甘美な衝動
屋上の扉を開けると、視線の先に見慣れた後ろ姿があった。
「蓮」
呼ぶと、蓮が振り返って少し気まずそうに笑った。
「よく分かったね⋯⋯」
「当たり前だ。小1からの幼馴染を舐めるな」
ポケットに手を突っ込みながら近づくと、蓮は再び外へ顔を向けて黙り込んだ。落ち目の太陽がまだ明るい日の光を屋上に浴びせ、夕方前の生ぬるい暑さに肌がじっとりと湿る。
「ごめん、梓」
「何が?」
「カップルコン、私のせいで」
唐突に蓮がぽつりと言った。沈んだ声が屋上の空気に寂しさを落とす。騒がしい校内と切り離されたような静けさが俺と蓮の間に漂った。隣で校庭を見下ろす蓮の横顔は陰りながらもハッとするぐらい奇麗で、そんなことを思ってしまう自分に罪悪感を感じた。
「別に蓮のせいじゃねえだろ。クイズだって姫抱っこだって蓮のおかげで一番だったし、料理も、いつもよりはましだったし⋯⋯」
味はともかく、食べられるものだったからな。
まぎれもない本音だったけど、蓮はそう思わなかったようだ。
「ごめん」
聞いている俺が辛くなるほどの儚い声が、胸を突き刺した。
ポケットの中で拳を握りしめる。ついさっきまで揺らいでいた覚悟を決め、蓮の方を向いた。
「⋯⋯なあ蓮、手出せ」
蓮がゆっくりと顔を上げた。不思議そうに差し出された手のひらに、ポケットの中の物を手渡す。
「⋯⋯⋯⋯!!」
蓮の瞳が大きく見開かれた。驚きに震えた声が漏れ出す。
「こ、れ⋯⋯、ネックレス⋯⋯⋯⋯?」
蓮の手にはマーガレットをモチーフにした手作りのネックレス。そう、手作りアクセサリー研究会の教室で、蓮が見つめていた首飾りが輝いていた。
「き、気まぐれだ。深く考えんな」
気恥ずかしくなって目を逸らす。でもすぐに黙ったままの蓮が気になって、そっと横目で彼女の顔を盗み見、そのまま動けなくなった。
蓮が、頬を薄く桃色に染めてはにかんだ。
整いすぎて冷たささえも感じさせる完璧な美貌が、温かさを宿して花のように笑う。
心臓が大きく鼓動を打った。身体の自由が奪われ上手く息が吸えない。
「ありがとう」
桜の花びらを思わせる形の良い唇が微笑む。黒水晶の瞳がこの世のどんな宝玉でも叶わない煌きで輝いた。
「つけてみてもいい?」
蓮の尋ねる声でふと我に返った。動転した俺は、いつもなら決して言わないことを口走った。
「俺がつけてやるよ」
言った後で後悔したが、蓮の期待に満ちた笑みに押されネックレスの鎖に指をかけた。
♦
意外と華奢なんだな⋯⋯。
ぼんやりとそう思った。目の前に蓮の白い首筋が晒され、呼吸に合わせて上下している。普段はイケメンだと騒がれ男子よりもかっこいい蓮だが、こうして見るとちゃんと女子であることを自覚する。
⋯⋯⋯⋯って、何を考えてるんだ俺は!
危うい考えに流されそうになった思考を強制シャットアウトし、蓮の首にネックレスをかけた。留め金がきちんとつながったことを確認し、肌にかかった黒髪を一筋、さらりとよける。
その時指先が、蓮の肌を僅かに掠った。
心臓が壊れそうなほど強く鼓動を打つ。女子特有の甘い香りが肌から立ち上り、頭がくらくらした。雪のように白く、ほんのりと桃色がかった肌の色が、人を誘惑する果実のような色気を放つ。
冷静な思考が甘美な誘惑にとろけていった。
黒髪に指を絡ませながら、蓮の白い肌に唇を寄せた。
「梓⋯⋯?」
⋯⋯っ!
「梓、今⋯⋯⋯⋯」
「⋯⋯手が当たっただけだ」
「⋯⋯⋯⋯⋯そう」
文化祭終了のアナウンスが流れ、生暖かい風が火照った頬を撫でた。
♦♦♦
「日女川ー、暮野知らない?」
「⋯⋯知らない」
「なんだよ冷たいな。⋯⋯あれ? お前顔どうした? ⋯⋯熱でもあんのか?」
「なんでもない」
思わず口調が荒くなる。斎藤が怪訝な顔をしながら後片付けをしに駆けて行った。蓮が心配そうな視線を送ってくるが、意図的に無視する。
蓮の顔が、直視できない。
無意識のうちに口元を手で覆った。
やわらかい肌の感触が、今もくっきりと唇に残っていた。