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お化け屋敷を出てすぐ目に飛び込んできたのは、うさ耳をつけた蓮だった。
「あ、梓⋯⋯」
暮野が貸したのだろう。彼女のすぐそばで苦笑する彼と目が合う。
その目が一瞬挑発的な色を帯びたような気がした。よく見ると蓮との距離がいつもより近いように感じる。そんな小さなことがやけに気になる。
待て待て俺。何イライラしてるんだ⋯⋯。
1人で焦っていると、蓮がそばに走り寄ってきた。
「ごめん」
小さな声が胸をふわりと覆った。たった一言でさっきまで俺を支配していた苛立ちがきれいさっぱり引いていくのを感じた。
「いや、俺の方こそごめん⋯⋯」
素直に謝罪の言葉が口を割って出た。照れくさくなって頭を掻くと、蓮が顔を上げ嬉しそうに笑った。頭の上のうさ耳がぴょこぴょこ揺れ、その可愛さにキュンとする。⋯⋯今日の俺は心臓の調子が悪いらしい。すぐに変な動悸に襲われるし、息苦しくなる。
「まだ15歳なのに⋯⋯」
「え?」
「いやなんでもない」
手を振りながら適当にごまかしていると、斎藤が額の汗をぬぐいながら話しかけてきた。
「なあ、腹減ったし模擬店に行こうぜ!」
「うん」
「そうだな」
賛成する蓮と暮野に対し、俺が思ったのは「げっ、マジかよ」だった。
まだ腹の中にはさっきのドーナツが居座っている。空腹感など皆無だ。だがここで拒否すると蓮は確実に落胆するだろうし、俺のプライドにも傷が付く。さっきは逃げてしまったので、今度は頑張らないといけない。
だけどさ⋯⋯。
俺は蓮の横顔に目をやった。模擬店と聞いて笑う蓮の顔は本当に嬉しそうで、さっきまで爆食に走っていたとは到底思えない。全く不思議だ。その細い身体のどこに収納されてるわけ?
軽く現実逃避に走っていた俺の裾を誰かが引っ張ってきた。目線だけそちらに向けると、蓮がにっこりと笑いながら訪ねてくる。
「クレープとかき氷どっちが「かき氷」
もちろん即答した。
ーーーーー
この胃もたれ状態の腹にクレープなんて突っ込んだら確実にリバースだ。
俺はイチゴのシロップのたっぷりかかったかき氷をかき込みながら、ぼんやりとそう思った。冷房の効いた校舎内とは違い、模擬店のある裏庭はじっとりと蒸し暑く息苦しい。かんかんに照り付ける太陽が頭痛を誘い、石の敷かれた地面からは熱気が薄ら立ち上っている。座っているだけで汗が吹き出し頬を伝った。
こんな時にはやっぱりかき氷が一番だ。俺はストローの匙で氷をすくい、口に含んだ。キ―ンと突き刺すような冷たさが口から鼻、脳へと突き抜け、爽快な甘さが火照った身体を冷やしていく。疲労と暑さで荒んだ心が洗われていくようだ。
夢中で食べ進める俺の前では、蓮がクリームたっぷりのクレープを頬張り、その右に暮野がドーナツを、左に斎藤がチュロスを持って座っている。それぞれ自分の食べたいものに集中していて会話はほとんど無い。
カップに残った最後の一滴まで飲み干すと、ぷはぁっと一息ついた。ひんやりとした身体に夏の暑さが心地よい。夏は好きじゃないが、こうしてみるとなかなか良い感じだ。
「梓⋯⋯、もう食べたの?」
蓮がクレープのイチゴをすくいながら聞いてきた。俺は口直しに水を含みながら頷く。紙コップの水はすでに温くなっていて、清々しさが消え失せ薄らとカルキの匂いがした。
「かき氷好きだからな」
「そう⋯⋯」
俺の言葉に蓮は食べるのを止めると、一瞬何かを考えるような素振りを見せ、おもむろにクレープを差し出してきた。
「へ⋯⋯?」
「一口、あげる」
奇麗な顔に満面の笑みを浮かべながらクレープをぐいっと突き出してくる。思いがけない行動に思考が停止し、口から間抜けな声が漏れた。汗と動揺で滑ったコップが地面に落ちて転がる。ぬるい水がこぼれ靴にかかった。
じとっとした不快感が足から伝わってくる。が、今は自身の置かれている状況に戸惑って気にする余裕なんてどこにも無かった。
え? なに、食べろってこと? いや別に一口ぐらいいけるけど、でもこれ、か、間接キスになるんじゃ⋯⋯⋯⋯。
せっかくクールダウンした身体がまた火照ってきた。固まったまま動くことができない俺に、蓮はクレープを持ったまま首を傾げた。
「嫌い?」
その声がどこか悲しそうに聞こえて、咄嗟に首を横に振る。
「嫌いじゃない、けど⋯⋯」
再度蓮の顔を窺うと、今度はにっこり笑いかけてきた。薄い唇が“どうぞ”とささやく。
これはもう、食べるしかないだろう。据え膳食わぬは男のなんたらって言うし。
俺は首をのばして目を閉じ、蓮のクレープをかじろうとして、
すかっ
思いっきり空振りした。
⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯は?
驚いて目を開けると、まんまるに見開かれた蓮の瞳と目があった。
え? 待って、クレープはどこへ⋯⋯?
混乱したままの俺の耳に、低い淡白な呟きが聞こえてきた。
「うまい」
蓮の手ごとクレープを奪い去った暮野は、一口かじって頷き、蓮の手を離した。解放された蓮は硬直し、俺と斎藤は目の前の光景をただ茫然と眺めている。
「え、えと、⋯⋯暮野?」
蓮が上ずった声を上げた。目尻がわずかに赤く染まっている。まさかの展開に頭が追い付かず固まったままの俺に、暮野はちらりと横目で視線を送ると、涼しげな表情で口を開いた。
「日女川がいらなさそうだったから」
そう言って自分のドーナツを頬張った。
頭にカッと血が昇った。言いたいとこはたくさんあるのに、唇がわなないてうまく話せない。暮野の余裕そうな態度に差をつけられたような感じがして、さらに焦った。
蓮はすっかり動揺して俯いてしまった。小口で食べる彼女の口元に、白い生クリームが付着する。
「蓮、口元」
「え?」
「だから、ここにクリームが⋯⋯」
俺の指摘に蓮が首を傾げたその時、横から伸びてきた指が唇のクリームをかすめ取った。
「あ」
蓮と俺の声が重なる。
「ん、甘い」
暮野が指をぺろりと舐めて満足げに笑んだ。
「く、暮野!」
蓮は白い頬を真っ赤に染めあげると、咎めるような声を上げた。それを見た暮野がさらに楽しそうに笑う。
⋯⋯なんだそれ。
すっげえ、腹が立つ。
原因の分からない怒りが喉まで込み上げてきて肩が震えた。
蓮にあんなに馴れ馴れしく触れるなんてありえない。
空になった紙コップがぐしゃりと音を立ててへこんだ。
かなり動転しているのか、急いでクレープを頬張る蓮の口元にまたクリームが付いてしまった。慌てる蓮の頬に暮野が苦笑しながら再度手を伸ばそうとするので、頭が真っ白になった俺は咄嗟にそばにあったおしぼりを引っ掴み、
彼女に投げつけた。
べちゃっ⋯⋯⋯⋯⋯⋯
湿った音と共に、蓮がおしぼりを顔面でキャッチした。
空間が一瞬で凍り付く。
沸騰寸前だった血が急激に冷えていくのを感じた。
おしぼりが音もなく蓮の膝に落下する。水気でペタリと貼りついた前髪をよけながら、蓮が静かに息を吐いた。
「梓⋯⋯」
唇の動きがいつもよりゆっくりに見える。俺は生唾を飲み込んだ。
「何か言いたいこと、ある?」
「すいませんでした」
冷たい美貌に怒りを乗せ、艶やかにほほ笑む蓮に、俺はテーブルに額をぶつける勢いで頭を下げた。
やっぱり今日は俺らしくない。暑さのせいだな。
⋯⋯だから夏は嫌いなんだ。
かなり今さらですが⋯⋯⋯⋯
暮野秀平
野球のスポーツ推薦で入学した。無口であんまり感情の起伏を表に出さない。181センチという高身長だが、実は牛乳をあまり飲まず小魚もほとんど食べない。この事実を知った梓からは殺意を向けられた。