閑話*2 夏風邪は思ったより厄介だ
高校1年生の夏休み。照り付けるような太陽。肌を焼く眩しい光。うるさい蝉の鳴き声が蒸し暑さを演出する中、友たちと共に青春を謳歌する。
⋯⋯⋯⋯のはずだったのだが。
ピピピッ
「38度5分、か⋯⋯⋯⋯」
くらくらする頭を抱えてベッドに倒れ込む。窓の外で蝉が競うように鳴き叫び、冷たいクーラーの風が肌に当たり寒気がする。
8月初旬。
俺、日女川梓は、どうやら風邪を引いたようだ。
原因は分かっている。先日俺は母親に連れられ町内の清掃ボランティアに参加した。朝から昼過ぎまで炎天下の下でごみを拾い続けた俺は、帰りに道路の打ち水をしていたおばさんに水をぶっかけられ、そのまま家に帰ると同時に自室で爆睡。濡れた身体にクーラーの冷風をしこたま浴び続けた。
このくらいの風邪、普段ならどうってこともないが、不運にも今は真夏。病院に行こうにもこの暑さの中を外出するのはきついし、何より病院が遠い。親がいるなら連れていってもらうこともできるが、あいにく両親は2人とも仕事だ。
結果、クーラーの効かせた部屋で羽毛布団を頭から被っている。
熱があると言っても今日一日寝込めば治るだろう。本当は薬を飲んだ方がいいが、それは無いものねだりというやつだ。
じとっとした布団の中でうとうとしていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン ピンポーン ピンポー――ン
「⋯⋯⋯⋯⋯」
ベッドから起き上がるのも億劫で居留守を決め込んでいると、諦めたのか門の閉まる音がして静寂が戻った。薄く息を吐き出して寝返りを打ち、ふと窓の外へ目をやって、
「うわぁっっ!!!」
ベッドから転がり落ちた。
お隣さんの蓮が窓伝いに俺の部屋へ侵入しようとしていた。
「梓! 大丈夫!?」
柵に足をかけひらりとこちらへ飛び移ると、窓を開けて飛び込んできた。焦った表情で倒れた俺を起こしてくるが、原因はお前だ。
「いや、あのな? 本当びっくりするからやめろよ⋯⋯」
小さい時は窓からお互いの部屋を頻繁に行き来していたが、高校生になってまでやるとは思わなかった。呆れと驚きでガンガン痛む頭を押さえながら呻くと、蓮がしゅんとした顔で俯いた。
「ごめん⋯⋯。チャイム鳴らしても返事がないから心配で、思わず⋯⋯」
「いや怒ってないけど。あれ? てかなんで俺が風邪引いたって知ってるわけ?」
「梓のお母さんが連絡してくれたの」
そう言って蓮はにこりと笑った、
「風邪引きの梓をよろしく頼むわねって。だからお世話しに来たの」
♦♦♦♦
⋯⋯⋯正直嫌な予感しかない。
俺は隣で持っていたビニール袋から薬や食品を取り出す蓮を眺める。確かに市販薬だろうと薬は助かるし、プリンやゼリーなどの軽食も嬉しい。だがそれ以上に持ってきた大きめのタッパーとお鍋が気になる。
⋯⋯まさか、ここで料理するとか言い出さないよな?
もうご存知かとは思うが、蓮の料理下手は史上最強級だ。大量殺戮兵器だ。食べると核爆弾級のまずさが容赦なく命を奪おうと襲いかかってくる。俺はこの前の文化祭で、その威力をそれこそ死にそうなほど体験することになった。
「なあ蓮、そのタッパーの中身って⋯⋯」
「え? おかゆだけど?」
やっぱりぃ!! Oh,my God! 俺の人生はここまでのようだ。せめて死ぬ前に一度、可愛い彼女とデートしたかったな。
「⋯⋯梓、何か勘違いしてない?」
「え?? おかゆだろ? 蓮が作ったんだろ? 分かってるって⋯⋯。でも食べる前に斎藤に、この前カレーに大量のガラムマサラ(カレーに入れるスパイス。入れすぎるとマジで死んじゃうぞ!)を入れたのは俺だって、一言謝罪させてくれ⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯じゃないもの」
「え?」
「作ったの、私じゃない。お母さんだよ」
⋯⋯⋯⋯⋯⋯。
「ええええぇ!!??」
何? 本当!? 蓮が作ったんじゃねえの!?
「だって私、おかゆの作り方知らないから⋯⋯」
「え? あ、そうなの? いや別におかゆぐらい作れなくても大丈夫だろ。気にするな」
ていうか、米を煮るだけだし肉じゃがよりよっぽど簡単な気がするけど、ここでは言わない。
「出来立てだしまだ温かいけど、どうする? 食べる?」
「じゃあ貰おうかな」
そういえば今日一日何も口にしていなかった。全く蓮と蓮ママグッジョブだ。
俺は急に空き始める腹を押さえながら、蓮が差し出す匙を咥えた。
うん。良い煮加減だ。おいしい。
「どう?」
「さんきゅ。すごくう⋯⋯⋯⋯」
⋯⋯⋯いま、俺どうやって食べた?
目の前には、匙でおかゆを掬いながらにっこりと微笑む蓮。
「うおぉぉぉ!!!」
その瞬間顔が燃えるように熱くなって、ベッドに顔を突っ込んだ。
「あ、梓!?」
「みみ水だ蓮!! 水持って来い!!」
「え? 水ならここに⋯⋯」
「いや、あれだ、氷だ! ドライアイスだ!! ドライアイス買って来い!!」
「え。えっと、わ、分かった」
困惑した顔で窓から帰っていく蓮をチラ見し、長い息を吐いた。
危なかった⋯⋯⋯⋯⋯。
蓮に赤面を見られるところだった。
あのイケメンは妙に対人スキルが高いため、こんなことどうってことも無いかもしれないが、俺は違う。女子で、しかもあんな美形に至近距離で微笑まれて、スルーを決められるほど図太くはなかった。
どうして、いつからだろう。
昔は、風邪を引いたら寒くないように2人でベッドを共有して、くっ付いて寝て、次の日相手に風邪を移すのがお約束だったのに⋯⋯。
いつから、こんなに意識するようになってしまったんだろう。
俺はベッドの上でごろりと寝返りをうち、白い天井をぼんやりと見つめた。
♦♦
「ただいま梓、具合はどう⋯⋯」
窓から再び侵入した蓮は、ベッドの上で静かに寝息を立てる梓を見て、安堵の笑みを浮かべた。枕元には空になったタッパーと匙が置かれており、ちゃんと食べてくれたことに嬉しくなる。
実は、このおかゆを作ったのはお母さんではない。正確には、お母さんに多大な迷惑をかけつつ蓮が作ったものだ。(68回もの挑戦の末に奇跡的にうまくいった。現在蓮宅には失敗した大量のおかゆが有毒な蒸気をまき散らしながら昇華を続けている)
もらってきたドライアイスを洗面器に入れて枕元に起き、身体を震わせている梓に、自室から持ってきた毛布を掛けた。額の汗を拭ってあげ、完全に溶けてしまった氷枕の中身を取り換える。反応を見ながらクーラーの温度を調節し、そばに椅子を持ってきて座った。
「寝顔、可愛い」
思わず笑みが漏れてしまう。無意識にそう思ってしまうほど、梓の寝顔は可憐で可愛かった。伏せられたぱっちり二重の瞳。毛先がくりんと跳ねた茶色の髪。白いが青白くない、僅かに赤みがかった桃色の肌。
もしこんな顔に生まれていたら、お母さんに嫌われなかったのかな⋯⋯。
急に寂しくなって、梓の髪に手を伸ばした。いつも彼がしてくれるように、優しく何度も髪を梳いていく。
不意に梓が呻いて、薄らと瞳を開けた。
「あ⋯⋯⋯⋯」
慌てて手を引っ込める。どうやって言い訳しようかと悩んでいると、腕を唐突に掴まれた。
そのまま引っ張られ、ベッドの上に倒れ込む。
「あ、ず、さ⋯⋯⋯⋯⋯」
咄嗟に抜け出そうともがくと、後ろから強く抱きしめられた。
心臓が痛い。息ができない。
破裂しそうな心臓を押さえ、目をぎゅっと瞑った。布越しに感じる梓の薄い胸板と、想像以上に筋肉質な腕に胸が痛いほど強く鼓動を打つ。
苦しい。でも、温かい⋯⋯⋯⋯。
強張った身体から力が抜ける。そのまま眠りに落ちていった。
♦♦♦
「うぁ⋯⋯、あれ? もう夕方?」
窓から差し込む夕日に目が覚めた。大きくあくびをし、身体を伸ばした。頭はもう痛くない。熱は引いたようだ。
なにか、昔の夢を見ていたような気がする。
蓮と2人でベッドに入る夢。風邪は苦しくて辛いけれど、蓮がそばにいると安心して眠ることができた。
心なしか、今日は寝苦しくなかったな⋯⋯。
ふっと微笑みながら隣に目をやり、ほっそりとした背中を見て硬直した。
あれ? あれあれあれ?????
なんで、蓮が、ベッドの中に⋯⋯。
冷や汗が噴きだす中、自身の右腕を見る。
がっちり、抱きしめてるじゃねえか!!!!
腕の中で蓮が身じろぎした。全身に嫌な汗が大量に流れ、すーっと背筋が冷たくなっていく。蓮はしばらくぼんやりとしていたが、俺の方に顔を向けて、寝起きの顔のまま口を開いた。
「梓、おはよう⋯⋯」
「ああ」
「熱は? もう大丈夫?」
「ああ」
「そう、よかった」
ろくな返答ができない俺に蓮は薄く微笑むと、ベッドから降りて伸びをする。
「じゃあ、そろそろおばさんが帰ってくるだろうし、私帰るね。お大事に」
そして、背を向けたままゆったりと言うと、部屋を出て行ってしまった。
やってしまった⋯⋯。
再びベッドへと倒れ込む。熱は下がったはずなのに妙に身体が火照っていた。
蓮、華奢すぎるだろ。ちゃんと食べてんのかな。でも、やわらかかった⋯⋯。
まだはっきりと残る感触と蓮への罪悪感に、ベッドの上で悶えていると、母さんが運よく入ってきて、思いっきり心配そうな顔をした。
あれ、そういえば⋯⋯。あいつ窓から入ってきてたよな? 靴、あったっけ。
(蓮SIDE)
扉を閉め、そのまま床に座りこむ、平静を装っていたが、心臓は死にそうなほどドキドキしていた。
梓に抱きしめられた⋯⋯。
寝ぼけてやったこととは分かっているのに、心臓が収まらない。
よろめきながら階段を降りると、今しがた帰宅した梓のお母さんと出会った。
「蓮ちゃん、梓の様子はどう?」
「熱は下がったみたいです。もう大丈夫だと思います」
「もう、全く弱いわねえ、うちの息子は。蓮ちゃん、ありがとね。⋯⋯蓮ちゃん? 大丈夫??」
「え⋯⋯⋯⋯⋯?」
「顔真っ赤よ? あらやだ、風邪でも移しちゃったかしら!」
「だ、だ大丈夫です!!」
思わず叫んで逃げ帰る。
もちろん、裸足のままで。