれの楽しみ方で夏を楽しんでいる時に、何とも深い悩みを抱える夫婦がいた。東京都世田谷区、小田急沿線の閑静な住宅街に住む、斎藤透、陽子夫妻だ。もちろん、言うまでもなく二人は真の父母である。親子3人の団欒を終え、娘の薫は自室へ引っ込んでしまった。夫婦二人、冷房の効いた居間で温かいお茶をすする。テレビはつけず、黙って二人して考え事をしている。もちろん何を考えているのかというと、引きこもってしまった可愛い長男の事である。静かな室内で聞こえるのは、ペットのオウムが時おりガサゴソ羽ばたいたり、餌を食べたりする音だけだ。

 「キタ、キタ、マコト、キタ」

 オウムが騒ぎ出し、居間の入り口に目をやると、真が青白い顔をして立っていた。

 「真、お腹空いたでしょう。見て!真の好きなハンバーグよ。今温めるから待っててね。」

 「ありがとう。」

 陽子はいつものように、元気に声をかける。声の調子は、意図的に真が引きこもる前と同じように明るくしている。あまり気を遣ってしまうと、かえって真が気が引けてしまうかもしれないという配慮からだ。母の思いが伝わっているのか、真も母に対して乱暴に接することはない。

 真が夕食を食べ終わるまで、二人は食卓でいくらか会話をした。父の透も同じく食卓についたが、黙って二人の会話を聞いてお茶をすすっているだけだった。もちろん透も真と会話をしたい。だが、繊細過ぎる息子にどう声をかけたものか。陽子の話すような、「美味しい?」とか「今日のハンバーグはソースが決め手なの!」とかいう軽い話題は、父親の得意とする所ではない。普通の家庭ならば、「今日は学校でどうだった?」などと聞いてやればよいものだが、真にそんなことを聞いても詮の無い事ではないか。結局、今日は何か真が食いつきそうな出来事はあったかな、などと考えている内に、いつも真は食べ終わって部屋に引き揚げていってしまうのだった。

 その日も結局、透が何も話し出せぬうちに、真は部屋に戻ってしまった。食卓を片付け、二人で居間に戻る。テレビはつけっぱなしだった。

 「なあ陽子。」

 ぽつんと、透が言う。

 「なあに、パパ。」

 「真が引きこもってもう1年と2ヶ月だ。そろそろ、何とかしないと。」

 「でも、先生は本人がやる気を出すまで見守った方がいいって…」

 「そう。僕もそう思って見守ってきたけど、1年経って、それじゃダメだと思った。真のあの部屋の中には、何も無い。何も無い所からは、何も生まれない。だから真にとって、何か良い刺激を与えてあげるのが良いんじゃないかと、そう思うんだ。」

 「でも、今よりももっと悪くなってしまったらどうするの?もうご飯を食べに下りてくる事もなくなるかもしれないのよ。」

 「それだよ、陽子。真は僕達と接する機会を作っている。これはチャンスなんだよ。僕達も、永遠に真を守ってやることは出来ない。親として、真が立ち直るきっかけを作ってやりたいんだよ。」

 透は、真っ直ぐに陽子の目を見ている。真が引きこもってから、ずっと考え続けてきたのだろう。それが分からぬ妻ではない。

 「パパのすることなら、私は何でも信じるわ。」

 テレビの中ではタレントが大笑いしている。ある家族はこの番組を見て笑い合っているが、ある家族はこの番組を見ながら息子の将来に関わる重要な話をしている。全く世の中は不思議なものだ。そう思いながら、オウムは一口水を飲む。

 「マッタク、トウキョウノミズハカルキクサイゼ」

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