序章
俺が彼女と別れた頃、朝美には初の彼氏ができたようだった。
放課後は彼氏と遊ぶようになり、何だか取り残されたような気持ちにもなったが、まぁそれも仕方ないかと、俺は自分と同じく部活にも入らずダラダラ毎日を過ごす奴らとつるむことが多くなった。
もうその頃は二年生になっていたし、野田や朝美とはクラスも離れてしまっていた。
やがて俺は、俗に言う悪い友達とも遊ぶようになり、授業や学校をサボることもしばしば。
学ランは第二ボタンまで外し、ズボンは腰で履くようになり、見よう見まねで煙草も吸い始めた。
髪を染めてピアスを空けた時には野田や朝美に心配もされたが、中身はというと特にこれといった変化はなく、悪い友達と遊ぶ傍ら朝美の家に遊びに行ったり、野田の野球の試合を応援しに行ったりしていた。
「そこのお前、コンビニでパン買って来い」
当時学校の不良を仕切っていた山田という三年に、廊下ですれ違った瞬間そう言われた。お互い顔は知っていたが、話すのはこれが初めてだった。
最初は俺に言ったのだと気が付かず、友達と馬鹿話を続けていると、いきなり後ろから肩を引っ張られそのまま思いっきり顔面を殴られた。
急に襲ってきた痛みについていけず軽くパニックになった俺に、山田は再度拳を振り下ろした。
今度はなんとか避けることができたが、それが気に食わなかったのか、ふらついた俺の膝を狙ってローキックを入れてきた。
一年生の教室の前だったので、人目はかなりあったがそんなことを気にする男ではなかったようだ。
近くにいた女子達が悲鳴をあげる。男子もいたが、山田を止める者はいない。その時俺と一緒にいた悪い友達でさえ、怯えきって固まっていたのだ。
「お前、二年のくせに調子乗んなや」
ジンジンと痛み始めた脚で壁に寄りかかると、山田の手が延びてきて俺の髪の毛を掴んだ。
そして顔を近付けてメンチを切ってくる。所々歯が抜けた山田の口からは、酷いシンナーの臭いがした。
「謝れや。シカトこいたろ」
重く窪んだ目が俺を見据えてくる。誰もがその場を動けず、またどういうわけか、これだけの騒ぎでも先生は一人も現れなかった。山田は完全に、教師達の触れてはいけない危険人物として名を馳せていたのだ。
「すいませんでした……」
口の中で折れた歯を転がしながら少しだけ頭を下げた。
山田は納得したのか、フンと鼻を鳴らす。
「じゃ、パンよろしく。ダッシュな」
くるりと背中を向ける山田。
と、同時に俺はすぐ近くの教室に入る。
休み時間で多くの生徒の視線を浴びながら、キョロキョロと見渡し見つけたのは、陶器で出来た花瓶。
迷わず手に取り廊下に出た。誰も何も言わなかった。これから俺がするであろうことを予想してか、必要以上に辺りは静まり返っていた。
そして、ギャラリーの期待を裏切ることなく、俺は山田を追いかけた。
「死ねやコラァ!」
振り向いた山田の顔面目掛けて花瓶を降りおろした。上がる血しぶき。鈍い感触と、鼻の骨の折れる音。再度聞こえる悲鳴。
山田が顔面を抱えてその場に膝をついた。返り血がピッと俺の顔についたが、興奮していた俺は、ここで殺らなきゃ仕返しされる、という強迫観念に押されて無抵抗の山田を何度も蹴った。本気で殺すつもりだった。
てめぇ、とか殺すぞ、と言う呻き声が聞こえたが、それでも蹴り続けた。
「何しよるがな、アキラ!」
野田の声がした。
興奮していたのがすっと冷めていくのが解った。大変なことをしてしまったと、そこで初めて気がついた。
殺される。
山田はこの界隈では高校生にまで恐れられるほど危険な奴だ。絶対にただじゃ済まない。
しかし、予想に反して山田はそれから姿を現さなかった。噂によると、町を出たようだ。
すげーじゃん、アキラ! と悪い仲間達は俺を称えたが、その誰もが怯えた目で俺を見ていた。
「あの時は本当に、こいつヤバイと思ったで」
安い居酒屋で、野田が熱燗を飲みながら笑った。
俺はビールを飲みながら目の前の旧友をじっと見つめた。
二人だけの同窓会。あまり変わっていないように思えるが、やはり昔とは温度が違う。
昼間は朝美の葬式だったというのに、悲しむ素振りは少しも見せない野田。分かっている。無理をしているのだ。
「山田のやつ、今刑務所やって聞いたで」
「なんで?」
「殺人未遂。薬のやりすぎでラリって人刺したがやと」
「はは。絵に書いたような転落人生だな」
笑いはしたが、俺も同じようなものだ。
熱燗ひとつ追加、と野田が店員に伝えた。お前も飲むかと言われたので、半分以上飲んでいたビールを一気に飲み干し、おかわりと告げた。
「朝美が、死ぬなんて」
ぽろ、と溢れた野田の言葉。確かにやりきれない悲しみを孕んでいる。
「お前、何か知っちゅうがやろ」
「なによ」
「朝美が自殺した理由」
「さぁ」
顔色ひとつ変えないで答えてやると、野田の太い眉毛がぴくりと動いた。
「熱燗と生でーす」
大学生くらいの女店員が底抜けに明るい声で俺達の前に酒を並べた。どうして居酒屋店員とは無駄に元気なのだろう。
ありがとう、と微笑むと彼女はうふ、と笑った。俺もまた笑い返した。
「お前は、昔からそうでな」
酔い始めているのか、目が虚ろだ。しかしその口調は見た目よりもしっかりしていた。
そういえば、こいつと酒を飲むのは初めてだ。酒弱かったのか、知らなかった。
「お前には壁がある」
「ないよ」
「あるね。いつまで経っても標準語やったし」
「それは、方言が嫌いだっただけ」
「それだけやない。誰に対しても一線置いちゅう。俺にも、朝美にも」
「親しき仲にも礼儀あり、だろ」
「そんな易しいもんじゃないわ」
「おまえは、俺の何が気に入らないの」
「違う」
そこで野田は熱燗を口につけた。俺もしぼんでいくビールの泡を見つめたが、どうしても飲む気にはなれなかった。
「何でそんな冷静でおれるがか分からん。死んだんやぞ、朝美」
「あぁ、悲しいよ」
言えば言うほど嘘臭く聞こえる俺の言葉。しかし、悲しいのは本当だ。嘘ではない。
「お前らに何があったが? なぁ、教えてくれや」
「そんなこと今更知ってどうする」
「どうもせん。ただ知りたい」
「知ったらお前は、俺を殺すよ」
野田の目付きが変わった。
「……朝美に何した」
今から話すことは、きっと聞いてるだけで胸糞悪くなる。
暗くて、陰気で、誰も救われない話だ。
野田が耐えられるとは思えない。だが知りたいと言ったのは本人だ。責任は取らない。
「……それでもいいなら、聞けばいい。聞いたあとお前がおれをどうするかはその時決めろ」
「……分かった」
時計の針は23時を回っている。
店員の威勢の良い声が響く騒がしい居酒屋で、長い昔話が始まった。