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第03話「無口な侯爵様と昼下がりのティータイム」

 アスター侯爵邸での生活が始まってから、一週間が過ぎようとしていた。

 どんよりと曇っていたリゼットの心に、少しずつ陽が差し込むような、穏やかな日々だった。


 リゼットの日課は、朝食を終えるとすぐに庭へ出ることだ。

 作業着の代わりに貸与された、少しサイズの大きいエプロンを身に着け、麦わら帽子を深く被る。手には錆を落とした古いスコップと剪定ばさみ。

 傍から見れば、侯爵家への客人というよりは、雇われたばかりの新米庭師にしか見えないだろう。けれど、リゼットにとってこれほど心が安らぐ時間はなかった。


 今日の作業場所は、中庭にある噴水広場だ。

 かつては水の精霊像から清らかな水が湧き出ていたのだろうが、今は水路が干上がり、鉢には枯れ葉と砂埃が堆積している。精霊像も長年の風雨に晒され、薄汚れて悲しげな表情に見えた。

 周囲の花壇も、ひび割れた土が剥き出しになり、所々に黒く変色した植物の残骸がこびりついている。


「ごめんね、今、綺麗にしてあげるから」


 リゼットは膝をつき、まずは枯れ草やゴミを取り除く作業から始めた。

 一見すると単なる掃除だが、リゼットの手が触れるたびに、土の中に眠る微かな命の脈動が呼応する。


『喉が渇いた……』

『重い……苦しい……』


 土の声を聞きながら、リゼットは固まった地面を丁寧にほぐしていく。

 スコップを入れるたびに、指先から無意識に「癒やしの力」が流れ出す。カチカチだった土は、空気を含んだ柔らかく湿り気のある黒土へと質を変え、土壌菌たちが活発に動き出すのがわかった。


「ふう……」


 額の汗を手の甲で拭い、リゼットは大きく息を吐いた。

 ふと視線を感じて顔を上げると、二階の執務室の窓際に、人影があった。

 ギルバートだ。

 彼は窓越しに、じっとこちらを見下ろしている。距離があるため表情までは読み取れないが、その佇まいには、監視というよりは、どこか見守るような静けさがあった。


 目が合うと、彼はバツが悪そうにサッとカーテンを閉めてしまった。

 リゼットは思わずクスリと笑ってしまった。

 最初の頃の「氷の騎士」という恐ろしい印象は、今やだいぶ薄れていた。彼は無愛想で口数も少ないが、決して冷酷な人ではない。


 作業を再開しようとした時、背後から砂利を踏む音がした。


「……根を詰めすぎだ」


 驚いて振り返ると、いつの間にかギルバートが立っていた。

 手には銀色のトレイを持っており、湯気の立つティーポットとカップが二つ、そして小さな焼き菓子が載っている。


「え、あ、アスター侯爵様!?」


 リゼットは慌てて立ち上がり、土で汚れた手をエプロンで隠した。


「そのようなこと、使用人の方に任せればよろしいのに……」


「執事のセバスチャンは腰が悪い。それに、俺が飲みたかっただけだ」


 ギルバートはぶっきらぼうに言うと、噴水の縁にあるベンチ――そこだけは彼が事前に拭いてくれたのか、綺麗になっていた――にトレイを置いた。


「座れ。休憩だ」


「は、はい。ありがとうございます」


 リゼットは恐縮しながら、彼の対面に腰を下ろした。

 ギルバートが手際よく紅茶を注いでくれる。琥珀色の液体から、ベルガモットの爽やかな香りが立ち上り、鼻腔をくすぐった。


「いただきます……」


 一口飲むと、温かさが体に染み渡るようだった。

 実家では、冷めた紅茶や出がらしを飲むのが常だったリゼットにとって、淹れたての温かい紅茶は、涙が出るほど贅沢な味だった。


「……美味しいです」


「そうか」


 ギルバートは短く答え、自分もカップを口に運んだ。

 沈黙が落ちる。けれど、それは以前のような息苦しいものではなく、小鳥のさえずりが聞こえるような、穏やかな沈黙だった。


 リゼットはカップの縁越しに、そっとギルバートの様子をうかがった。

 近くで見ると、やはり右頬の黒い痣が目につく。肌が炭化しているような、痛々しい痕跡。それが首筋から服の下へと続いているのを見ると、胸が締め付けられるような心地がした。


 視線に気づいたのか、ギルバートがふと顔を上げ、自嘲気味に口元を歪めた。


「……醜いか?」


 リゼットはハッとして首を横に振った。


「いいえ! そんなこと、ありません」


「嘘をつかなくていい。この傷のせいで、多くの者が俺を恐れ、逃げ出した。……お前の父君も、そうだったのだろう?」


 彼の瞳に、暗い影が差す。

 リゼットは真っすぐに彼の目を見つめ返した。


「怖くはありません。ただ……痛くないのかな、と。そう思っただけです」


 飾らない言葉に、ギルバートは虚を突かれたような顔をした。

 そして、ふっと力を抜くように目を伏せる。


「痛みには……慣れた。この呪いは、俺の生命力を糧にしているらしい。じわじわと身体を蝕み、やがては心まで食い尽くすと言われている」


 彼は自分の手を見つめた。剣を握り続けてきた、武骨で大きな手だ。


「俺は戦場で多くの命を奪った。これはその報いだと思っている。だから、治らなくてもいいと、半ば諦めていたんだ。……お前が来るまでは」


 最後の言葉は、ほとんど独り言のような小さな声だったが、リゼットの耳には確かに届いた。

 心臓がトクンと跳ねる。


「アスター様……」


「……ギルバートでいい」


「え?」


「アスター侯爵など、堅苦しい。ギルバートと呼べ」


 彼は照れ隠しのように顔を背け、焼き菓子の皿をリゼットの方へ押しやった。


「ほら、食え。街で一番評判の店のクッキーだそうだ。セバスチャンがどうしてもと買ってきた」


 本当は、彼自身がリゼットのために用意してくれたのではないだろうか。そんな予感がして、リゼットの胸は温かいもので満たされた。


「はい。……ありがとうございます、ギルバート様」


 名前を呼ぶと、彼の肩がぴくりと揺れた。

 リゼットはクッキーを一つ手に取り、口に含んだ。バターの濃厚な風味と、ほろりとした食感が広がる。


「……甘くて、美味しいです」


 自然とこぼれた笑顔に、ギルバートが見惚れたように目を細める。

 その視線の熱さに気づき、リゼットは急に恥ずかしくなって俯いた。


「リゼット」


 不意に彼が口を開いた。


「お前は……何故、そんなに優しい顔ができる?」


「え……?」


「家での扱いを聞いた。ベルヴァーン伯爵家では、お前を不当に冷遇していたと。……憎くはないのか? 自分をこんな場所に追いやった家族や、呪われた俺のことが」


 ギルバートの声には、純粋な疑問と、僅かな憤りが混じっていた。自分のことよりも、リゼットが受けた仕打ちに対して怒ってくれているようだった。


 リゼットは手の中のカップを見つめ、静かに言葉を探した。


「……寂しくは、ありました。誰も私のことを見てくれない。透明人間になったみたいで……悲しかった」


 正直な気持ちを吐露する。今まで誰にも言えなかった言葉だ。


「でも、植物たちは違いました。私が水をあげれば葉を広げてくれる。元気をあげれば花を咲かせてくれる。彼らは嘘をつきません。私が愛せば、愛した分だけ応えてくれるんです」


 リゼットは顔を上げ、庭を見渡した。まだ荒れてはいるが、手入れをした場所からは、小さな緑の芽が顔を出している。


「それに……ここに来て、よかったと思っています」


「何故だ?」


「だって、ギルバート様に会えましたから」


 言ってしまってから、リゼットは自分の大胆さに顔を真っ赤にした。

 ギルバートも目を見開き、言葉を失っている。彼の耳が、また赤く染まっていくのがわかった。


「……お前という奴は」


 彼は片手で顔を覆い、深いため息をついた。だが、その隙間から見える口元は、確かに笑っていた。


「俺の負けだ。……まったく、調子が狂う」


 彼は顔を覆ったまま、ボソボソとつぶやく。

 その姿が、恐ろしい「氷の騎士」とは程遠い、年相応の青年のものに見えて、リゼットの胸は愛おしさでいっぱいになった。


「さあ、休憩は終わりだ。……あまり無理はするなよ」


 ギルバートは立ち上がり、空になったカップをトレイに戻した。

 去り際に、彼はぽん、とリゼットの頭に手を置いた。

 大きく、温かい手だった。


「……夕食は、お前の好きなものを作らせる。何がいい?」


 背中を向けたままの問いかけに、リゼットは弾んだ声で答えた。


「温かいスープが飲みたいです!」


「わかった」


 彼は片手を挙げて合図をし、屋敷へと戻っていった。

 残されたリゼットは、頭に残る彼の手の温もりを確かめるように、そっと自分の手で触れた。


(ギルバート様……)


 この人のために、もっと頑張りたい。

 この荒れ果てた庭を、彼が心から安らげる場所に変えてみせる。

 そしていつか、あの呪いの傷さえも癒やすことができたら――。


 リゼットは立ち上がり、再びスコップを握った。

 その瞳には、以前のような諦めや怯えの色はもうない。

 愛する場所と、愛したい人のために働く、強い意志の光が宿っていた。


 足元の土の中から、小さな芽が顔を出し、リゼットを応援するように揺れた。

 噴水広場に、心地よい風が吹き抜けていった。

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