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天井を嘗める変態とその変態を舐める変態

今宵もまた、あの部屋へ。

 一個の異形が月夜を跳ねる。

 明らかに日常から逸脱したそれは、幾人かの深夜を行く不届き者の視界に入ったものの、誰一人としてそれを気に留めるものはいなかった。

 正確には、気に留めることができなかった。

 出遭っていないものには知覚すらできない存在。

 彼が境界の向こう側の住人であることの証左であった。

 その長さゆえに口に収まりきらない舌で、自身の顔ごと唇を嘗める。木にできたこぶのような鼻をひくりと動かし、夜の空気を鼻孔一杯に吸い込む。

 怪異は笑う。自らが真性の夜の住人であることを誇るかのように。

 迫りくる曲がり角を左へ、曲がった先の行き止まりをすり抜け、既に明かりの消えた平屋の軒先を駆け抜け、狭い路地へと到達する。

 後はこの薄暗い小道を抜ければ、再びあの建物へとたどり着く。

 異形は全身をたわませると、不意に全力疾走を始めた。音量を増した風が彼の耳元で歓喜の歌を歌う。


 彼が降り立ったのは一戸のアパートメントだった。外観は薄い黄色で統一されており、塗装が劣化していないことから、年季のいった建物ではないことが伺える。

 玄関にはいくつかの数字と記号がちりばめられたパネルが設置されていた。

 正しい数字を知る者以外は、何人たりともその奥へと入ることは許されないのだろう。

 彼はそのパネルをつまらなさそうに一瞥した。所詮人でない彼の前では無意味な代物なのだ。パネルに触れることすらせず、異形の体は閉ざされた自動ドアへと溶け込んでいった。


 玄関を抜け、階段を上らず真っ直ぐに、一番目の扉には目もくれず、二番目の扉の前で跳躍し、三番目の扉の前に着地する。そこで異形の足は止まった。

 目的の部屋を眼前にして、異形の気分は高揚していた。そもそも怪異として顕現できたこと自体が久々なのだ。その上にこの部屋には自分の求める物が十分にあるし、住人である少女の反応も可愛らしいものであった。自分の足元で震えながら、眠ったふりを続ける少女。久しく得ることのできなかった恐怖心。思い出すだけでも唾液が溢れる。

 異形はおもむろに部屋の内へと足を踏み入れた。部屋の明かりはついておらず、ダンボール特有の臭いが彼の鼻孔をかすかにくすぐる。少女の眠る部屋は、何故かダンボールで満たされていたことを思い出した。

 彼の心境は歪ではあるが、好きあった少女の家を初めて訪れる少年のそれに似ていた。

 それ故に。


「はい、確保ー」

「あいさー」


 見知らぬ男二人に組み敷かれているこの状況は、彼にとって甚だ遺憾であった。


「ちきしょう! 美人局か!」

「畜生は貴君だ。こら、暴れるな。怪我をするぞ、私が」

「美人局ってなんですか?」

「住吉三神のことですよ」

「やはり素晴らしい、天井嘗めといったらこの長い舌だよね。このヌルヌル感、ひんやりとした手触り、ところてんか? ところてんなのか? 君、うちに来ない? お金は出せないけど、愛でるよ。それはもう愛でるよ。春夏秋冬問わずに愛でるよ」

「ぎゃあああ、なんか変なのいるぅぅう。よせ、舌は触るな。本当にやめて、やん」

「埒があかぬ! 空子、明かりをつけろ。堀田は死ね」

「少々お待ちを」 

 

 パチリという音とともに、蛍光灯の明かりが暗闇を押しのけて部屋の光景を明らかにした。

 白日のもとに晒された光景を、日下は信じることができなかった。

 確かに、いるとは聞いていた。そして昨晩自分が体験したことも現実のはずだ。

 しかし、内心あれは悪い夢だったのではないか、これはここにいる三人が仕組んだ、たちの悪いいたずらではなのではないか、などと考えていたことも事実だ。

 日下の目に映る光景は、そんな考えを塵ほども残さずに吹き飛ばしてしまうほどに、鮮烈で、衝撃的で、狂っていた。

 黄褐色の肌をもつその生き物は、骨と皮しかないかのようなか細い手足を有しており、腹だけが子でも宿しているかのように膨れているために、異様なアンバランスさを醸し出している。

 前方に突き出た顎の隙間から生え、線虫のように中空を泳ぐ舌は、人のそれとは違う、グロテスクなまでの赤色だった。

 黄褐色の体を取り押さえる人間や、その舌を抱き枕にして頬ずりする人間の存在もあいまって、眼前の状況はどこまでも現実からかけ離れた、趣味の悪いコラージュ画像の様だ。

 目の前で、リアルタイムで起こっている出来事でなければ、誰もが笑い話にもならない戯言として扱うことだろう。

 しかし、これは現実だ。笑い話にもならなければ、感動秘話にすらならない、現実なのだ。

 そして、そんな光景を前にして常人が抱く感情は、喜でなく、怒でなく、哀でもなく、楽でもない。


「ひっ」


 恐。恐怖心。理解の及ばない、訳のわからない物に対する、原初の感情。

 背筋は凍りつき、全身が小刻みに震え、身体が中枢からの命令を聞かなくなる。そんな、感情。


 日下の漏らした声とすら呼べないそれは、本当にわずかなものだった。すぐ隣にいる浴衣の少女にすら聞こえない、ましてや離れた位置にいる異形には聞こえるはずもない。

 だが、日下が声を発した瞬間に、怪異はピタリと動きを止めた。今まで散々抵抗していたにも関わらず、まるで電池が切れたかのように。

 そしてその停止もつかの間だった。

 不意に顔を持ちあげたかと思うと、笑ったのだ。黄色く濁った眼を三日月のように細めて、ぞろりと並んだ歯を見せつけるような、醜悪な笑みを以て。


「お嬢さん、今、恐ろしいと思ったな」


 唐突に、無造作に、長い舌を振るう。堀田が玄関から廊下と部屋を遮る扉まで吹き飛ばされた。

 次いで佐野の巨体が宙を舞い、堀田に折り重なるようにして叩きつけられる。

 異形は悠々と立ち上がると、得意げに天井を一嘗した。


「形勢、逆転、と言いたいところだが、お姉さん、そんな怖い目で見ないでよ。ちびっちまいそうだ」


 お姉さんが誰を指すのか、日下にはしばらく理解できなかった。この中で最もお姉さん然としているのは日下であるが、彼女にあれを睨みつける度胸はない。

 消去法的に、日下は隣に少し視線を向け、すぐに戻した。

 間違いない、お姉さんはこの人です。

 浴衣の少女には先ほどまでのあどけない雰囲気はもはや欠片も残っていない。頬の赤みが消え、常に浮かべていた笑みが脱落した少女の顔には、およそ感情というものが見受けられなかった。

 精巧な日本人形のようなその表情のうち、黒目の中心にわずかに見える、濁った黄色がどこまでも真っ直ぐに異形を捉えている。


「怖い、恐い。分が悪そうなのでとんずらしますよ」


 それは当然のように玄関の扉をすり抜けた。もはや日下は驚きの言葉すらあげられない。

 阿呆のように口を開けて、立ち尽くすだけだ。

 

「不味い、逃げられた。佐野、どっちだ!」

「追うつもりか?意味があるとは思えんが」

「いいから早く!」

「ここから大体東南東だ」

「でかした! 今行くよベイビー!」


 ただ、日下が機能停止している間にも事態は動く。

 いつの間にか復帰した役立たずコンビの片割れが部屋を飛び出し、もう片方は夫婦でいちゃつき始める。


「空子、貴君キレすぎだろう」

「征十郎様に危害を加えるものには容赦しません。皆塵です」

「そうかそうか、愛い奴め。うりうり」

「はふぅ」



 傍から聞いていると、砂糖を吐きだしたくなるような会話を横目に、日下は一つの懸念を抱いていた。

 ここは本当に自分の部屋なのか、と。

 願わくば、この混沌極まる状況が悪夢であることを、明日になれば目覚める夢であることを祈る。


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