世界は愛と友情によって構成されている
とある大学の校門前に、一人の女性が立ち尽くしていた。
校舎は既に黒色のヴェールをまとっており、月明かりと時折通る車のライトだけが、わずかにその輪郭を浮き立たせていた。
女性は手持無沙汰気に携帯電話を弄っているようだ。
液晶の光が女性の顔を照らしだし、背景の黒とは対照的な白い肌を際立たせている。
不意に辺りに足音が響く。女性は携帯の液晶画面から視線をはずして、物音のした方向へと目を向けた。
闇の中から大小の三つの影が姿を現す。女性は安堵の表情を浮かべると、携帯を閉じて人影へ声をかけた。
「遅いです、二時間も待ちましたよ」
「すまん、しかし約束の時刻は十時ではなかったか?」
長身の男が首をかしげつつ、腕時計を覗き込む。どうやら時針に蛍光塗料が塗られてあるらしく、夜間でも見える仕様のようだ。
時計の針は確かに十の数字を指している。
「あんな家にいつまでもいられるか、私は外で待たせてもらうぞ」
「縁起でもないフラグを立てるな」
「あれ?」
日下はふいに首をひょいとそらし、佐野の脇に控える少女を見る。日下の記憶では、昼間部室では見なかった人物だ。
身長は堀田より少し低いくらい、くせのない黒髪を肩まで伸ばしている。
少女はきりりとしたつり目をしており、気の強い印象を他者に与えそうだが、赤みを帯びた頬とふわりと笑んだ口元がその印象を中和させ、全体として人好きのする顔立ちを成していた。
しかし、と日下は少女の顔から少し目線を横に移す。
なぜこの少女は側頭部に狐の面を着けているのだろうか。
よく見ると服装もおかしい。薄紫色の布地に彼岸花の模様がはいった浴衣を纏っており、足には赤い鼻緒の黒い浴衣下駄を履いている。
今が春でさえなければ、祭りからの帰りだと言われれば納得してしまいそうな服装だ。
日下に無言で見つめられていることが気恥ずかしくなったのか、少女は日下の方へ一歩進みでると、四十五度のお辞儀をした。
「初めまして、佐野空子と申します、どうぞお見知りおき下さい」
「へあっ、く、日下波奈ですっ。こちらこそ、おしりみてください?」
「君は何を言っているんだ」
少女のあどけない見た目からは予想できない丁寧な挨拶に動揺して、意図せず下ネタを口走ってしまう日下。
堀田は辟易したようにため息をつくが、空子は口元を手の平で隠してクスクスとあどけない笑い声を漏らしている。
「あの、佐野ってことは、佐野先輩の妹さんなのですか?」
場の空気を取り繕おうと、日下は無難な質問を投げかける。意図せぬ下ネタは、概して言ってしまった本人が一番恥ずかしいのだ。
「いいえ、妻です」
だが、帰ってきた返答は核弾頭だった。日下の脳内にキノコの形をした雲がもわもわと噴出する。
「Lolita-Complex……。」
「おい、今すごくいい発音で不穏なことを呟かなかったか?」
「少し精神疾患について勉強しようと思いまして」
「ならば何故、私に向かって半身の構えをとっているのだ」
「少し護身術について勉強しようと思いまして」
五指を折り、日下はおもむろに空中に掌底を繰り出す。もう二歩踏み込んでいれば、佐野のみぞおちを貫いていたことだろう。すんでのところで静止した一撃に、佐野は生唾を飲み込む。
「待て、貴君は何か勘違いをしている。話し合おうではないか」
「聞いたかい、空子さん。佐野は十五歳以下にしか興味がないそうだよ」
「まさか征十郎様にロリコンの気があったとは。離婚届けを手に入れるにはどうすればよいのでしょう?」
「煽るな貴様ら!」
煽る外野に、吠える佐野。踊らされる阿呆である日下は、さらなる疑念を込めた眼差しを佐野に向けるが、元々たれ目気味であるせいか、その顔は眠そうな狸にしか見えない。
日下がじりりとにじり寄り、佐野はそのぶん距離をとる。夜闇にまぎれた馬鹿踊りは終わりがないように思われたが、いい加減に飽きたのか、空子の出した助け舟によってひとまずの決着を迎えた。
「日下様、落ち着いてください。私は合法です。一応あなたよりも年上ですので」
日下の疑わしげな視線が、今度は空子に向けられた。空子の外見は、どうひいき目に見ても中学生程度だ。日下が疑念を抱くのも無理はない。
「それに、あまり私の愛する旦那様をいじめないで下さいな」
しかし、日下の疑念は空子の浮かべた華の咲くような笑顔によって吹き飛ばされた。まさに恋する乙女を体現するようなその表情は、ストレートな言葉とあいまって、まだ肌寒い春の夜を真夏の熱帯夜へと変貌させた。
日下はうなだれるようにして構えを解いた。日下もまた乙女である。それ故に恋する乙女の前では、いかなる障壁も無意味であることを知っているのだ。
堀田は地面に唾を吐き続けている。
「佐野先輩……」
「日下、わかってくれたのか」
日下が佐野にそっと手を差し出した。その様はまるでお互いの健闘をたたえ合う好敵手どうしのようだ。佐野も日下の意図を感じ取ったのだろう、爽やかな笑みを浮かべると、力強く日下の手を握った。
「空子さんを泣かせたら、前歯を折ります」
「手を離せ! 内容が怖すぎて約束できん!」
「クーリング・オフはできませんよ。約束してもらうまで、この手は離しません」
佐野は手を振りほどこうとするが、日下の指は佐野の手の平にカミツキガメのごとく喰らいついている。再び始まった小競り合いが収束するまでには、少し時間を要した。
「仲が良いのは結構だけど、僕達はここに遊びに来たわけではないんだよ」
互いに肩で息をついている二人を見て、堀田はいさめるような口調で言うが、その口元には邪悪な笑みが浮かんでいる。空々しい言葉とはこういうことを言うのだろう。
「そう思うなら止めるべきだったな。内心楽しんでいただろう、座敷わらしめ」
「褒め言葉だね。なんなら君を幸せにしてあげようか、親友特権だ」
「遠慮しておく、百歩譲っても貴君が運んでくるのは不幸と悪意だ」
佐野が本気で嫌そうな顔をしたのが効いたらしく、堀田は顔をうつむかせて落ち込んでしまった。しかし佐野は決して声をかけようとしない。あのうつむかせた顔には、ニヤニヤとした笑みが張り付いていることを知っているからだ。相手にするだけ無駄というものである。
「日下、そろそろ貴君の家に案内してくれ。ここにいても時間の無駄だ」
「……わかりました」
先ほどまで騒いでいた日下の表情が不意に硬くなった。これから昨晩の恐怖を再び味わおうというのだ、不安になるのも無理はない。日下の心中を察したのか、空子は彼女の肩にそっと手を置くと、あやすように声をかける。
「日下様、大丈夫です。今晩は我々がついておりますから、なにも心配はありませんよ。必ず、解決してさしあげます」
空子の声は日下の鼓膜を撫でるようにして揺らす。天野からも言われたその言葉は、日下の表情をいくらか和らげた一方で、彼女の罪悪感を再び呼び起こした。
気持ちを割りきれないままに、彼女は我が家への道中を歩みだす。
夜はまだ始まったばかりだ。