静かな空間
しんとした玄関。
しんとした廊下。
午前の授業中、どの教室も先生の声が響くだけで、しんとしている。
ー死んでいる。
静かに上履きを履き替えながら、桜は異常な状態に緊張していた。
遅れてきたのは、学校に来たくなかったからで、このしんとした暗い雰囲気、閉ざされた雰囲気が苦手だった。
ー帰ろうかな。
今ならすぐに外へ出られるが、帰ると親がうるさいので悩む。
しかし教室に行くつもりはなかった。
仲が良いというより、何となくつるむ娘はいるけれど、互いに孤独にならないためのものだった。
脆い関係。影で私の悪口を言っているはず、と桜は信じていた。
ーどうしよう。
本気で迷い出し、お腹が痛くなる。
緊張すると、お腹が痛くなる体質だった。
しかしいつまでも玄関にいるわけにはいかないので、とりあえず保健室に行こうと決める。
それこそ足音が響かないように、忍者のように歩いて行く。
気配を消す自信があった。
家庭環境が複雑で、いつもオーラを消して過ごしているからだった。
「…あの」
保健室のドアを開けると、眼鏡をかけた女の先生がこちらを見る。
年は40代くらいだろうか。
母親と同じくらいだと目星をつけ、先生の反応を待つ。
すると彼女は普通に言ってくる。
「どうしたの?」
それだけで救われた気がした。
変な顔をしたり、冷たくあしらわれるかと思ったが、普通の態度がありがたかった。
「その、お腹が痛くて…」
これは本音なので、正直に言うと、先生が手招きしてくる。
「おいで。ベッドで寝る?」
「あー…っと、いいえ。起きているだけでいいです」
静かにドアを閉めると、桜は先生の側に行き、椅子に座る。
秋になり、涼しくなったせいか、窓は閉められている。
ここは玄関の近くにあり、尚且つ教室は2階にあるので、癒しの場所としては適切だった。
「薬、飲む?」
先生はあくまでも普通に話しかけてくれたので、桜は安堵して返す。
「い、いいえ。大人しくしていれば治ると思うので…」
そう言って、時間を見れば、3時間目が始まった頃だった。
ーよく皆、あんな静かな空間にいられるな。
皆、必死で先生が黒板に書いたものを追い、テキストに目を走らせる。
ロボットではないのに、全員、異常に思える。
笑顔もなく、ただひたすら先生の声だけが響く教室。
たまに生徒があてられて答えるが、そんなものは一瞬だった。
先生が絶対王者の空間。
生徒は皆、下僕というか、庶民というか、何だか怒られないように見えて、ぶるりと身体を震わす。
「寒い? 大丈夫?」
「だ、大丈夫です」
手を振って答えると、お腹を撫でる。
先程より、落ち着いていた。
先生はちらりと見たが、何も聞いてこなかった。
桜は不思議に思い、聞いてみる。
「せ、先生…!!」
「何? どうしたの?」
「あの…変だとは思わないんですか?」
「変? 何が?」
本気だそう思っているらしく、気にしているのは桜だけかと知る。
ー私は異常じゃないんだ。
そう思っただけ、桜は心が軽くなった。
保健室はすぐに居心地の良いものとなり、緊張が少しずつとけていく。
「先生、こんな時間に来て、変に思わないんですか?」
あえて質問をぶつけてみると、先生は目を瞬かせたが、すぐにふわりと綿あめのように笑う。
「色んな子がいるからね。事情もそれぞれだし。あなたもそうでしょう?」
「そ、それは…。はい、そうです」
認めると、桜はぎゅっと拳を膝の上で握りしめる。
家に帰りたいような、帰りたくないような、保健室にこのままいたいような、複雑な心境だった。
ーでも先生は敵じゃないみたい。
他の先生は目に出してきたりするのに、この先生だけは桜を受け入れてくれている。
それが安心に繋がり、ほっと息を吐き出す。
ベッドを見れば、3つのうち、2つが閉じている。
誰か休んでいるらしい。
邪魔になるだろうかと口を閉めるが、それはそれで緊張してくるし、暇なので先生に話しかける。
「先生、担任の先生に内緒にしてください。このまま家に帰るかもしれないので」
「分かったわ。大丈夫。皆、保健室には来られても、教室に入れない子がいるから」
「そうなんですか? …私と一緒だ」
異常だと気づいているのは、私だけじゃないと知り、勇気がわいてくる。
先生は尚も続ける。
「行くのも、帰るのも、あなた次第。私は何も命令しないわ。言って欲しくないでしょう?」
「は、はい…」
先生の優しさを感じ、桜は泣きそうになってくる。
いや、実際に泣き始める。
先生は「あら」と呟くと、ティッシュBOXを側に寄せる。
「大丈夫? 涙を拭いて」
「はい、ありがとうございます」
ティッシュを受け取ると、目を拭い、鼻をかむ。
学校の大人は信じられないが、この先生だけは信じていい気がした。
「先生、もう少しここにいていいですか?」
「いいわよ。ずっといてもいいし、嫌なら帰ってもいいし」
「はい、そうします」
はっきりした声が出、自分でもびっくりする。
いつもおどおどしているのだが、今はちゃんと返事ができた。
ー毎日、ここに通うなら悪くない。
桜はそう思うと、先生に聞いてみる。
「毎日、ここに来てもいいですか? その、時間はばらばらですけど」
「いいわよ。そう言う子が多いもの。誰も授業に出ろとは、強制的に言わないわ」
「…良かった」
ようやく桜は少しだけ表情を崩し、椅子に座り直す。
先生と2人の空間は穏やかで、緩やかな日光を浴びているような、そんな心地良さを感じる。
ー毎日、ここに来よう。そして先生とお話しよう。
そう決めると、桜は元気を取り戻し、足をぶらつかせるのだった。




