軋み
告別式の日は、朝から雨が降っていた。
申し訳程度の小雨だったが、傘をささずに歩くのには少しばかり抵抗がある。
コンビニでビニール傘を買って、あいつの実家へ向かうと、門の前で喪服を着た黒い集団が見えた。
「この度はお悔やみ申し上げます」
ハンカチを握り締めた見知らぬおばさんが、あいつの両親に向かって頭を下げていた。
喪服集団の間を通り、俺もあいつの両親に頭を下げる.
あいつの母親が、俺の顔を見て力なく笑った。来てくれたんやね、と。
お久しぶりです、と挨拶をしたが、二人の顔を直視することができなかった。
「こっちにはいつ戻ってきたが?」
ちらりと、おばさんの泣き腫れた重い瞼を見るといたたまれない気持ちになる。
「今朝です」
「そうかそうか、ありがとうねぇ。あの子もアキラくん来てくれて喜んじゅうよ」
「……」
そうだろうか、と思ったが何も答えず再度頭を下げた。
「忙しいとこごめんなぁ。ささ、上がって顔見ちゃってや」
「お邪魔します」
靴を脱いで玄関へ上がった瞬間、古い床が軋んだ。ギィ、というその懐かしい音を聞いた途端、古い記憶が脳裏を掠めたが、わざと気付かないふりをしてそのまま進んだ。
木造の家はあの頃のままだ。何も変わらず、壁の染みも、駆け回って傷付けた柱のキズもそのまま、大人になった自分だけがどこかこの家に似つかわしくないような気がした。この家に来ることはもう二度とないだろうと思っていたのに、こんな形で敷居を跨ぐとは。
出来るだけ何も考えず、どんな記憶も呼び起こさないよう注意しながら、参列者に軽くお辞儀をした。居間へ入ると、たいそう立派な供花に囲まれたあいつの写真。皮肉にも溢れんばかりの笑顔を放っていた。
そしてその下には棺桶が。
小窓を覗くと、白んだ顔のあいつが眠っていた。
「朝美……」
美しい顔を保ったまま死ねたのだから、それはそれで良かったのかもしれない。不謹慎にもそんなことを思ったが、やはり見なければ良かったという思いの方が色濃く出た。あぁ、吐きそうだ。
離れようとした時、後ろから肩をぽん、と叩かれる。
振り返ると、何年ぶりかに再会した元親友がいた。
「よう」
「おお……」
短い挨拶をそのままに、俺は早くここから離れたくて堪らなかった。が、野田は俺をこの場所に留まらせるが如くその大きな体で立ち尽くし行く手を阻む。
「久しぶりやな。まさかこんな形で再会するとは」
「あぁ……」
いいからどきやがれ、この野郎。
「何年ぶり? 高校卒業してからやき……」
「忘れた」
肩で野田の身体を押し退け、何とか朝美から離れた。
待てよ、と追いかけてくる野田の声。
狭い居間にうじゃうじゃと人が集まっていると、空気が格段に薄くなったように感じて苦しくなった。まさか朝美の奴、道連れにする気じゃないだろうな。
俺は一度居間から廊下へ出て、台所へ入った。しかしそこには朝美の親戚だと思われる中年女が数人ほど忙しく働いていて、立っているだけでも邪魔になるほどだった。
再び廊下へ出、何とか煙草を吸えるところを探す。しかし雨の中もう一度傘を差して外へ出る気にはなれず、結局野田のいる居間へ戻った。空気がジメジメして気持ちが悪い。
野田が再び俺に寄ってくる。
当時からおっさん臭い顔をしていた野田は、三十手前になった今でもあまり変わっていなかった。ただ少し髭が濃くなったくらいで、色黒の肌と太い眉毛もそのままだ。
「驚いたわ、朝美が死ぬなんて」
「……」
「なぁ、お前も元気やったか? 何で何も言わずに消えたがや」
「今はいいだろ、そんな話」
振りきるようにそう言うと、野田は怪訝そうな顔をしたが俺を責めるような事は言わなかった。
「ノッチや原達も来るって言よったけど、まだみたいやな」
「……そうか」
「なぁ、今夜暇か?」
「あぁ」
「じゃあ、飯でも食いに行こう。話を聞くのはその時にしちゃる」
「……」
「話してくれるがやろうな」
「分かったよ」
うんざりした気持ちで答えた。
野田はそこで初めて笑顔を見せた。
俺としては、思い出したくもない過去のこと。今さら聞いて何になるというのだろうか。
長いお経の最中、様々なことが頭を過って気がくるいそうになった。
朝美――。
俺と出会わなければ、普通よりも楽しい人生だった筈だ。あいつは、本来そういう種類の人間だった。
美しい顔と、美しい心で、優しい家族にも恵まれ、健やかに生きていける才能を持っていたのに。こんな風に死ぬような女じゃなかったのに。
残念だったな。
完璧だったお前の人生を跡形もなく壊してしまったのが俺だったとしても、今はそれしか、かける言葉が見つからない。