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凶星のハイカラ乙女 ~明治ハレー彗星奇譚~  作者: 立花鏡河
六章 妖狐は突然に

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第二十六話 希望の光

「――っ!」


 琴音はぎょっとして肩を跳ね上がらせた。

 栄八の目が、禍々(まがまが)しい光を放っているからだ。


「お嬢さま。貴女はふしだらな女なんですかい? 嘘をついて、こんな男といかがわしい行為を……」

「君! 何だね、その言い草は!」


 丹羽が開き直ったかのように詰め寄ると、栄八は琴音を引き寄せ、後ろに突き飛ばした。丹羽とは比較にならないほどの怪力に、琴音は廊下に倒れこむ。


「わめくな、下衆(げす)が」


 栄八は冷たく言い放ち、片手で丹羽の首を絞めた。

 丹羽の喉から、空気が漏れるような奇妙な音が響く。腕の痛みをこらえて顔を上げた琴音は、悪い夢を見ているような心地になった。


 沈みかけの太陽が照らしだしたのは、丹羽の苦悶の表情だ。いまにも目玉が飛び出しそうである。

 しかも……丹羽の体は完全に浮き上がっている。栄八は片手しか使っていないというのに。


「栄八さん! やめて!」


 琴音が叫ぶと、栄八は丹羽を放り投げた。手毬(てまり)でも投げたのか、というほど無造作に。

 丹羽の体は小部屋の窓を突き破り、落ちていった。

 どさり、という鈍い音は、琴音の耳まで届いた。


「さて、お次は、お嬢さまの番ですぜ」


 ふり返って、にやりとした栄八の表情は、悪鬼そのものだった。耳は尖り、大きく広がった口から鋭い牙が覗いている。しかも薄闇のなかで真っ赤な目が光っている。


 琴音は、か細い悲鳴を上げるのがやっとだった。逃げようにも、足は恐怖で石のようになって動かぬ。


「殺したりはせんから安心なさい」


 栄八は無理やり琴音を立たせた。


「せやけど、お仕置きをせなあかん。悪い虫がつかんように、顔に傷をつけさせてもらいますわ」


 その声は栄八のものではなかった。もっと若い男の声だ。どこかで聞いたことのあるような気もするが、記憶の糸をたぐり寄せる余裕は琴音にはない。

 そもそも雑音まじりのくぐもった声で、遠くから風に運ばれてきたような声だ。


「貴女はもっと純真無垢であるべきやった……」


 栄八がかざした左手の爪が、いきなり二寸(約六センチメートル)くらいまで伸びた。


「や、やめて……」


 視界が涙でにじむ。栄八の正体は恐ろしい化け物だったというのか。

 栄八の長い爪が、琴音の頬に当てられた。ひやりとする感触に、鳥肌が立つ。


「ぐがっ!」


 短い呻(うめ)き声を残して、栄八は琴音の視界から消えた。

 突き当たりの壁に叩きつけられ、床に転がった栄八を見て、真横に吹っ飛ばされたんだと気づく。


「え……」


 肩で息しているよし江を見て、琴音は絶句した。

 勢いよく駆けてきて、栄八を蹴り飛ばしたようだ。


 それよりもまず、廊下が明るくなっていることに琴音は気づいた。提灯(ちょうちん)なんて一つもないのに……?

 いや、よし江のまわりに、怪しげな火がいくつも浮かんでいるのだった。怪談話で聞く人魂のような怪火だ。


「き、貴様……よくも……」


 ゆっくり体を起こした栄八が、よし江を睨みつける。


(よし江さんの偽者が、わたしを助けてくれたの……?)


 琴音はただ、呆然と立ち尽くすしかない。


「この娘に手出しは許さん」

「なに!?」

「おまえからは、あやかしの気配を感じない。……式神だな?」


 よし江の偽者の発した声も、よし江のものではなくなっている。こちらも聞き覚えのある若い男の声だが、まだ耳に残っている声だ。


 栄八は「そういう貴様は……」と焦った声を出したが、何かに気づいたように目を見開いた。


「狐火……? まさか貴様、妖狐か……?」


 栄八に問われたよし江の偽者は、不敵な笑みを浮かべた。


「ご明察(めいさつ)だ。拝ませてやるよ」


 言うが早いか、みるみると、その姿を変えていく。


「あ、貴方は……菊地さま……?」


 もはや何が起きても驚きはすまい、と思っていたのに……。


(そうだわ。この声は、たしかにさっき別れたばかりの菊地さまのもの……)


 琴音の眼前で、友人のよし江から、執事の菊地へと姿を変えたのだった。

 身体から力が抜け落ちて、琴音は崩れるように床に座りこむ。


(栄八が式神で、菊地さまが妖狐……?)


 菊地は琴音に微笑みかけて、

「安心しろ。私が守ってやる」

 と言い切ったあと、また栄八に視線を戻した。


 あの懐かしい匂いが、ふたたび琴音の鼻腔に押し寄せる。

 菊地の姿に、ハレー彗星の軌跡が重なった。こんなときにも不吉な箒星は幻影を見せてくる。


(さきほどの白昼夢は、これの予知夢だったの?)


 だとすれば……菊地はハレー彗星が連れてきた救いの神なのかもしれない。

 恐怖と混乱で侵されていた琴音の胸に、かすかな希望の光が灯る。


 この人ならば、牢獄のような蛇ノ目村から連れ出してくれるかもしれぬ、と――。

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