エピローグ
「美術館?」
風呂上がり、ソファに座って一杯のコーヒーを嗜む私に、久が頓狂な声を上げて首を傾げる。
「そうよ」
「へー…好きだなぁ、その、千花ちゃん?も」
「よく名前を覚えました。花丸をあげるわ」
私と同じように二人掛けのソファに腰を下ろした久の肩を軽く叩けば、彼は苦笑しながら、「そりゃあ、これだけ頻繁に千花ちゃんの名前を聞いていたら、馬鹿でも覚えるさ」と答えた。
「正直、遅すぎるくらいだもの。で、行ってもいいかしら?」
「ああ、もちろん。でも、夕陽って美術館なんて大層なものに興味あったのか?」
「分かっていないわね」と私は芝居がかった様子で肩を竦めて、首を左右に振ってみせる。「千花の好きなモノだから行くのよ。私、甲斐甲斐しい女でしょう?」
「ははっ。そうだな、俺以外にはだけど」
互いに冗談を交わしつつ、くすくすと笑い合う。
なんということはない、夫婦の平和なひととき。
自分を理解しようとしてくれる良きパートナーがいて、美味しい一杯のコーヒーがあって、カーテンの隙間から差し込む月光がある。そこに雷鳴のようなロックがあれば最高だったが、音楽を流していると久がうるさがるから、そこは我慢する。こういうところぐらい、私が彼に合わせてあげるべきだろう。
「…それにしても、本当に千花ちゃんは夕陽になついてるな」
ほんの少しだけ、久の瞳に真剣さがこもる。
「若い子をたぶらかすのもほどほどに、だぞ?大企業のご令嬢を傷物になんかした日にゃ、どうなるか分からないからな」
口調は冗談交じりだったが、その声には隠しきれていない不安や疑いが感じられた。
少し前までは真っ白な紙だったものが、いつの間にか、黒い斑点模様で汚れてしまっている。
それでも、決して深入りしようとしない久に心の底で感謝を示しつつ、私はあくまで飄々と応じることで煙に巻くことを選んだ。
「あんな可愛い子が私に夢中になってくれれば夢のようだけれど、そうもいかないでしょうね。――歳の離れたお姉ちゃん、ぐらいに思っているのよ、きっと」
すでに傷物にしている、なんてことを今口にしたら、久はどんな反応をするのだろう?
裏切りに憤る?それとも、悲しむ?聞いていないフリをする?
傷つくのだろうか?久も。きっと、心のどこかでは私のことを凧のように考えているだろう、久でも?
…考えても、詮無いことだ。人の心は読めない。分かった気にはなれるだろうが…。
なんとも感情の見えない顔をしている久を横目にしていると、不意に、携帯が短く鳴った。メッセージを受信したときの音だ。
私は黙って携帯の画面を確認した。送信主は千花だった。
『今夜も電話していいですか?』
私は愛おしさが表に出ないよう無表情のまま携帯を操作する。
「千花ちゃんか?」
「ええ。そう。電話してもいいですかって」
「ふぅむ…可愛いお誘いだな」
「でしょう?久が言われたりしたら、イチコロね」
「イチコロって、いまどき使うのか?そんな言葉」
呆れたふうに笑う久を残し、私はソファから立ち上がった。久も私が寝室で電話することを察したらしく、テレビやパソコンを置いている部屋に移動しようとしていた。
「夕陽」
互いに別々のドアの取手に手をかけていたなか、久が私の名前を呼んだ。
「なぁに?」
肩だけで振り返り、久に声に応じる。そうすれば、ちょっとだけ心配そうな久の顔が視界に映った。
「…あんまりどっぷり浸かるなよ?」
あの久が珍しく案じるような表情をするものだから、私は思わず吹き出してこう言った。
「もう、心配しすぎよ。ドラマじゃないのだから、変なことは起こらないわよ」
閉まっていく扉の隙間を見つめながら、私は考えた。
彼は何を心配しているのか。
浮気か、それとも、私が千花に想いを寄せ過ぎて苦しむようなことをか。
だとしたら、どちらにせよもう遅い。
浮気はしてしまっているし、すでに集めた想いは鉄塊のように重くなっている。
深海――m。
すでに測る術はない。水面に浮かび上がる術も。
それでもいい。
私は久のことも好きだが、千花のことも好きだ。
恋愛感情、という意味では久以上に、千花のほうが好きになっているだろう。
浮気。
クズのやる低俗な行為としてやり玉に挙げられるもの。
「ふっ…」
私はそっと携帯を耳に当てる。
千花の愛らしい声が鼓膜を揺さぶる寸前、私の唇は勝手に動いた。
「――クズで結構よ」
クズの所業。
だけど、この想いは、嘘偽りなんかじゃない。
一過性の俗欲がもたらしたものでもない。
何度も考えたことだ。これは浮気なんかじゃなく、恋をしているのだ、と。
だから、私は千花と永遠を探す。
たとえ…誰からの理解も得られずとも…。
いつか、深海で見放された私が、水面に浮上することもできずに息絶えるとしても。
それで構わない。むしろ、それならもっと深い、深い、海底を目指そう。
そこに決して滅びることのない永劫があると信じて。
この物語はこれにて終了です!
さて、モラル、という意味では「浮気」は一般的に非難されるべきものでしょう。
フィクションであれば楽しめる…というだけで。
ですが、「モラル」そのものもいい加減なものですよね。
例えば電車内で、困っているお年寄りや障害のある方、妊婦さんなんかに席を譲らずいられる人々。
これもモラルが足りないのでしょうか?で、あれば、山ほどいると私は思います。
浮気はしても、誰かが困っているときには必ず助けるという人。
浮気はしなくても、誰かが困っているときに見て見ぬフリをする人。
潔白なモラルの矛先が貫くのはどちらなのでしょうか。
おそらく答えなどないのでしょうが、私は気になってしまいますね。
駄文にお付き合い頂き、ありがとうございます。
願わくば、また違う物語で。
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