トルコアイスっていつの間にかなくなったよね
三号館を抜け、二号館への渡り廊下を東に逸れたところに、そのプレハブ小屋はあった。
黙り込んでいた堀田と名乗る男は、小屋の前で立ち止まるとようやくその口を開いた。
「ここが、我が部の部室だよ」
小屋の屋根は平面で、白色の壁には申し訳程度に小さな窓がいくつか付いているが、校舎と校舎の間に挟まれているため、あまり日当たりが良いとはいえないようだ。
部室の扉は引き戸になっていた。扉には小さな南京錠がついていたが、かなり錆びついているようで防犯性能には甚だ疑問を残す。
南京錠は今、開いている。どうやら中に他の部員がいるようだ。
「佐野、新しい部員を連れて来たよ」
堀田が聞き捨てならない台詞を吐きながら、部室の扉を開く。怪奇現象の相談をしに来たはずが、いつの間にか入部希望者になっていた。日下は内心憤慨したが、堀田が可愛いので許すことにした。
部室の中の設備はなかなか充実しているようだった。
部屋は十畳ほどで、床は固い絨毯のようになっており、ざっと見ただけでもクリーム色の大きなソファーやホワイボード、折りたためるタイプの机やパイプ椅子といった備品が確認できた。
日下が歴史民俗学研究部におけるソファーの必要性について考えていると、当のソファーから気だるそうに人影が起き上がった。
どうやら今まで眠っていたらしく、大きなあくびをしながら、瞼をこすっている。
「ふぁあ、おはよう諸君。新入部員とは、スーツの彼女のことかな、名は何という」
「おはようございます、日下波奈です。でも新入部員ではありませんよ」
「波奈か、実に良い名だ。名前とは単純明快なものが一番良い。奈という字は一目で女性の名であると分かるし、名前全体で見ても、日の下の花とは洒落が効いている。貴君の両親は、随分と頭をうねらせて名を考えたのだろうな」
男は最も重要な部分を聞き流して、日下の名前の考察を始める。
どうやらあまり人の話を聞かない人物らしい。日下は助け舟を求めるようにして、堀田に視線を向ける。
堀田は日下の視線に気づいたが、先ほどの仕返しのつもりらしく、わざとらしく視線を逸らしてニヤニヤと笑っている。
堀田が視線を逸らしたことにより日下の瞳に映るのは、少年の如く柔らかそうな堀田の頬。
例え相手が成人だろうと、ここまで見事な頬っぺたを目の前に差し出されて引っ張ろうとしないのは、淑女の名折れである。
そう頭の中で勝手に結論を下した日下は、無言実行とばかりに右手を伸ばす。
指先が、目標を捕らえる。
そのときのことを日下は語る。私は神の存在を確信した、と。
感触はマシュマロのごとく、温度は湯たんぽのごとく、伸びることトルコアイスのごとし。
まさしく神の所業としか思えないコラボレーションが、そこにはあった。
日下が夢中になってむにむにと神の傑作を弄っていると、その手を掴むものがあった。
無論、それは神器の持ち主だった。
「君は入部しに来たのか、僕の頬を弄りに来たのか、どっちなんだい?」
「多分、どちらでもなかったと思います」
「何だ、入部希望者ではないのか。さては堀田、貴君またろくに説明もせずに連れてきたのだな」
ソファーに座りこんでいた人物が、ようやく立ち上がる。
その姿を見て、日下は幼いころに初めて動物園でキリンを見たときの感覚を思い出した。
座っているときはわからなかったが、とてつもなく、大きい。
この人物を前にすれば、女性としては高身長を誇る天野ですら、平均的な身長に見えることだろう。
「日下波奈だったな。面倒だから日下と呼ぶぞ。私は佐野征十郎、この部の副部長をやらされている。よろしく頼む」
佐野征十郎。なんだか厳めしい響きの名である。身長差のために、この男の声は上方から降るようにして聞こえる。しかし、その声はどこか気だるそうで、威圧感を感じさせるようなものではなかった。
「そういえば説明していなかったかな、また忘れちゃってたよ」
「白々しい。入部でも、貴君の頬を弄りに来たのでもないのなら、相談なのだろう。早く説明してやれ、部長殿」
「わかったよ、下っ端。えっとね、日下さん、まず我が部は確かに怪奇現象の相談を受け付けているんだけど、相談をするには、入部してもらう必要があるんだ」
「えっ」
まさかの新情報を中学生が口にする。どこかで聞いたような詐欺の手口に似たその手法は、日下を大いに混乱させた。
話は聞いてもらいたいけれど、果たしてここで入る部活を決めてしまっていいものか。
部活の選択は、謂わば大学生活における登竜門。
この小さなプレハブ小屋が、日下の望む輝かしいキャンパスライフに繋がっているとは、到底思えなかった。
「そんなに難しく考えることはないよ。この部に入ったところで、君の大学生活に支障はない」
日下が眉根に皺を寄せているのを見かねたのか、堀田は取り繕うようにしてそう言った。
日下の眉根がますますよじれる。
「どういうことですか?」
「入部しても、ここに来る必要はないということだよ。現にこの部は部員を五十名ほど抱えているけど、来ている奴なんて僕とここにいる佐野くらいのものだ。もちろん兼部もできる」
「来なくても、よいのですか?」
余計に訳がわからない。来なくてよいのなら、そもそも入部させる必要がないのではないか。日下の眉根はよじれによじれ、もはやある種の芸術を形成していた。
これ以上ねじれては、日下の眉根が千切れてしまうかもしれない。そう判断した堀田は、種明かしをすることにした。
「僕達が部員を集めているのは、部費のためだよ。この学校では、月に一度、部員一人につき千円の部費が与えられるんだ。だから仮に入部したとしても、月に一度の所属確認の書類にサインしてくれさえすれば、後はご自由に、ということさ」
「一回ヤったら後はポイ、ってことですね」
「君は何を言っているんだ」
日下は堀田の説明に自分なりに納得したらしく、腕組みをして大きく頷いている。
堀田は日下に冷めた目線を向けるが、日下は少し頬を赤らめただけだった。
「さて、納得していただいたところで、さっそく相談を聞こうか」
「何故頬を赤らめた?ねぇ、何で?」
「堀田先輩うるさいです。話が進まないではないですか」
「そうだぞ、堀田。ガムをやるから噛んでいろ」
「僕がおかしいのか?ガムはもらうけど」
「よし、子供の口が塞がったところで、話を聞かせてくれ」
「はい、あれは昨日のことでした」
堀田がガムを噛む音が響く中、日下は昨日の出来事を二人に話して聞かせた。最初は二人とも真剣に聞いていたようだが、話が進むにつれ、何故か興味を失ったような表情になってきた。
日下の話が終わると、佐野はさもつまらん、とでも言うように鼻で息をつき、堀田はガムを包み紙に吐きだし、丁寧に包んで捨てた。
「欠片も緊急性がないな」
「正直放っておいてもいいレベルだね」
二人して散々な言い様である。堀田に至っては、散々日下を脅して部室に連れてきた癖に、今はソファーにねそべってだらけている始末だ。
しかし、何にせよ放っておかれては困る。もし毎夜あれが出るのなら、日下は間違いなく睡眠不足になる。そうなればお肌がぼろ雑巾のようになるのは必至だ。
「助けてくれないのですか?」
「いや、もちろんどうにかするよ。入部してさえくれればね」
「ただ一応、相手を完全に特定しておきたい。先の話で大体正体を絞れたが、一応聞いておきたいことがある。貴君、風呂で寝たり、枕元に油を置いて寝たりする習慣はないな?」
佐野の質問があまりに奇妙であったため、日下はその言葉を額面通りに受け取ってよいのか迷った。風呂で寝る?枕元に油?何かの暗喩だろうか。
「率直に答えるなら、そんな趣味はありません」
「うむ、それならよいのだ。貴君に憑いた怪異、我らが解決して見せよう」
佐野は大げさに頷くと、部室の隅にある本棚で調べ物を始めたようだった。
手持無沙汰になった日下に、堀田が声をかける。
「とりあえず、十時くらいに大学の正門前で会おう。家には帰って大丈夫だよ。あれは深夜、人が寝静まった頃にしか出ないからね」
出ないと言われても、やはりあの部屋に一人で帰るのは気が進まない。しかし、今の時刻は午後三時。集合時刻まではまだかなり時間がある。
他に行く当てもない日下は、しぶしぶ帰路につくしかないのだった。
日下の去った部室で、二人の男の会話が聞こえる。
「佐野、一応空子さんを呼んでおいてよ。日下さんなら平気かもしれないけど、やはり年頃の女子の部屋に、男二人だけで押し掛けるのは気が引ける」
「貴君は人間に対しては律儀なのだな。その節度を妖怪たちにも持ってやると良い」
「僕の愛に限度なんてないのさ。調節用のバルブはとうの昔に吹っ飛んだよ」
「そんなことだから空子に嫌われるのだ。毎度愚痴を聞かされる私の身にもなれ」
「そうか、空子さんは、家で僕の話ばかりしているのか」
「ポジティブすぎる。時には後ろを振り向くことも大切だぞ」
「後ろだけなんてケチくさいことは言わないさ。僕は三十二方、全方位の妖怪を愛して見せる」
「そうか、ならばもう何も言わん」
押し問答に飽きた佐野が、大きくあくびをする。
壁に掛けられた円形の時計の針は、着実に約束の時間へと近づいていた。