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私は、あの子の、焦った顔を見て安堵した

『私は、あの子の、焦った顔を見て安堵した』




――最初に感じたのは、お堅い友人への優越感だ。


 製薬会社に就職した私は、幾度かの会社合併を乗り越え、デスクを確保したままこの年を迎えることができた。

男女共同、などといって熱に浮かされたかのように総合職へと進んだ同期たちは、結局結婚と、それ付随する出産と育児、を経験するにつれ、徐々にその数を減らしていった。

今残るのは、私のような独身と、体力も根性も人一倍強固な女ぐらいだ。

育児や福祉を充実させる、という会社の建前のもと、そのような名前の制度は存在する。

確かに育児休暇やそのほかの制度そのものも、他社に比べれば素晴らしいだろう。

だけど、その利用率の低さをみれば、それがただの名ばかりの制度だということは、一目瞭然だ。会社がアピールするに相応しいロールモデルとなるごく一部の「女性」たちだけが利用できるお飾りの制度だということも。

私は、それとなく退職を促す上司や、彼女の仕事を肩代わりせざるを得ない同僚たちの無言の圧力を見聞きしてきた。

もちろん、私は今でも口先だけは同情するものの、妊娠している同僚に本心から優しくすることなどできてはいない。

勝手に妊娠しておいて、そのつけをこちらにまわさないで欲しい。

決して吐き出せない本音は、おそらく忙しさにかまけた職場の本音であり、それは本来なら制度の不備や、日本的働き方の是非、などまで話をもっていかなくてはならないのだろう。

本末転倒ではあるけれど、こんな働き方では申し訳ないがこちらにその余裕はない。

まして私は独身で、今まで彼女たちがしてきたような恋愛も結婚も子育ても、したことがないのだから。

そこまで考えて、私の視野の狭さと、性格の悪さに吐き気がした。

おいしくもない自動販売機のカップコーヒーを飲み、書類に再び目を通す。

今日は、友達と約束をしている。

できるだけ残業はしたくない。

目の端に何かをとらえ、振り向きそうになる自分を押しとどめる。

予想通りの声がして、振り向かなかった自分に安堵した。




「失恋したの?」


案の定、念を押すように私に問うた彼女は、落ち着かない顔をしている。

失恋して、胸が痛くて。

こんな思いを世間のみんなは何度も繰り返しいたのかと思うと、私はもう二度とごめんだ、と思いながらも、私は意地悪いことを考える。

思ったとおりの反応を返した彼女に、やはり予想通りの反応を返した友人二人がこちらを覗き込む。

難しいことを言って結婚を渋っている女と、軽い付き合いしかしない女、は、私ががんがんアルコールを摂取する姿を、前者は呆れて、後者は驚きながら見つめ、顔を見合わせている。

落ち着かない顔をした彼女は、ありありと焦燥感を浮かべた顔をしている。

彼女は、この中では一番堅い職場で、堅い仕事をしている。大学での研究職を得ている彼女は、おそらくこれから教授になったりするのだろう。

たぶん、きっと。

それに引き換え、と、わが身の置かれた立場を振りかえり、失恋以外でも飲みたくなる気分が盛り上がる。

遠慮なく注文し、遠慮なく食べ、あっけにとられている三人をよそに、私のペースはとまらない。

一般的な恋愛や、結婚、といった話題のなかったこの連中は、私にとってとても居心地がいい仲間だ。

それでも、彼女たちが変わらない私がいる、ということに安心していたことを知っている。

一人は、恋愛から目をそらし、それでも後ろにはさらに縁遠い私がいる。

一人は、結婚という制度を忌避し、まったく関係のない私がいることに安堵している。

一人は、波風の多い生活をおくりながら、無風の私を見て平常心を取り戻していた。

三者三様に、私を下に見て、落ち着いていたのだ。

だからこそ、今回、失恋をした、などという恥部をさらけ出してみたのだ。

私が投げた石は、予想以上に波紋を広げ、彼女たちの驚くさまが見て取れた。


「本気だったの?」

「もちろん」


すでにろれつが怪しくなった私に、未来の教授さまが念を押す。

あたりまえだ。

私は、本気で好きになって、あっさりふられたのだ。

この年になってするはじめての失恋は、思った以上に痛い。そうでなくては、邪な思いとは別に、彼女たちを呼んだりはしない。


「でも、いい男だよね、きっぱり断るなんて」


既婚者だっていうことは知っていた。

知らないふり、をしていただけだ。

彼の持つ柔和な雰囲気と、落ち着きのある態度は、奥さんが担っている部分があるのだろう。そんな誰かが完成させた男、を私は単純に欲したのだ。

私が掠め取って、彼を彼のままでいさせられる自信などありもしないのに。

ぐらぐらと視界が揺れ、すでに限界点を突破したことがわかる。

だけど、私はペースをゆるめない。

取り残された猫のような顔をして、堅物女が私の顔を覗き込む。

安心して、結局私もまだあんたの仲間だから。

などと言う心の声は出さずに、代わりにわがままを吐き出す。

呆れて、おもしろがって、それでも三人は、私の話を最後まで聞いてくれた。




 記憶があるのは、友達が心配そうに覗き込んだところまでだ。

痛む頭を抱え、自分が素っ裸でベッドの上で眠り込んでいる姿を発見した。

記憶を掘り起こそうとして、痛みにあきらめ、適当に上着を羽織って、冷蔵庫へと歩き出す。

久しぶりの二日酔いは、年をとった体にはなおのこときつく、ずきずきと痛む頭を取り外し、風呂場で洗ってやりたい気分だ。

なんとか飲み物を取り出し、一気に飲み込む。

冷たい感覚が、一瞬だけ清涼感をもたらし、わずかだが気分が向上する。

きっと、送ってくれたのは、堅物の彼女の違いない、と、携帯を引っ張り出し、お礼のメールを送信する。

案の定、一時後には彼女からこちらを気遣う文面の返信が着信する。

痛む頭を抱え、再び寝床へとたどり着いた私は、二度寝をする。

今日は休みだ。

一人暮らしの私が、何をしたって問題はない。

誰に言い訳するでもなく、そんなことを思いながら毛布にくるまる。


明後日は、会社だ。

何もなかったかのような顔をして、仕事をこなさなければいけない。

仕事にやる気も生きがいもまったく感じていないけれど、そうしなければ生きていけないのだから。

私は、あの子の、焦った顔を見て安堵した。

同じところを歩いている、いや、遅れて歩いていると思っていた私においていかれたような気持ちになったのだろう。それを見て、私も気持ちが高ぶった、いや、一瞬だけど彼女を見下した。

だけど、結局のところ、私はどこまでいっても中途半端なのだ。

信念をもって同棲しているわけでも、探究心をもって仕事をするでも、好奇心で男と肌を重ねるでもない私は、どっちつかずだ。

彼女たちのように、仕事も仕事も、でも仕事も私生活も、でもなく、半端にゆるゆると生きてきて今がある。

失恋して得られたのは、ちょっとした優越感と、自分自身の立場の自覚。


それでも私は、この中途半端な私が好きだと言う事実。

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