はじまりの嘘.3
千花と出会って三か月。彼女が孤独と悲壮に身を委ねる姿を初めて目の当たりにしてから、数週間が経った週末のこと。
私はその日も千花の元を訪れようとしていた。いつものように、花島会長に命令されてではなく、初めて自分の意志で彼女を尋ねるべく外出の用意を進めていた。
「あれ?夕陽、今日はまだ会長から連絡が来てないんだろ?」
ロングコートの色を黒にするか、ブラウンにするか鏡の前で迷っていた私に、旦那――綺羅星久が声をかけてきた。
久は、私より五つ上で、中肉中背の男だ。パッとしない、と言うフレーズが一見するとよく似合う人だが、その実、とてもクレバーで気が利く。出世欲が乏しく、その能力に相応しい地位や給料を得られていないのが玉に瑕だが、それでも、お世辞でもなんでもなく私にはもったいない人であることは間違いない。
「久、どっちが似合うと思うかしら?」
私は久の問いかけも無視してコートを二つ、自分の体に交互に当ててみせた。彼は自分の発言がスルーされたことを不満に思いもせず、思案気に顎を撫でてから、「黒のほうかな。夕陽はやっぱり、黒がよく似合う」なんて照れもせず言ってのけた。
「ありがとう。旦那様としては満点の解答ね」
「どういたしまして。――で、どうしたんだ?チナちゃんだったか?今日は呼ばれてないんだろう?」
私は千花の名前を間違われたことで少しだけ眉根をひそめた。
ここ最近は、会社の話より千花の話ばかりしているというのに…こちらの話を聴いていないのだろうか?
「千花。千花さんよ。間違えないで頂戴」
「ああ、はいはい。すまんすまん」
悪びれた様子もなくベッドに腰かけた久に対し、私は腰に手を当てて答える。
「呼ばれたから訪問する――では、お仕事感全開じゃない。そんなことでは、クライエントに心を開いてもらえないわ」
「へぇ、そういうもんか」
「ええ、そうよ」
嘘だ。本当は、クライエントとは一貫性のある関係性を保つことが望ましい。相手がこちらに依存することもあれば、こちら側が余計な感情移入をしてしまい、客観的な支援に滞りが生じる可能性があるからだ。
それが分かっていても、私は千花に会おうという気持ちを消せなかった。その理由としては、これが明確な仕事ではないこと、元々日曜日には予定を入れていないから暇であるということが挙げられる…いや、建前はいい。単純に、彼女とは話が合うのだ。
仕事に追われる日々が頼まずとも運んでくるストレスを、千花との対話で軽減したい。久との会話でもそれができないわけではないが、千花からしか得られない養分も確実に存在した。
「まぁ、いつも通り夕方頃には帰ってくるわ。ちゃんとお留守番しておいてね、久」
私が冗談めかしてそう言うと、久は肩を竦めて適当な返事をした。
彼との関係は気楽でいい。結婚なんていう面倒な束縛関係を受け入れる必要が私の人生に訪れるのであれば、彼のような人間が望ましいと思っていた。
気が利き、頭がよく、変人の私を受け入れてくれて、ほどほどにセックスも好き。そしてなにより、私の邪魔をしない――あぁ、素敵な人だ、本当に。
私はそのまま玄関に向かおうとした。コートを翻し、浮足立つこちらの背中に、久が笑いながら声をかけた。
「浮気するなよぉ、夕陽!」
私は自分がバイセクシュアルであること、しかも、基本的に女性のほうが好きになりやすいことを久にカミングアウトしている。だから、それは彼なりのジョークだったのだろう。
「貴方もね、久。するなら、私に紹介できるくらい素敵な人だけにしておきなさい」
ははっ、と久が笑う。
何の疑いも持たない、疑心の黒い滴が落ちる前の、真っ白い紙がそのときの私たちの間には広げられていた。
事前の連絡もない突然の訪問となったが、ハウスキーパーは二つ返事で私が敷地内に入ることを許してくれた。
すでに何度も訪問していること、千花との関係性も明らかに悪くはないこともその理由だろうが、おそらく、ハウスキーパー側は千花の相手をしてくれるというだけで私がありがたい存在なのだろうと思う。
少ししか話したことはないが、ハウスキーパーはお世辞にも明るい性格とは言えないタイプだ。淡々と仕事だけをしていたい、そんな感じが滲み出ているから、私は面倒事を好き好んで請け負ってくれる変人か何かに見えるのだろう。
千花に事前連絡を入れることも考えたが、私は結局、内緒で彼女の元へと向かうことを決めていた。そのほうがサプライズ感もあって、喜んでもらえるかも、なんて考えていたのだ。
実際、ノックに応えて扉を開けた千花の顔は相当驚いた様子であった。もしかしたら迷惑だったか、という不安も一瞬よぎったが、それはすぐに、彼女自身の笑顔によって拭い去られる。
「えぇ、嬉しいです。ありがとうございます」
「そう。よかったわ、迷惑じゃないかと少し不安だったから。――部屋、上がってもいいかしら?」
「もちろんです。どうぞ」
そう言って私を通した千花の身なりはきちんと整えられていた。
何の変哲もない白いセーターと青のデニム。だというのに、彼女にはよく似合った。白が良いのかもしれない。千花の純朴さを表現するのに、これ以上ない色だ。
なるほど、ご令嬢というだけあって、たとえ引きこもりであってもこうした部分でだらしなさを見せることはないようだ。
千花の私室に足を踏み入れると、中ではアップテンポのロックミュージックが流されていた。
物静かでゆったりとした千花からは想像しづらいリズム感だが、彼女はこうした楽曲をとても好んだ。
クラシックのほうがイメージに合うと伝えた際、少し落ち込んだ顔で、「よく言われます」と答えてきたのをよく覚えている。
勝手に貼り付けたイメージ像を口にするときは、やはり、気をつけなければならない。
私はもう間違えないよう、朗らかに微笑みながら、「このバンド素敵よね」と共感を示し、他に知っている曲を上げた。
「そう、そうなんですよ!わぁ、綺羅星さんもお好きだったなんて…なんか、嬉しいです」
珍しく陽気に答える千花。自分も同じような音楽の趣味で本当に良かったと思いながら、窓際に身を寄せる。
「私も嬉しいわ。ねぇ、千花さん。カラオケとか、行ったことありますか?」
「え、あ、いえ…。私、友だちもろくにいないもので…」
「あら、そうなのですか?」
しまった。地雷を踏んだかもしれない。
「はい…。どうしたら、友だちってできるんですかねぇ?」
…意外と平気な様子だ。誰にも迷惑をかけるようなことじゃないからかもしれない。
私は、少しだけ考えるフリをして、思うがままに伝える。
「さて、どうでしょう。子どもの頃は、環境が勝手に友だち候補を用意してくれていて、自然とそういう関係になっていたような…。大人になるとそうではなくなっていく以上、きちんと言葉にするといいのかもしれません。友だちになってください、って」
ウインクしながら私がそう答えれば、千花は分かったのか、分かっていないのか曖昧な相槌を打った。
その後しばらく、話題をバンドの話に変えて会話を続けた。人と交流を図るのに、共通の趣味ほど適した話題はない。自分も相手も楽しい時間となれば、自然と信頼も募るものだ。
話の切れ間に、私は彼女が何をしていたのかを考察することにした。次の話題にしてもよいかと判断したのである。
そこで私は、千花の机に広げられている資料を遠目から確認した。そして、それが何なのか気づいたとき、私は思わず声を発していた。
「あれって、求人票?」
「あ」
千花は私の視線に気がつくと、慌てた様子で机に戻り、職業安定所の求人票をひっくり返す。まるで悪いことのように。
「その、見てただけです。こんな状況で働こうなんて、おこがましいことは考えてません。あはは…」
「おこがましいことなんかじゃないですよ。社会にどう属するか、これからどうしていくか、それを考えることはとても健全なことです。よく見ているのですか?」
「えっと…いえ、今日、初めて見てみました」
千花は少し気恥ずかしそうに俯き、そう答えた。その奥ゆかしさを覚える仕草に、不覚にも胸が高鳴る。
自分よりも八つ近く離れている――しかも、年齢よりだいぶ幼く見える千花に妙な感情を抱くようでは、世間様に変態と罵られてもおかしくはない。
(…まぁ、考え方や話し方は大人びているものね…)
私は思考を切り替えるべく、彼女の発言に対し支援者らしく問いを重ねる。
「まぁ、それは良いタイミングに来ました。なぜ、求人票を見ようと?」
すると、千花は苦笑いでこう答えた。
「いやぁ、その…最近は落ち込んでも一日動けないという日が少なくなってきたので…今後のことを考えて、見るだけ見ておこうと思ったんです」
「なるほど。一概には言えませんが、症状が少しずつ改善している良い兆候なのでしょうね。どんな仕事を見てみたのですか?」
千花はほんの一瞬だけ逡巡した後、私に数枚の求人票を見せてくれた。
「これなんですけど…」
目を落とせば、ほとんどが事務系の求人だった。
「事務職ですか」
「はい」
「ふむ…」
千花の部屋にパソコンらしきものはない。彼女は趣味で絵を描く時も、携帯のアプリで描いているようだったから、そうした類の機器は所持していないのかもしれない。
私は千花に軽くPCスキルについて尋ねた。案の定、学校で習う基礎的なものも覚束ないということらしかった。
「こんなのじゃ、ダメですよね」
まさか“こんなの”とは、自分のことを差しているのか。自己肯定感の低下は症状の一環ではあるが、それでも、自分の価値をどれだけ把握していないのだと驚かざるを得ない。
眉をしょぼしょぼと曲げる千花に、私は丁寧なアクセントで言う。
「今日、明日すぐに働き始めるというのでは、些か不安も残るでしょうが、きちんと先の目標として計画立てて向き合うのであれば、全く問題はありませんよ」
「計画…」
ぼんやりとした感じで千花が呟く。その視線は、やがて壁に掛けられたカレンダーへと向かった。
今、彼女は拙い経験を基に将来を見ている。本当に良い兆候だ。未来からこぼれ出る光を掴もうとしているのだから。
私は好機と判断し、言葉をかける。
「立ててみますか?就職計画」
「え」
こちらを振り返る千花の瞳に、明らかな不安が宿る。無理もないことだが、今の彼女なら一歩踏み出せるかもしれないと期待を込めて、私は頷いた。
「もちろん、無理にとは言いません。ただ、頭で考えてみるだけであれば、何もリスクはありませんし…いかがですか?」
千花はしばし熟考した。長い沈黙だったので、どうにも言葉を挟みたくなる衝動に駆られるが、これを適切に待つのも面談技術のうち。私は千花の持つ思考の波が一つの渦になるのをただひたすら待った。
二分ほどして、千花が顔を上げた。上目遣いがとても愛らしい――ではなく、不安を押しのけ、足を前に出そうとする者の顔だった。
「私なんかがって、変に思いませんか?」
「千花さんは素敵ですよ」
自分を卑下する言葉に、思わず反射でそう答えてしまってから後悔する。これは“支援者”としての言葉ではなく、“私個人”の言葉だったからだ。
急に褒められて驚いたのか、千花は目を丸くしてこちらを見つめていた。だから私も、何ということはない、という顔を演じるべく、優雅に微笑んでから千花に一歩近づいた。
髪の毛、柔らかそうだな、とか。
身長差はまあまああるから、キスするときは背伸びさせるな、とか。
俗っぽいことを考えた。およそこの場、このタイミングには似つかわしくない、低俗な欲に塗れたことを。
私はそれを上手に微笑みの下へと押しやった。こういうことが上手なのは、私の長所だ。
「きちんと自分で考え、どうするのが最善なのかを考えることができる人です。千花さんは」
「え、えぇ…?私、引きこもりですよ…あはは…」
「引きこもりであることと、千花さんの価値は直結しません。実際、千花さんは今日、自分の頭で考え、求人票を印刷して確認するといった行動に出られていますよね?」
「あ、まぁ、確かにそうですね…でも、やっぱり私、鬱じゃないですかぁ。働いたこともないですし…急に動けなくなったりするから…雇ってなんてもらえないんじゃ…」
「そこは障がい者雇用という手もあります。必要なときは配慮を受けながら働くことで、双方、無理のない労働関係が築けると思いますよ」
「はぁ…そんなことしてもらって、いいんですかね、私なんかに」
千花と話していると分かるが、彼女が深く鬱々とした気分に苛まれた際、『自分がいないほうがいいのでは』と考えるのも、ただの諦観からくるものではない。彼女なりに理屈を立て、本気でそのほうがいいと考えているのだ。それはとても、悲しいことだけれど……。
「もう少し、自分のことを客観的に評価する力が備われば、失われた自己肯定感、自己効力感も回復するでしょう。すぐには難しいでしょうから、私がそばにいて、貴方の本当の価値を客観的に伝えます」
千花は私の流れるような言葉をぼんやりと、夢見心地で聞いているふうだった。何か納得感がないのかもしれない、と想像していた矢先、さっと頬を朱で染めた彼女が、「綺羅星さんに、口説かれているみたいですね」なんて冗談を言った。
そのときの、波打つ私の心をどう表現したらよいだろうか?
冗談だというのは分かる。しかし、彼女のように可憐な人が頬を紅葉に染め、「口説かれているみたい」と微笑むのだ。
渦巻く感情は、すぐに一つの結論を自分の心に与えようとした。だが、モラルや世間体を気にする心が即座に蓋をしたため、日の目を見ることはなかった。
それから、私と千花は漠然とした就職計画を立てた。
どういう仕事に就きたいのか、条件面はどうするのかといったキャリアプランから、必要なスキルの確認、不足している部分はどう獲得していくのか…そして、無理のない計画の終着点はいつにするのか…。
「これなら、私にだってできるかもしれませんね」
そう言った千花の笑い方は、間違いなく出会った当初とは違うものに変わっていた。警戒心が薄れ、自然と笑っているような雰囲気があったのだ。
「そうです。そう思えることが大事なんですよ。千花さん。できなくてもいいですから、少し、一緒に取り組んでみましょうか?」
千花の心の雪溶けを感じながら、私も同じように笑う。そうしてから、私自身が彼女に対して抱いていた緊張感も消え去っていることに気がついた。
そうでなければ――触れたい、など…思うはずもない。




