第04話「近づく距離と初めての贈り物」
季節は初夏を迎えようとしていたが、アスター侯爵領の空は相変わらず薄曇りの日が続いていた。それでも、屋敷の庭だけは別世界のように色彩を取り戻しつつあった。
リゼットが来てから半月。
彼女の献身的な手入れと、密かに注ぎ込まれる「癒やしの力」によって、死の淵にあった庭園は劇的な回復を見せていた。
中庭の噴水周りには色とりどりのパンジーやビオラが咲き乱れ、枯れ木だと思われていた桜の古木からは、季節外れの若葉が勢いよく芽吹いている。
「おはよう、リゼット様!」
「今日も精が出ますなぁ!」
屋敷の使用人たちも、リゼットを見る目が変わっていた。最初は「呪われた屋敷に生贄に来た可哀想な令嬢」として遠巻きに見ていた彼らも、リゼットが土に塗れて働く姿と、その成果としての美しい庭を見て、心からの敬意と親しみを抱くようになっていたのだ。
「おはようございます、マーサさん、ハンスさん」
リゼットはエプロン姿で明るく挨拶を返す。
以前のように伏し目がちで、おどおどした様子はない。自分の居場所があるという安心感が、彼女に自然な自信を与えていた。
その日の午後、ギルバートが珍しく外出の支度をして玄関に現れた。
黒の騎士服に身を包み、腰には剣を帯びている。正装した彼は、息を呑むほど凛々しく、同時に近寄りがたい威厳を放っていた。
「ギルバート様、お出かけですか?」
庭から戻ったリゼットが声をかけると、ギルバートは手袋を嵌めながら振り返った。
「ああ。領内の視察と、王都への報告書の提出に行ってくる。……最近、近隣の村でも黒枯病の被害が拡大しているらしくてな」
「それに、不審な男たちが目撃されている。ただの流行り病にしては、広がり方が不自然だ。……何者かが意図的に広めている可能性もある」
ギルバートの瞳に、鋭い剣呑な光が宿る。
その言葉に、リゼットの表情が曇る。
黒枯病。植物が突然黒く変色して枯れ果てる奇病。この屋敷の庭が回復している一方で、外の世界ではその脅威が増しているのだ。
「……気をつけて行ってらっしゃいませ」
「ああ。夕方には戻る」
ギルバートは馬に乗ろうとして、ふと足を止めた。
何かを言い淀むように視線をさまよわせた後、意を決したようにリゼットに向き直った。
「……何か、欲しいものはあるか?」
「え?」
「街へ行くついでだ。必要な資材や、その……個人的に欲しいものでもあれば、買ってくる」
彼の不器用な気遣いに、リゼットは胸が温かくなる。
必要なものは屋敷に揃っているし、物欲もあまりない。けれど、彼の好意を無下にするのも心苦しい。
「それなら……お花の種や、ハーブの苗をお願いできますか? このお庭をもっと賑やかにしたいんです」
「……花、か。それだけでいいのか? もっと、ドレスとか宝石とか……」
「はい! 種がたくさんあったら嬉しいです。あ、もしあれば、カモミールやラベンダーの種も。ギルバート様に、よく眠れるハーブティーを淹れて差し上げたいので」
自分のためではなく、彼のためのものを欲しがるリゼットに、ギルバートは呆れたように、しかし優しく微笑んだ。
「……欲のない奴だ。わかった、探してこよう」
彼は馬にまたがると、リゼットに一度だけ目配せをして、颯爽と門を駆け抜けていった。
その背中を見送りながら、リゼットは早く彼が帰ってくるのを待ち遠しく思った。
夕刻、屋敷の前に馬のいななきが響いた。
リゼットが慌てて玄関へ走ると、そこには馬の鞍に括り付けられた袋を抱えたギルバートの姿があった。
「おかえりなさいませ、ギルバート様!」
「ああ、ただいま」
彼は少し疲れた様子だったが、出迎えたリゼットの顔を見て、ふっと表情を緩めた。
「約束の品だ」
彼が差し出した麻袋はずっしりと重かった。中を見ると、リゼットが頼んだ何倍もの種類の種や球根、苗木がぎっしりと詰まっている。
「こんなにたくさん!?」
「店にあるめぼしいものを全部包ませた。どれが良いかわからなかったからな」
「ふふっ、ありがとうございます! これなら、お庭中をお花畑にできますわ」
リゼットが満面の笑みでお礼を言うと、ギルバートは咳払いをして、懐から小さな包みを取り出した。
「それと……これは、ついでだ」
彼は視線を逸らしながら、その包みをリゼットに押し付けた。
綺麗な若草色の紙に包まれ、銀のリボンがかけられている。
「開けてもいいですか?」
「……勝手にしろ」
リゼットが丁寧に包みを開くと、中から現れたのは、美しい髪飾りだった。
銀細工で繊細な蔦の模様が描かれ、その先端には、リゼットの瞳と同じ色をした小さな翡翠があしらわれている。派手すぎず、リゼットの地味な服装にも似合いそうな、上品で可愛らしいデザインだった。
「……綺麗」
「店の女将が、どうしてもと勧めるから買っただけだ。深い意味はない」
早口で言い訳をするギルバートの耳は、夕焼けのように真っ赤だ。
リゼットは髪飾りを胸に抱きしめ、涙が滲むのをこらえた。
「ついで」なんかじゃない。彼が自分のために、似合うものを選んでくれたことが痛いほど伝わってきた。
「大切にします。一生の宝物にします」
「……大袈裟だ」
ギルバートはそっぽを向いたが、その口元は隠しきれない笑みを浮かべていた。
その夜の夕食は、いつも以上に美味しく感じられた。
メインディッシュは鴨のローストだったが、リゼットが一番気に入ったのは、野菜たっぷりのミネストローネだった。
温かいスープが喉を通るたび、ギルバートの不器用な優しさが体に染み渡っていくようだ。
食後、リゼットはもらったばかりの髪飾りをつけて、夜の庭に出た。
月明かりに照らされた庭は、昼間とは違う幻想的な雰囲気を醸し出している。再生した薔薇の蕾が、夜露を受けてキラキラと輝いていた。
「……似合っている」
背後から声がして、リゼットは振り返った。
バルコニーの手すりに寄りかかり、ギルバートがこちらを見ていた。月光を浴びた彼は、この世のものとは思えないほど美しく、そして儚げに見えた。
「ギルバート様……見てください、薔薇が」
リゼットが指差すと、再生したあの一輪の薔薇が、月光を浴びて微かに発光しているように見えた。
「ああ……綺麗だ」
彼が見ていたのは、薔薇ではなく、リゼットの方だった。
二人の視線が絡み合う。
静寂の中で、互いの鼓動が聞こえてきそうな距離。
「リゼット」
ギルバートが低い声で呼びかけ、一歩近づいてくる。
その手が伸びかけ、リゼットの頬に触れようとした――その時。
遠くの空が、不吉な赤色に染まった。
同時に、不快な風が吹き抜け、庭の木々がざわざわと騒ぎ出す。
「……!」
ギルバートの表情が一瞬で騎士のものへと変わった。
彼はリゼットを背に庇うように立ち、鋭い視線を空へと向ける。
「あれは……王都の方角か」
「ギルバート様、あれは……?」
「……黒枯病の発生源から立ち上る瘴気だ。まさか、これほどまでに広がっているとは」
ギルバートの声に、焦燥の色が混じる。
リゼットの背中に冷たい戦慄が走った。自分たちのこの小さな楽園が、外の世界の脅威に晒されていることを突きつけられた瞬間だった。
「リゼット、部屋に戻れ。夜風は毒を含むかもしれん」
「でも……!」
「いいから戻るんだ。……俺は、少し調べることがある」
彼はリゼットの肩を強く抱き寄せると、すぐに離した。
その一瞬の抱擁に込められた「守りたい」という意思に、リゼットは何も言えずに頷いた。
部屋に戻ったリゼットは、髪飾りを握りしめながら窓の外を見つめた。
赤く染まった空の下、ギルバートが一人で闇を見つめている。
(私にできることは、お庭を綺麗にすることだけ?)
否。
リゼットの中にある力が、何かもっと大きな役割を求めてうずいているような気がした。
「癒やしの力」は、単に花を咲かせるだけのものではないのかもしれない。
ギルバートの背中が、あまりにも孤独で、小さく見えた。
リゼットは決意を込めて、胸の前で手を組んだ。
彼を守りたい。この平穏な日々を、壊させはしない。
そのためなら、私は――。
不穏な風が窓を叩く中、リゼットの物語は、静かな日常から激動の運命へと舵を切ろうとしていた。




