前編
むかし、ある国に、ひとりの王がいた。
富も権力も、栄誉も地位も、その手にないものはほとんどない。
人々は彼を名君と呼び、その治世は安定していた。
「陛下、本日の政務はすべて滞りなく終了いたしました」
側近の報告に、王は小さくうなずく。
やがて扉が閉じ、玉座の間には静寂だけが残された。
「……静かだな」
思わず漏れた声は、広い空間に吸い込まれていく。
昼のあいだ、あれほど多くの者に囲まれていたはずなのに、今この場にいるのは、自分ひとりだけだった。
「皆の前に立っているときは、何も感じぬのだが……」
王は玉座の背にもたれ、天井を仰ぐ。
「こうして一人になると、胸の奥が空いたままなのだな」
その言葉に応える者はいない。
けれど王は、それに慣れきっている自分に気づき、わずかに苦笑した。
ある春の日、王は珍しく、ひとりで庭を歩いていた。
政務の合間に、ほんのわずかな気まぐれで外へ出ただけだった。
その庭は、本来なら王族と限られた使用人しか足を踏み入れられない場所だ。
門は閉ざされ、見張りも立っている。
はずだった。
「……誰だ?」
咲き始めた花々の向こうに、ひとりの娘が立っていた。
淡い陽射しと春風をまとい、まるで最初からそこにあった景色の一部のように。
「お前は、どこから入った」
問いかけると、娘は驚いた様子もなく、ただ静かに微笑んだ。
「名を、教えてくれ」
そう続けると、娘は一瞬だけ視線を落とし、やがて何も言わずに首を振る。
身分を問えば、今度は答える代わりに、そっと沈黙を差し出した。
侵入経路も、名も、素性も不明。
警備をすり抜けられる人間など、ほとんど考えられない。
(……人ではない、という可能性もあるか)
そこまで思考を巡らせてから、王はそれ以上考えるのをやめた。
理由は自分でもよく分からない。
ただ、不思議と「どうでもいい」と感じてしまったのだ。
「話すことが苦手か?」
娘は小さく首をふり、やがて、ぽつりと声を落とした。
「……ここ、きれいね」
それだけの言葉だった。
だが、澄んだその声は、春の空気よりもやわらかく、王の胸の奥に、静かに染み込んでいった。
「そうだな。……余も、そう思う」
王は久しぶりに、誰かと並んで景色を見た気がした。
肩書も、義務も、玉座もない、ただの一人として。
娘が何者なのか。
なぜここにいるのか。
問いは山ほどあったが、王はそれを口にしなかった。
(今は、それでいい)
春風が吹き、花びらが舞う。
娘はそれを見上げ、穏やかに微笑んでいた。
その笑顔が、王の孤独を、ほんの少しだけ溶かしたことに、
王自身はまだ気づいていなかった。
明日、続き投稿します




