夜のはじまり
男は正樹と言った。名前ではない。名字だ。
「正樹さん、こいつがこの前話したアキラっす」
川口にそう言われ、あの時好意的な笑顔を向けた正樹の顔が、俺の記憶の中で醜く歪んでいる。
川口と会って早々、どこに連れて行かれるのかと思えば、10分ほど歩いた場所にあるボロアパートだった。
かなりの築年数だろう。壁は剥がれているし、階段も所々抜けている。あちこち赤く錆び付いて触れるのも躊躇してしまう鉄骨。
吹けば飛んでいくのではないかと思うくらい薄いドアの向こうは更に酷かった。
玄関には生ゴミが積まれ、酷い悪臭がする。鼻がもげるとはまさにこの事だ。その向こうはエロ本で散乱し、使用済みのコンドームが何故か大量に床に散らばっていた。
狭い七畳の部屋は今時フローリングではなく畳で、申し訳程度の台所シンクが角にあった。
冷蔵庫もクーラーもない。真夏のくそ暑い中で扇風機一台が回っているだけだ。温風が髪を撫でると、余計に暑苦しく感じた。裏は林で蝉の声が一際煩い。
三人の男がいた。ひとりは川口が会わせたいと言った正樹。もう一人は正樹の友達なのか、二人で親しげに話していた。
問題は残る一人だ。パンツ一枚で体育座りをして怯えたように縮こまっている。ガリガリの身体に焦点の定まっていない目が不気味だった。何より顔に殴られたような痣がいくつもある。いきなり入ってきた俺達には目もくれなかった。
煙草の煙で充満したそこは冗談みたいな視界の悪さで、思わず顔をしかめた。
「アキラ。俺がお世話になりよる正樹さん」
川口が言った。あぁ、と答える他なかった。
「お前が森澤アキラか」
正樹が俺を見上げた。
俺は分からないままただ頷く。裸の男は相変わらず微動だにしない。
「山田を殺ったって?」
ここでもその話題か。正樹が言う。隣の男も同じく俺を見た。
「いや……まぁ」
何だかヤバそうな感じがした。
「聞いとると思うけど、山田はこいつの兄貴追い込んだ奴やきよ、俺も許せんかったがよ」
こいつ、と川口を指差した。
どうやら正樹は川口の兄貴の友達だったらしい。だから川口のことも可愛がっていると、そういうことなのだろう。
「正樹さんは俺らの中学で一番喧嘩強かったんやぞ」
自分のことのように自慢気に話す川口がひどく子供っぽく見えて、つい苦笑いを溢した。
「周りはザコばっかやったきな」
正樹が満更でもなさそうに言う。じゃあてめーが川口の兄貴の敵をとってやりゃ良かっただろうが……と思ったが言わなかった。
正樹は男から見ても納得するほどの男前だった。少し長めの黒髪が、昔の江口洋介を意識しているのかは分からないが、芸能人で例えるとそんな感じだ。歳は三つ上。高校中退して、今は無職らしい。見せる笑顔と嫌味のない話し方は特別嫌いではなかったが、どこか胡散臭い奴だった。
そこにいたのは小一時間程度だったが、『はぁ、』とか『そっすね』としか返事をしなかった割りに何故か俺は正樹に気に入られ、お互い番号を交換した。
「女でも紹介してやるよ」
正樹はかなりモテるらしかった。まあルックスを見れば、それがあながち嘘ではないだろうということが分かる。
もう一人の男は、正樹の話に相槌を打つだけで自分の話は一切しなかった。それだけで二人の力関係が何となく見える。
そして結局俺達がそのアパートを去るまでの間、裸の男は一言も言葉を発しなかった。
「なんだよ、あれ」
アパートを出てから川口に言うと、川口は不思議そうに眉をしかめた。
「いや、ただ俺がお世話になっとる先輩やきお前にも紹介しようと……」
「ちげーよ」
あそこにいたからか、服が臭くなったような気がする。今すぐ帰ってシャワーを浴びたかったが、我慢した。
「あの裸の男だよ、何あいつ気持ちわりぃ」
「あぁ……あの部屋の持ち主」
「え?」
「あのアパート、正樹さんが溜まり場に使っとるんよ。あの裸の奴のことはよう知らんけど、まぁ友達ではないやろな。パシリみたいなもんやろ」
「……」
平然と答えた川口にも鼻白んだが、それ以上に番号を交換したことを早くも後悔した。
(変わらねーじゃねーか。山田と)
殴って、自分より弱い奴を奴隷にして周りを固める。どうして川口は、山田は恨むくせにあの正樹とかいう奴のことは疑問に思わないのだろう。
しかしすぐに気が付いた。あぁ……兄貴がやられたか、そうじゃないかの違いか。
「正樹さんキレたら怖いけど普段は優しいき、よう後輩からも慕われよる。あの人とおったら顔広うなるき、お前も得やぞ」
「……そりゃどーも」
内心下らないと思いながら明後日の方を見た。
俺はそういう上下関係が嫌いだ。だから中学の時も先輩には媚びなかったし、また自分より後輩にもデカイ面はしなかった。それは高校に入っても変わらなかったのに。
こんなことなら家で寝てりゃ良かった。本当に。
それから夏休みの間、何度か正樹に電話で呼び出された。最初は何かにつけて断っていたが、正樹が川口に俺のことを何か言ったのだろう。頼むから正樹さんに逆らうなと川口から頼まれ、渋々呼び出しに応じたのは、夏休みも残すところあと二週間となった時だった。
午後七時。待ち合わせた駅に向かうと、正樹と川口と、この間の男がいた。裸の方ではない。正樹の太鼓持ちの方だ。
「おう、やっと来たか」
柄の悪い三人はすぐに見つけられた。川口がこっそり安心したような表情を見せる。
「てめー、なかなか顔見せんかったな」
正樹が笑いながら言った。が、隣の男――宮地は昭かに俺を睨み付けていた。
「すいません。親が厳しくて」
「何だそりゃ」
まぁいいや、と正樹は言い、宮地に車を回してくるようにと命令する。
宮地が乗ってきた五人乗りのワゴンに乗り込んだ。
レゲエをガンガン鳴らしながらワゴンは走り出す。今すぐにでも車から飛び降りたい気分だった。
宮地が乱暴にハンドルを切る。わざと蛇行運転をして俺たちをビビらせようとしているんだろうか。わけの解らない曲にノリながら狂ったふりをする。冷ややかに見ていた俺だが、正樹と川口は笑っていた。
「ほら」
正樹がハンドルを握る宮地にスミノフのビンを渡す。宮地はそれを受け取り、なんの躊躇もなく飲んだ。
「取り締まり厳しいっすよ」
「あ? 平気や。すぐ着く」
堅いこと言うなよ、と川口。その手には同じように缶ビールが握られている。
俺も回ってきたビールを飲んだ。
着いたところは、この町唯一のクラブハウス、『ジラフ』だった。インディーズバンドの全国ツアーが来たときや、諸々のイベントなんかで使われる。一年前にできたばかりの新しい箱だったが、実際に入るのは初めてだった。
入り口は地下にある。階段を下りる前に、ゴツい男が二人、やってきた人達のチケットを確認していた。
そういえば、今日はやたら若いやつらが多い。
「何かイベントっすか?」
俺が尋ねると、ドルガバのベストを着た正樹はニヤリと笑った。そんな洒落たもん、どこで買ってくるのだろう。この田舎にはブランドの直営店など、まずない。
「俺は顔パス」
そう言ってずんずんと入り口へ向かう。立っていた二人の男は正樹を見ると、会釈をしてすっと避けた。俺達も後ろに続く。
俺はというと、古着屋で買ったTシャツにジーンズという何の捻りもない格好だったが、ジャージで来なくて良かったと心底思った。それに、川口だって似たようなもんだ。
重低音が響きわたる中には、ぎゅうぎゅう詰めにされた若い男女が入り乱れて踊っていた。どいつもこいつもハイテンションで、片手には酒を持っていた。
ダンスフロアにある、時代遅れのお立ち台には、嘘みたいに露出度の高い服を着た女が、男の下半身に自分の腰をピタリとつけて揺れていた。
フラッシュのように照らされる暴力的な光と、人々から発せられる熱気に目眩がした。
バーカウンターで酒を受け取り、乾杯。
正樹は煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出しながら言った。
「今日は俺の妹のバースデーイベントで貸しきりや。このクラブは俺の親父が仕切っとる」
「正樹さんの?」
「あぁ。今日は奢りやけ、いくらでも飲めや」
誇らしげに正樹は言った。何者なんだ、こいつ。
正樹の言葉通り、色んな奴らが正樹のもとへやってきては挨拶をしていくのを俺は呆然と見ていた。
「正樹さんの親父、ヤクザの組長なんだよ」
川口がこそっと耳打ちした。
「マジかよ」
派手な女が酔っ払っているのか、正樹に抱き付いていた。それを何の躊躇もなく受け入れる正樹。ここでの奴はつまり、王様なのだろう。
金持ちで、イケメンで、権力者。モテないわけがない。
「正樹さん、チューッス!」
「おう」
「正樹さん、また飲みに連れてって下さいよぉ」
「やだよ、お前酔ったらめんどくせぇわ」
「正樹くーん、こっち来て!」
「はいはいー」
さっきとは違う女に呼ばれて正樹がバーを離れた。ボックス席に座る女共の中に入っていく。
川口はそれを見て、やけに声を上げた。
「やっぱ正樹さん、すげーわ。ここにいる奴ら、みんな正樹さんのツレやぞ」
「主役は妹だろ」
「アホ。こんなに人集めたんは正樹さんじゃ。妹はほら、あそこ」
川口がお立ち台を指す。露出度の高いエロい女が正樹の妹だった。
うんざりした気分でビールを飲んだ。
あちこちでテキーラが注がれ、皆それに合わせて手を叩いている。首からヘッドフォンをぶら下げたDJは益々音を上げて建物を揺らした。
「何て言うか、すげぇな」
夜の町がこんなことになっていた何て知らなかった。何より、ジジババが幅をきかすこの町に、こんなに若者がいたとは。
バーチェアに座ってそれらを眺めていると、一人の女がやってきて隣に座った。女はバーテンから酒を受け取ると、俺のほうを向いた。
「きみ、北中やった森澤アキラくんやろ」
にこりと笑った女は、上目遣いに俺を見る。オレンジのキャミソールに黒いショートパンツ。白い肌が暗闇のなかで異様にぼやけて見えた。谷間が……。
「どっかで会ったっけ?」
キツくウェーブのかかった女の髪を見ながら答えた。
「私のこと知らんの?」
「今日初めて来たんだ」
「そうじゃなくて」
女はちょっと不機嫌な顔になる。
「私たち、同じ高校。三年二組の安岡美奈。私、廊下できみと何回もすれ違ってるんやけどなぁ」
そう言って、今度は悪戯っぽく笑った。同じ高校の先輩だったのだ。
「きみ、三年の間でも有名なんよ」
「生意気だって?」
「それもあるけど……。ちょっと可愛いからね」
「ふーん」
「あれ、嬉しくないん?」
俺は無言で笑った。が、彼女は笑わなかった。俺の目をじっと覗き込み、やけに顔を近付けて言った。
「ねぇ、行こうよ」
彼女はダンスフロアを指差す。
酔った男女が入り乱れ、熱気はいつの間にか狂喜へと変わっていたようだ。
ふと、離れた場所にいる正樹と目が合った。奴は初めて見せる鋭い目で俺を睨んでいた。