魔族の都市ノクス
街道に朝靄が残っている。
まだ日が完全に昇りきらない時間帯で、空は淡い灰色と薄紅の境目にあった。
蓮は、その空を見上げながら一歩、また一歩と前に進む。
背中に、城はもうない。
振り返れば見えるはずのフォルトゥナ城は、今は木々の向こうに完全に隠れていた。
(……さあ、ここからがスタートだ。)
胸の奥で、小さく息を吐く。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、迷いはなかった。
「蓮、歩くペース速くない?」
後ろから、軽い声が飛んでくる。
振り向くと、カイが肩に荷袋を担ぎ、相変わらずの余裕ある表情で歩いていた。
その隣では、ユリウスが欠伸を噛み殺しながら、どこか楽しそうに周囲を見回している。
「そう? 普通だと思うけど。」
「いや、初日から飛ばしすぎでしょ。」
カイがくすりと笑う。
「だって早く色んなものを見たいんだもの。」
その言葉に、カイは少しだけ目を細めた。
「そうだな。俺も楽しみだよ。」
そのやり取りを、黙って聞いていたユリウスが、にやりと口角を上げた。
「見たくないものも見てしまうかもしれないがな。」
「ちょっと、ユリウス。出鼻をくじかないでよ!」
「事実だろ?」
軽い調子で言いながら、彼はちらりと城の方向を見やる。
「……ま、この国の黒いところは避けられないってことさ。」
その言葉に、蓮の胸が少しだけ締めつけられた。
「だからこそ、ちゃんと知りたいの。」
蓮は前を向いたまま、言葉を続ける。
「人間の国も、魔族の暮らしも。綺麗なところだけじゃなくて、歪んでるところも。」
その瞬間、三人の足が、ちょうど外郭都市へと続く主要街道へと差し掛かる。
ユリウスが立ち止まり、地図を広げた。
「さて、第一目的地だけど。」
指が、街道の先を示す。
「この先にある街はどうだ?一泊目としては、ちょうどいい場所だ。」
カイが頷く。
「情報集めにも向いてるね。蓮の“勉強”にも。」
蓮はその地図を覗き込み、深く息を吸った。
(ここからだ。)
守られる存在だった自分が、選ぶ側になるための旅。
「行こう。」
その一言に、二人が笑う。
「了解!」
三人は脇道へと足を踏み出した。
未来を選ぶための、最初の一歩だった。
やがて、視界の先に街が見えてきた。
黒褐色の石造りの建物が並び、屋根は低く、通りは狭い。
「少し、空気がピリついてるな。」
街へ入るとユリウスが、低く呟く。
確かに、行き交う魔族の視線は鋭く、誰かを値踏みするようだった。
フォルトゥナ城の中にも多くの魔族はいた。
けれど、あそこは「城」だ。
秩序があり、守られ、選ばれた者たちの空間。
今、目の前に広がるのは違う。
生活の匂い。
雑多な魔力。
善悪も、上下も、曖昧なまま溶け合った場所。
だが、活気はある。
露店が軒を連ね、奇妙な香辛料の匂いが漂い、耳慣れない言語と笑い声が混じり合っていた。
「……すごい。」
思わず零れた声に、カイが笑う。
「だろ? ここ、“ノクス”って言うんだ。城の外郭都市。」
「知ってるの?」
「昔、通ったことがある。仕事でね。」
そう言って、自然に前に出る。
通りを行き交う魔族たちに、軽く手を挙げ、視線を交わし、短く言葉を交わす。
(馴染むの、早いな……)
蓮は感心しながら、その背中を見つめた。
街を歩く魔族たちは、実に多様だった。
角を持つ者、尻尾を揺らす者、獣の耳を生やした者。
城にいた者たちよりもずっと素朴で、生活感がある。
ふと、視線を感じた。
(……?)
誰かが、こちらを見ている。
一人ではない。
すれ違う魔族たちの視線が、一瞬だけ蓮に集まり、そして逸れる。
「……ねえ。」
小声で、ユリウスに話しかける。
「今、ちょっと見られてた気がする。」
「気のせいじゃない。」
即答だった。
「蓮は自覚ないだろうな。」
「え?」
「兄さんの加護が濃すぎる。」
肩をすくめて言う。
「この街の古株なら、魔力で分かる。」
「魔力……」
「“陛下のものだ”ってな」
蓮は思わず口を閉ざした。
(そんな……)
ユリウスは悪びれずに続ける。
「安心しろ。敵意じゃない。ただ……」
「ただ?」
「距離を測られてる。」
その言葉に、背筋が少しだけ冷えた。
街の中心に近づくにつれ、ざわめきの質が変わった。
声はあるのに、どこか抑えられている。
笑い声が短く、視線が忙しい。
「……この街、最近どう?」
カイが、露店の店主に声をかける。
「ん? まあ、普通だよ。」
「“まあ”?」
「……夜が、静かでな。」
店主は、そう言って言葉を切った。
「前はもっと騒がしかった。酒場も、歌も、喧嘩も。」
「今は?」
「静かすぎる。」
その言葉が、妙に耳に残った。
宿に入ると、さらに違和感は濃くなる。
客はいる。
だが、皆どこか落ち着かない。
視線が頻繁に入口へ向かい、声は低い。
部屋に荷物を置き、三人は簡単な食事を取った。
「今日のところは、ここまでだな。」
ユリウスが言う。
「夜に出歩くのはおすすめしない。」
「理由は?」
「街の者がそう言う時は、大体当たる。」
蓮は、窓の外を見た。
夕闇が街を包み始め、灯りが一つ、また一つと灯っていく。
だが、どこか影が濃い。
(……嫌な予感)
部屋に戻ろうとした、その時。
――ぎぃ。
廊下の奥で、扉が軋む音がした。
反射的に振り向くと、誰もいない。
だが、確かに気配があった。
「……今の、聞いた?」
カイが小声で言う。
「聞いた。」
ユリウスは、すでに壁際に立ち、気配を探っている。
「……子どもだな。」
「え?」
「魔力が弱い。隠すのが下手だ。」
その瞬間。
――ばたん。
どこかで、何かが落ちる音。
続いて、小さな足音が、遠ざかっていく。
追うべきか、迷う一瞬。
だが、ユリウスが首を振った。
「今はやめろ。ここじゃ、見られる。」
「……うん。」
蓮は、胸の奥に沈む不安を抱えたまま、部屋に戻った。
夜。
街は、確かに静かだった。
静かすぎるほどに。
(何かが、起きてる。)
それは、確信に近かった。
けれど、まだ輪郭は見えない。
ただ、確実に――この街のどこかで、歪みが広がっている。
蓮は、胸に手を当て、そっと目を閉じた。
(……知るために、来たんだ。)
守られるだけの存在ではない。
選び、踏み込むために、ここにいる。
その決意を、もう一度、胸に刻みながら。
魔族の街ノクスは、静かな夜に沈んでいった。
――嵐の前の、沈黙のように。




