後編
それから王は、時折ひとりで庭を訪れるようになった。
誰に告げるでもなく、決まった時刻でもなく、ただ気が向いたときに。
娘は、いつも同じ場所にいた。
まるで最初から、そこにいることが決まっているかのように。
「また来たんだ」
王の姿を見ると、娘は柔らかく笑う。
敬意も緊張もない、気取らない声だった。
「ああ。……君は?」
「庭、見てた」
「それは毎回聞いているな」
「でも毎日ちがうでしょ」
言われて、王は周囲を見渡す。
王には違いがよくわからなかったけれども、彼女が楽しそうだったので気にしないことにした。
「今日は風が強い」
「うん。春って、落ち着きないよね」
娘は空を仰ぎ、そう言ってから王のほうを見る。
「王さまは、こういうとこ来ないほうがいいんじゃない?」
「なぜだ」
「うーん、なんとなく。」
「……よく分からんな」
それ以上の説明はしない。
娘はそういうところがあった。
身分も、名も、素性も。
分からないことばかりなのに、
会話だけは不思議と途切れなかった。
「ねえ花の冠作ってよ、ここの花で」
風でたくさんの花が揺れる。
「……それは、許されるのか?」
「わたしが許す」
あまりにあっさりと言われ、王は思わず笑った。
「ずいぶんと偉そうだな」
「そう? でも、ここはわたしの庭だし」
冗談なのか、本気なのか。
判断する前に、王は考えるのをやめて、花冠を編み始めた。
この庭で過ごす時間は、いつしか王にとって、肩書きを忘れられる唯一の場所になっていた。
春の終わりが近づいたころ、娘は庭に来なくなった。
最後に姿を見た日、王はいつものように彼女と並んで、咲き残った花を眺めていた。
風は静かで、季節が次へ移ろうとしていることだけが感じられた。
「ねえ、これあげる!」
娘はそう言って、いきなり花を差し出した。
「……私に?」
「うん。きれいでしょ」
風が強く吹いたタイミングで、ふいに立ち上がる。
「あ、呼ばれてる」
「誰にだ」
「庭に」
うまく噛み合わない会話はいつものことなのに、なぜかもう会えない気がした。
「また来るか?」
「さあ。どうかな」
曖昧に答えて、娘は手を振った。
「じゃね」
気がついたら娘の姿は消えていて、それきり娘は現れなかった。
王の手元には、あの日にもらった花だけが残っている。
それから幾年も過ぎ、王は老い、病に伏した。
思い出すのはいつかの春に出会ったあの娘のことだった。
そして命の灯はゆっくりと小さくなっていく。
ある夜、バルコニーの扉がそっと開いた。
静かな風が月明かりの庭を通り抜け、王の顔を撫でる。
なんとなく目を開けると、そこに娘が立っていた。
「迎えに来たの」
娘はそう言って、王の手を取った。
手は冷たくも温かくもなく、ただそこにあった。
恐れる必要はなかった。
その声は、かつて仲良くしていたあの娘の声だったから。
二人は庭に出た。
花は咲き、風はやさしく、春の夜は静かだった。
振り返れば、寝台には安らかな顔で眠る自分自身がいるだけ。枕元にはいつの日か彼女がくれた花だけ。
王座も冠も、何もなかった。
そして目の前には、終わりのない春が広がっていた。
翌朝、王は静かに息を引き取っていたという。枕元の花は静かに花びらを落としていた。




