説明回だ! みんな注意しろ!
あれは天井嘗めである、と佐野征十郎は言った。
部屋の主である少女は妖怪について詳しいわけではなかったが、どこかで耳にしたことがある名前だとは思った。
「天井嘗めはその名の通り、人家に入り込んで天井に集った埃を舐める妖怪だ。見た目からは想像できないだろうが、付喪神の一種だ」
日下は未だに自分の身体に体温が戻っていないのを感じていた。その腕は無意識の内に自らを抱くような形になっている。
未だ先ほど経験したことに対して現実感が湧かなかった。
まだもう一人の先輩である堀田正義は戻って来ていない。むしろ彼は戻ってくることができるのだろうか。
こんな暗闇の中に、あんな化け物を追いかけるために出て行った少年のような大人のことを、日下は思った。
窓から見える景色は黒一色。昨日までは何の抵抗もなくかき分けて歩くことのできたその夜が、今は触れただけで食いちぎられてしまいそうな巨大な化け物に見えた。
「堀田のことなら心配ない。奴はよくああしていなくなるからな」
日下が不安げな顔をしているのを察したのか、佐野は毒にも薬にもならないような言葉を吐いた。
その声色の中に日下を元気づけるという意図は感じられなかった。生徒に淡々と事実を伝えるだけの、ユーモアに欠けた教師の様な口調だ。
日下は返事をしなかった。
「あの手の存在を見たのは初めてと言っていたか。恐ろしいのもわかる。これまで積み上げてきた世界を根底から覆されたようなものだからな」
ただ、と男は言った。
「恐ろしくとも知っておかねばならない。貴君が今後もああいう連中に出遭う可能性は少なからずあるのだから」
佐野の声は穏やかなものであったが、日下の身体は怒鳴られたかのようにビクリと震えた。
懇願するような視線を男に向ける。佐野が今までのことは全部嘘だと言ってくれるのを期待しているのかもしれない。
「あれが、あんなものが、他にも存在するんですか?」
日下の問いに佐野はすぐに答えようとはしなかった。
ふむ、と声をあげ、わずかに剃り残しの見える顎を撫でさすり始める。どうやら佐野にとって、かなり答えにくい問いだったようだ。
「いるといえばいますし、いないといえばいません」
佐野がいつまでも答えないことに業を煮やしたのか、空子が横から口を出した。
その頬には既に赤みが戻っており、口元にも例のほわほわとした笑みが浮かんでいる。
少し前に見せた氷柱のような冷たさは、今の彼女からは想像もできない。
佐野が申し訳なさそうに弁解するのを手で制すると、少女は滔々と語り始めた。
「言うなれば思い込みなのです。今回この部屋に天井嘗めが現れたのは、他でもないあなたがそう思い込んだから」
少女の話は日下を納得させるには到底至らなかった。あれが自分の思い込みだと言うのなら、この部屋にいた全員が見えていたのは何故か。
そもそも日下は天井嘗めという妖怪について、名前くらいは聞いたことがある、程度の知識しか持ち合わせていない。そんなものの幻覚が見えることなどあり得るのか。
そういった旨のことを、少女に聞いた。
「幻覚、というと少し語弊がありますね。魂魄という言葉があります。魂は精神、魄は肉体を意味しており、人間は魂よりも魄の割合が多い。人間から肉体を奪えば、そこには何もないも同じ。これは人間の魄への依存度が大きいためなのです」
空子は人差し指を立てて、講義をしているような口調で話した。
少女の話が理解できないわけではないものの、日下は不満顔だ。答えになっていない、と目で訴えてみせる。
そんな彼女の様子に空子は少し含みを持たせた笑みを見せ、人差し指を左右に振ってみせた。
話はまだ、これからだ、とでも言いたげな様子だ。
「妖怪の場合は、人間の逆。つまり魂がその存在の多くを構成しています。しかし妖怪それ自体は精神を持ち合わせておりません。では、妖怪の魂とは何だと思いますか?」
日下は腕を組んだ。彼女が考え事をするときの癖だ。
腕を組むという行為には拒絶の意味合いがあるため、考え事のような集中力を必要とするときには理にかなった格好であるのかもしれない。
妖怪の魂とは何か。
まず人間の魂とは精神である。妖怪はそれを持ち合わせていない。そして今回この部屋に妖怪が現れたのは日下の思い込みのせいである。
これらの話を統合すると、自と答えは見えてくる。
「人間の、精神ですか」
おや、と空子は整った両眉を動かした。どうやら日下が答えられるとは思っていなかったらしい。特徴的なつり目が悪戯っぽく輝いている。
「正解です。よくわかりましたね」
「考えるのは得意ですから」
日下はえへんと薄い胸を張った。彼女の現在の服装は薄手のワンピースであるので、女性としては強調されて然るべきものがあるのだろうが、その点彼女は実に謙虚である。
「妖怪は人間の精神、主に恐怖のような負の感情を魂とします。そのためあれらは負の感情に引き寄せられるのです。今回は日下さんの新生活に対する不安を目当てに寄って来たといったところでしょうか。故にあなたの思いがなければ、天井嘗めなどいないも同じというわけです」
空子の説明に日下はうんうんと相槌をうった。一応は理解できたらしい。
しかし彼女の頭には一つの疑問が浮かんでいる。妖怪が人間の精神活動で出現するのなら、巷にはもっとそういった存在がありふれているのではないかというものだ。
感情を露わにすることは、なんら特別なことではない。生きている人間ならば存在して当然のものだ。
日下もこれまで泣いたり怖がったり、嘆いたり怒ったりしたことはあるが、さっきのような化け物を見たのは今回が初めてだ。
この疑問について、今まではきはきと話していた空子が初めて言葉を濁した。
「あー、やっぱそれ聞きますか。まぁ当然気になりますよね。そのことは私も気になっていたのです」
「空子さんも、ですか?」
「正直わからないというのが現状です。今回だけでなく、最近のこの街はおかしい。怪異の出現率が異常なのです。我が部はそれなりの数の部員を抱えているのは御存じですね? あれ、部長と副部長を除くと全員怪異の相談で入部した人達です」
聞いた話では部員の数は五十名程度。つまり、この街だけで五十件近くの怪異がらみの事件が起こっている計算になる。
「本来怪異と人間が出遭うには様々な条件が必要です。普通に暮らしていて怪異と出遭うことなどまずありません。それだけにこの出現回数はあり得ないと言ってよいでしょう。誰かが仲介していない限りは」
「親玉がいるということですか?」
「あくまで推論ですが、おそらく」
妖怪の親玉がいて、子分をけしかけて人間を襲っている。
現実味の欠片もない与太話だが、実際経験してしまった日下としては笑えない。何者かに覗き見られているかもしれないという普段は考えもしないような不安に駆られ、思わずベランダに続く大きな窓の方を見る。
果たしてそこには、部屋の中を覗き見る者がいた。