サークルは迅速かつ慎重に選ぶべき
日下波奈は圧倒されていた。熱気すら感じられるほどの周りの雰囲気に。
入学式開始三十分前、そこには理想のキャンパスライフを目指す若者たちがひしめきあい、互いに品定めをするようにして言葉を交わしていた。
辺りは会話をする相手を探すギラギラとした視線が飛び交っており、さながら戦場の様相を呈している。
恐らく、ここでつまらないと判断されれば、二度とその相手と会話をすることはないのだろう。なんて恐ろしい、どうやら理想のキャンパスライフへの道は険しいようだ。
そんな大げさなことを考え、日下は身震いする。
彼女は今、自分でも驚くほどに緊張していた。
「ねぇ、あなた体調でも悪いの?なんだか小刻みに震えているようだけど」
ついに、声をかけられてしまった。日下は平静を装いつつ、相手の顔を見る。
声をかけてきたのは、赤みがかった髪を肩まで伸ばした女性だった。
身長は日下よりも頭一つ分大きい。美人と呼ぶのに差し支えない顔をしており、芯の強そうな瞳からは自分に自信を持っていることが伺える。
日下は何度か、どのような言葉を返すかを頭の中でシミュレーションし、ついに声帯を震わせて言葉を放つ。
「だ、大丈夫でふっ!」
噛んだ。
日下は自身が赤面するのを感じた。相手の反応が予想できていたたまれなくなり、思わずうつむいてしまう。
「あははっ」
相手の女性は少しの間あっけにとられていたようだが、日下のあまりの動転ぶりに笑いを堪え切れなくなってしまったようだ。
女性にからかうつもりはないのだろうが、羞恥を煽られた日下の顔はますます赤くなり、熟れすぎたトマトのような顔色になっていた。
「あなた、面白いね。私は天野咲子、よろしくね」
天野はまだ笑い足りないのか、口元を微妙に震わせながら、日下に白い手を差し出す。
日下は初め、彼女が何を意図しているのか理解できなかったが、彼女が促すようにして手を揺らすのでようやく合点がいき、急いで天野の手を取った。
「あの、はじめまして。日下波奈といいます、ふつつかものですがよろしくお願いします」
「波奈、か。可愛らしい名前だね。だけどまずは、友達からでお願いします」
天野は快活な笑みを浮かべて、つないだ手をぶんぶんと振るう。天野は女性にしては力が強いらしく、日下は彼女のされるがままとなっていた。
その後、日下は天野と行動を共にすることにした。天野はその見た目からは想像できないほどに博識で、特に日本の神々や妖怪について明るかった。彼女の口から語られる知識の数々に、日下はただ脱帽するばかりであった。
「境界って言うのはね、そこら中に存在しているものなんだ。例えば内と外を隔てる壁だとか、何かを隔てているという概念さえ持っていれば、そこには境界という属性が付与される。もちろん私とあなたの間にも境界はある。あなた側と私側、どちらから観測するかによって、その意味は違ってくるけれどね」
天野が一旦言葉を切る。日下はいまひとつ理解できていないようだったが、話の中にひっかかるところがあったのだろう。天野に対して疑問を投げかけた。
「私と、天野さんの間に?」
日下はおもむろに天野の手を取る。天野は日下の行動の意味がわからないらしく、少し首をかしげた。
「こうして触れられるのだから、私と天野さんの間に、境目なんてありませんよ?」
日下は天野の顔を見上げるようにしてそう言った。
天野は目を丸くした。そのような返答をされるとは思っていなかったのだろう。
ようやく日下の言葉の意味が咀嚼できたとき、天野は呆れたように笑って、日下の少しくせのある髪を撫でた。
「確かに、あなたの前では境界なんて意味をなさないようだね」
「なんだか馬鹿にされている気がします」
日下が拗ねたようにして唇を突き出す。天野はそれを見て、乾いた笑い声をあげると、取りつくろうようにして言葉を続けた。
「別に馬鹿にしているんじゃないよ。それは間違いなくあなたの美点だと思う。ただ……」
天野の目が不意に真剣みを帯びた。
「あなたは少し注意力が足らなさそうだから、忠告はしておくね。あなたなら容易に越えられる境界は無数に存在するだろうけど、越えていいものと、いけないもの。この区別はつけられるようにしておいた方がいいよ」
今度こそ、日下は完膚なきまでに意味を理解できなかった。天野の言葉の意味、それが一体なんのことを指しているのか。
ただ、天野の目があまりに真剣であったから、曖昧にうなずいておいた。
そのとき、不意に会場内に放送が響く。
「どうやら入学式が始まるみたいだね、行こうか」
天野の顔に快活な笑みが戻っていた。日下は今度は大きくうなずくと、二人で座ることのできる席を探し始めた。
入学式は滞りなく幕を閉じた。その間、日下は何度も意識を手放しそうになったが、その度に天野に頬をつつかれて起こされた。
入学式後、二人は昼食をとるために学内の食堂を訪れていた。
食堂は外装にこだわっているらしく、レンガ造りだった。日下はそれを見て、以前写真で見たことのあるロンドンの建物を思い出した。
食堂はどうやらバイキング方式のようで、好きな料理を自分で選んでいき、最後に会計を行うシステムのようだった。
「入学式の間、随分眠そうだったけれど、昨日はあまり眠れなかったの?あ、このシチューおいしそう」
天野が日下に声をかけてきた。しかしその目は日下を見ておらず、目前に並ぶ料理に夢中になっている。今気になっているのは、店長お勧めの品であるタンシチューのようだ。
「そういうわけではないのですが」
思い出されるのは昨日のこと。あれは結局、何だったのか。
日下は麻婆豆腐を手に取りながら、昨日の出来事を天野に言うべきか、言わざるべきか迷っていた。
歯切れの悪い返事に、天野は日下に目を向けた。
「どうやら何かあったみたいだね。お姉さんに話してみない?」
天野は気楽に問いかける。顔に浮かんでいるのは、包容力のある笑顔。
日下の口は自然と緩んでしまった。
会計を終えた二人が話すのは、日下の体験した昨日の出来事。
日下は最初馬鹿にされるかと思っていたが、天野は驚くほど簡単に日下の話を信じた。
「それで、その得体の知れないものを見たのは、昨日が初めてなの?」
「うん、多分昨日が初めてだと思います」
「それは本当に人間じゃなかったの?」
「足は毛むくじゃらだったから、男の人だと思ったんだけど、太さは私よりも細いくらいだったし、あんまり人間っぽくはなかった」
「ふぅん、そっかそっか」
天野はうなずきながらシチューをすくって食べている。その姿を見た日下は、これは信じているのではなく、適当に聞いているだけなのではないかと思い始めていた。
不意にカラン、という音が響く。天野がスプーンを置いた音だった。
容器を見ると既に中身は空になっていた。
「さっき、何かを嘗める音で目を覚ましたと言ってたよね」
天野の食事の速さに驚愕していた日下は、突然の問いかけに返事に窮した。
天野は気にせず話を続ける。
「それなら私、なんとかできるかもしれない」
「本当?」
日下は思わずテーブルに乗り出す。今日偶然会ったばかりの女性が、この奇妙な事件を解決できるというのだ。信じられないのも無理はない。
「本当だよ。ただし今日すぐに、っていうのは無理かな。私にも予定があるしね」
天野は人差し指を立てて、日下の顔の前に持ってくる。
「一日だけ待って。明日には必ず解決してあげるから」
天野の顔はなぜか余裕綽々で、日下にはそれが頼もしく思えた。
日下は目の前の人差し指を握る。天野の指は白く、細かったが、どこか力強い気がした。
「わかった、今日はなんとか我慢するから、明日はお願いね。頼りにしてるよ」
天野は日下の手から指を抜き取ると、照れたように笑う。
「いい傾向だね」
天野は笑ってそう言った。
「それはどういう意味?」
「波奈が私に敬語を使わなくなってきてる」
言われて初めて気づく。改めて指摘されると、日下はなんだか恥ずかしくなった。
別に意識して敬語を使っていたわけではないのだが、日下の中には、あまり親しくない人には敬語を使う、という不文律があったようだ。
その不文律が破られたということは、天野は日下にとって少なからず親しい人になったということだ。
「じゃあ、私は少し用があるから。また明日ね」
「えっ、帰っちゃうの」
おもむろに天野が食器を持って席を立つので、日下はなんとか引きとめようとするが、天野は曖昧な笑みを浮かべて行ってしまった。
日下は一人で食堂に取り残される。目の前には既に冷えてしまった麻婆豆腐。
目から何かが溢れ出そうになるのを何とか堪え、日下はなんとか冷えた麻婆豆腐を口に流し込むのだった。
学生で溢れる大学構内を日下は歩いていた。特にこれと言って目的はなかったが、あまりあの家に帰りたくないのだ。
サークルや部活の勧誘の人員と思われる学生達が、新入生を狙ってその懐に勧誘のチラシをねじ込んでいる。
日下もその例にもれず、少し歩くだけで手の内のチラシはどんどん増えていった。
日下はこのチラシが全て一万円札だったら、と地に足つかない妄想をしながら、ぼんやりと歩き続けるのだった。
日下はいつの間にか、自分が随分と静かな場所に来ていることに気付いた。
どうやら校舎内に来てしまったようで、辺りに人影は見当たらない。
ふと、目の前の掲示板に目を止める。そこには学校からの告知以外も、ボランティア活動への参加を呼びかけるチラシや、海外留学を勧めるチラシ、そしてさきほど配っていたサークル・部活勧誘のチラシが乱雑に張り付けられていた。
日下は一通り眺めてみることにした。
バスケットボール、サッカー、テニス、吹奏楽、英会話、それぞれが自分たちの特徴や利点を色とりどりの色調で描いてある。
その中で、ひとつ日下の目にとまったものがあった。
真っ暗な背景に、真っ白な字で、ただ歴史民俗学研究部と書かれたチラシ。
勧誘する気がないのだろうか。部室の場所どころか、部長のメールアドレスや電話番号といったものも記載されていない。
日下がそのチラシを不思議そうに眺めていると、後ろから不意に声をかけられた。
「そこの君、我が部に興味があるのかな」
日下はびくりと肩をすくませた後、恐る恐る後ろを振り返る。
果たしてそこに立っていたのは、中学生だった。