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第02話「一輪の薔薇と秘密の魔法」

 翌朝、リゼットは小鳥のさえずりで目を覚ました。

 カーテンの隙間から差し込む朝日は明るかったが、窓の外に広がる景色は相変わらず灰色にくすんでいた。


 簡単な朝食を部屋で済ませた後、リゼットは昨夜の決意を胸に、こっそりと部屋を抜け出した。

 廊下は静まり返っている。ギルバートや使用人たちに見つからないよう、足音を忍ばせて階段を降り、裏口から庭へと出た。


 外の空気はひんやりとしていて、土埃と乾いた草の匂いがした。

 近くで見ると、庭の惨状はさらに鮮明だった。地面は石のように硬く、クワやスキすら受け付けないほどに干からびている。これでは、どんなに水をやっても植物は育たないだろう。


(黒枯病……やっぱり、この土地も病に侵されているのね)


 リゼットは胸を痛めながら、昨晩気配を感じた場所へと向かった。

 そこは、庭園の奥まった場所にある、小さな温室の跡地のような場所だった。ガラスは割れ落ち、骨組みだけになった鉄枠に、枯れた蔦が絡みついている。


 その瓦礫の隙間に、それはあった。


「……見つけた」


 リゼットは膝をつき、ドレスが汚れるのも構わずに身を乗り出した。

 そこに植えられていたのは、一株の薔薇だった。

 枝は茶色く変色し、葉はほとんど落ちている。棘さえもボロボロに砕けそうだったが、根本のわずかな部分だけが、まだ緑色を残していた。


(苦しいのね。痛いのね)


 リゼットは手袋を外し、その弱々しい幹に素手で触れた。

 ざらついた樹皮の感触と共に、薔薇の悲鳴が流れ込んでくる。


『水が……光が……』


「大丈夫よ。もう大丈夫」


 リゼットは目を閉じ、深く呼吸をした。

 自分の体の奥底にある、温かい泉のような場所をイメージする。そこから溢れ出る力を、指先を通して薔薇へと注ぎ込む。


(元気になって。貴方はまだ、終わってない)


 リゼットの手のひらが、淡い若草色の光を帯びた。

 それは蛍の光よりも儚く、優しい輝きだった。光は脈打つように薔薇の幹へと吸い込まれていく。


 すると、奇跡が起きた。


 茶色く乾いていた枝が、みるみるうちに瑞々しい緑色を取り戻し始めたのだ。

 しわがれていた表皮に張りが出て、小さな芽がぷくりと膨らむ。芽は瞬く間に展開し、艶やかな緑の葉が次々と開いていく。


 それだけではなかった。

 枝の先端に蕾が生まれ、それがほころんだかと思うと、鮮やかな深紅の花弁が一枚、また一枚と開いていく。

 あたりに、甘く芳醇な薔薇の香りが漂った。


 わずか数十秒の出来事だった。

 死にかけていた老木は、今や満開の花を咲かせ、誇らしげに風に揺れていた。


「ふふっ、よかった……」


 リゼットは額に浮いた汗を拭い、愛おしげに花弁に触れた。

 力を使い、少しだけ体がだるい。けれど、目の前の鮮やかな赤色が、リゼットの心を満たしてくれた。


「……何をした?」


 背後から、地獄の底から響くような低い声がした。


「ひっ!?」


 リゼットは心臓が止まるかと思うほど驚き、その場に尻餅をついた。

 恐る恐る振り返ると、そこにはギルバートが立っていた。

 朝の光の中、彼の青い瞳は、幽鬼のように鋭く光っている。視線は、リゼットではなく、彼女の背後で咲き誇る薔薇に釘付けになっていた。


「あ、あの、これは……その……」


 リゼットはパニックになった。

 母に「気味が悪い」と拒絶された記憶が蘇る。この力を知られたら、また軽蔑される。化け物だと罵られる。下手をすれば、魔女として処刑されるかもしれない。


「枯れかけていたから、その、お水をあげたら、偶然……」


 しどろもどろに言い訳をするが、そんな言葉が通用するはずもない。目の前の現象は、明らかに自然の摂理を超えていた。


 ギルバートは無言のまま、ゆっくりとリゼットに近づいてきた。

 リゼットは恐怖で身を縮め、目をきつく閉じた。

 怒鳴られる。あるいは、その腰に帯びた剣で斬られるかもしれない。


 しかし、予想された衝撃は訪れなかった。


「……母上の、薔薇だ」


 頭上から降ってきたのは、震えるような、かすれた声だった。


 リゼットがおずおずと目を開けると、ギルバートは膝をつき、リゼットの肩越しに薔薇の花を見つめていた。

 その表情に、リゼットは息を呑んだ。

 昨日のような冷徹さは消え失せ、まるで迷子が親を見つけたような、すがるような色が浮かんでいたからだ。


「母上が……生前、一番大切にしていた薔薇だ。俺が呪いを受けて戻った時には、もう枯れかけていて……どんな庭師に見せても、手遅れだと言われたのに」


 彼は震える指先で、そっと花弁に触れた。

 指先が触れた瞬間、彼がびくりと反応する。


「……温かい」


 彼は夢を見ているかのように、つぶやいた。

 そして、ゆっくりと視線をリゼットに向けた。

 その瞳は、もはや氷ではなかった。驚愕と、困惑と、そして微かな希望の光が揺らめいていた。


「お前は……何者だ?」


 リゼットは唇を震わせながら、正直に答えることも、嘘をつくこともできずにいた。

 ただ、彼の瞳があまりにも悲しげで、綺麗だったから、リゼットは恐怖を忘れて見入ってしまった。


「私は……ただ、花が枯れていくのが、悲しかっただけです」


 その言葉に、ギルバートはハッとしたように目を見開いた。

 彼はしばらくリゼットと薔薇を交互に見つめていたが、やがて立ち上がり、咳払いをしていつもの無愛想な表情を取り繕った。


「……礼を言う」


「え?」


「この薔薇は、俺にとって……大切なものだった。それを救ってくれたこと、礼を言う」


 ぶっきらぼうで、顔を背けたままの言葉だった。耳の先が少し赤くなっているようにも見える。

 リゼットは呆気にとられ、それからじんわりと胸が温かくなるのを感じた。

「気味が悪い」ではなく、「ありがとう」と言われたのは、生まれて初めてだったかもしれない。


「そ、そんな、お礼なんて……!」


「だが、その力……他言は無用だ」


 ギルバートは鋭い眼差しで周囲を警戒するように見回した。


「今の世情だ。そんな力を持っていると知られれば、教会や王宮が黙っていない。お前自身の身が危うくなる」


「は、はい……」


「……俺が守る。だから、勝手な真似はするな」


「え……?」


 守る。その言葉の響きに、リゼットは鼓動が早くなるのを感じた。

 ギルバートは気まずそうに視線を泳がせ、再びリゼットを見た。


「それと……もし、お前が嫌でなければだが」


 彼は言い淀みながら、庭の他の場所へ視線を向けた。


「この庭の……他の場所も、見てやってはくれないか。俺には、どうすることもできないが、お前なら……」


 それは、不器用な彼なりの、精一杯の頼み事だったのだろう。

 リゼットの中にあった恐怖心は、完全に消え去っていた。この人は、噂のような怪物じゃない。ただ、不器用で、誰よりも優しい人なのだ。


 リゼットは自然と笑みをこぼしていた。


「はい、喜んで。……私でよければ、このお庭を、もう一度お花でいっぱいにしてみせます」


 リゼットの笑顔を見たギルバートは、眩しいものを見るように目を細め、小さく「ああ」と頷いた。


 その日の午後から、リゼットのアスター邸での「庭師」としての生活が始まった。

 それは同時に、凍てついていた二人の時間が、ゆっくりと動き出した瞬間でもあった。


 屋敷の二階の窓から、ギルバートがリゼットの作業をじっと見つめていることに、彼女はまだ気づいていなかった。その口元が、数年ぶりに穏やかな弧を描いていることにも。

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