永劫の断片.2
熱いお湯を溜めた湯船に身を浸し、私は、悲しみとも、喜びともつかない感情の波間に揺れていた。
部品が緩みでもしているのか、視界の隅に映る蛇口からは、ぴちょん、ぴちょんと規則的に水滴が落ちている。
リピートされるような毎日を思わせる水の落下と誕生は、仕事と家を行き来する一昔前の私によく似ており、口元には自然と自虐的な微笑みが浮かんだ。
私はもっと、自分が強い人間だと信じていた。少なくとも、理屈が通っていないと自分で理解できている感情に振り回され、他人を傷つけたりすることはないと、そう信じていた。
だが、結局、私はここにいる。矛盾した感情に苛まれ、もうやめると決めながらも、ここに。
そっと胸に手を当てれば、ドクン、ドクン、といつもより早い鼓動が感じられる。
緊張していた。まるで生娘のように。
「…はぁ…」
長い吐息を漏らし、湯船から上がる。
シャンプーや石鹸を使って体や髪を洗うわけにはいかない。そんなことをすれば、香る匂いで家に帰った後に久から疑われかねない。わざわざ彼に疑念を抱かせたり、傷つく可能性が生まれたりするようなことはしない。これは、初めに千花とも約束したことだった。
脱衣所に移動すれば、死角になっている向こう側からテレビの音が聞こえてきた。千花がよく見ているらしい料理動画である。
体をさっと吹き、下着を着てからバスローブに着替える。なかなかに頼りない装備だが、まぁ、どうせ脱ぐのだ。
あの後、喫茶店を出た私たちは行く先を互いに口もしなかったくせに、互いに同じ場所を頭に描いてホテルを訪れていた。
初めてこういう場所に来る千花は最初こそ緊張しているようだったが、人目を気にしなくていい状況になるとすぐに落ち着きを取り戻した。
「千花。お風呂、いいわよ」
脱衣所から身を覗かせて千花にそう伝えたところ、私の普段とは違う装いを目にした彼女は少しだけ頬を染めた。そして、照れ臭そうに笑うと、「あ、はい」と立ち上がった。
私は彼女が恥ずかしいだろうと思い、衣服を脱いでいるところが絶対に見えない位置――まぁ、ダブルベッドの上だ――に移動した。
「あの、夕陽さん」
服を脱いでいるだろう千花が私に声をかける。姿を見せないあたり、裸なのかもしれない。
「こういうのって、どこまで洗うんですか?」
「どこまで?」
なんだ、その質問。
私の声に心の内が滲んでいたのだろう。千花はすぐに慌てた様子で言葉を足した。
「は、初めてで、その、普通はどうするのか分からないんです。髪も洗うのかな、とか。その」
「ああ、なるほどね」
私は化粧や手入れの都合上、濡らしたくない箇所は濡らさなくていいことを伝えた。別に正解なんてないのだろうが、千花はこういうのにも正解が欲しいタイプなのである。
それからしばらく、水音に耳を澄まし、衣擦れの音に胸を高鳴らせる時間が生まれた。流れる動画を見ているフリをしているくせに、それらがもう停止していることにも気がついていない私は、はたから見れば滑稽だったことだろう。
15分ほどで、千花は私と同じバスローブ姿で戻ってきた。
「外、雨降ってますね」
なんということはない世間話。それが彼女なりの気恥ずかしさを誤魔化すための言葉であることは、泳いだ視線や、意味もなく遠くのソファに腰かけたことからも明白だった。
私はというと、たっぷり15分これからのことを妄想する時間が与えられてしまったせいで、もう大人しくはしていられない心境であった。
「千花」
小一時間前の弱々しい声に比べたら、別人かと思われるだろう凛とした声が喉からこぼれる。
顔を上げ、こちらをじっと見つめる千花に私は両手を広げる。
「こちらにおいで」
「…は、はい」
いよいよということもあって多少は緊張しているだろうが、もうほとんど腹を決めているのだろう。千花は逃げたり、迷ったりする素振りもなく、私の導きに従ってベッドへとやって来た。
マットに膝を着いたことで露わになる艶めかしい太もも。
新雪のような肌の上には、青紫の血管が幾筋にもわたって浮かび上がっている。
グロテスクとエロティックの調和を前にした私は、一も二もなく千花を抱き寄せると、そのまま後ろに倒れ込んだ。
「あっ」
彼女を上にして沈み込むベッドは最高だった。
程よい重みも、温みも、私の多幸感を質量や温度をもって表してくれているようで、得も言われぬ気持ちになる。
ほんのわずかに千花の上体を抱き起こし、下から彼女の顔を見つめる。
さらさらの黒髪ショートが揺れる。その隙間から覗く瞳がキラキラしているのを目の当たりにしてしまえば、もう、この部屋まで引き連れてきていたはずの黒い感情はどこにも見当たらなくなっていた。
「可愛いわ、千花」
「えへへ…ありがとう、ございます」
「本当に……愛らしい。仕草も、顔立ちも、声も…そうではないものを探すことのほうが、困難を伴うほどに」
「えー、褒めすぎですよぉ」
「そんなことないわ」
一本、一本が意志を持っているみたいに揺れる前髪を指ですきながら、私は言う。
「キス、してもいいかしら」
「もちろんです。して下さい」
頷き微笑む彼女の唇を下から奪う。その際、千花のざらりとした舌が私の舌に絡みついてきた。
(千花…!)
今まで、彼女のほうからはしてこなかったアプローチ。それがまた私の心を深く彼女のいる深海へと引きずり込んだ。
どちらがどちらの口内で舌を絡めているかも分からない、蜜月の時間。一体どれだけそんな幸せな時が流れただろう。
息も絶え絶えになって互いを見つめ合っているときには、もう時間の感覚なんてものはこの世の果てに消えてしまっていた。
「千花」
「はぁい」
ぼうっとしたような返事が、またとても可愛らしい。
「ベロ、出して」
「べろ、ですかぁ?」
「そうよ。早く、我慢できないわ」
「ふぁい」
こちらの指示に素直に従った千花は、赤い舌を無防備に晒した。
千花の従順さに頭がくらくらした私は、そのまま酸素を求めるようにその舌にむしゃぶりつく。吸ったり、舐めたりとしている間に、千花の体はぐったりと私のほうにもたれかかってきた。
少し夢中になりすぎたか、と反省しつつ華奢な背中をさする。
「ごめんなさい。千花が可愛くて、つい夢中になってしまったわ。――大丈夫?」
「は、はい。大丈夫、です」
ごろりと彼女の体をベッドに横たえ、今度は私が上から千花に覆いかぶさる。もちろん、体重なんかはかけず、両手両足で自分を支えた。
「ボタン、外してもいいかしら」
「…先に、電気を消して下さい」
「…消さなくてはダメ?」
「恥ずかしいので…」
しょうがないので、枕元のパネルで照明を操作する。あっという間に部屋は暗闇に飲まれ、私たちは輪郭だけの存在となってしまった。
「これなら大丈夫かしら?」
「はい」
「脱がすわよ」
「…はい」
彼女の承諾を得て、一つ、一つボタンを外す。そうすれば、レースがあしらわれた、実に千花によく似合う下着が顔を出す。
「とっても可愛い下着ね。貴方にぴったり」
「ありがとう、ございます。…ちゃんと、新しいやつなんですよ?」
「…今日のために?」
「うん」
「そう…」
たまらなくなって、私はまた深く千花と舌を絡めた。先ほどまでの元気さはないが、彼女もしっかりと応えてくれた。
時間の感覚が溶け出したこの部屋に、私と彼女の息遣いと、淫らなリップ音だけが響く。
一秒、一分、一時間…そんな単位は、この世界では用を成さない。刹那と永劫の違いすらも、きっと同じだろう。
私はぼうっとした頭のままで、千花の体に触れた。
壊れ物を扱うように――なんて言葉があるが、まさにその通りだ。しかしながら、その反面で一思いに壊してしまいたいような気持ちもあった。
壊してしまえば、彼女を永劫、この手に入れることができる。
たった一人、彼女を壊した人間として…。
(馬鹿ね…私…彼女が幸せじゃないと、意味はないのに)
千花の声が、呻くようなものから金糸雀のさえずりのようなものに変わってしばらくしてから、私はやおら彼女を抱きしめ、今にも零れ落ちそうな言葉を耳元で放った。
「どうにかして、貴方が自分のモノにならないか…そればかり考えているのよ」
「…夕陽、さん」
「馬鹿よね。何が自分のモノよ。まずは私自身がそうならないくせに…。私にそんな願いを持つ権利なんてないのよね」
千花は何も答えず、ただゆっくりと、繊細な手つきで私の頭を撫でてくれる。
「…それでも、それでも欲しいのよ……未来永劫、貴方の一番になれる居場所が…」
熱くなる目頭を、ぎゅっと目蓋を閉じることで抑える。
ここで泣くのは本当に卑怯だ。まるで、私が私自身を被害者だと考えているみたいではないか。
断じて、私は被害者などではない。味わった苦しみは本物だが、すべては私が招いたこと。本当の被害者は、私のような人間の毒牙にかかってしまった千花であり、私のような人間を生涯のパートナーに選んだ久なのである。
私は、悪人だろうか?
…どうだろう。それは分からない。なぜなら、善悪に絶対的基準はないからである。
ただ、モラルを正義の剣と仮定するのであれば、私はクズで、罪人なのだろう。
そんな考え事をしているとき、千花が私の体を抱きしめた。
「今は、夕陽さんが一番特別ですよ」
「そんなもの、何の慰めにもならないわ。嘘でもいいから、一生私が特別だと言ってほしいのよ」
「…それで、夕陽さんが幸せになれますか?」
なれるだろうか?幸せに?嘘偽りが保証された言葉によって、私が?
私の胸に、すぐさま色濃い虚無が訪れる。そんなことをしても詮無いと、誰よりも私が分かっていたのである。
「いいえ…偽りで得られた一過性の安寧に身を委ねたくはないわ」
「ふふ」千花が、少しだけ悲しそうに笑う。「夕陽さんらしい解答だと思います。なんだかんだ、自分が納得できないと融通が利きませんもんね」
「はは…よく分かっているわね。さすがよ」
私は自虐的な微笑みを浮かべてから、深く息を吐き出し、千花と目が合うよう身をわずかに起こした。
至近距離で見つめる銀河の瞬きに、私は魅入られるしかない。
私は忠誠心のある騎士が女王にすべてを委ねるような心地で、口を開く。
「私は、貴方との間に永劫が欲しい。決して滅びることのない、永遠が」
ありもしない空想、妄想だ。それでも、私はそれが欲しかった。乾いた砂漠で求められる、一滴の水粒のように。
「永遠を空っぽだなんて言っていた私が、それを血眼で欲しているのよ。笑えるでしょう?」
「笑いません」千花が真っすぐ私を見つめたまま言う。「それは、どうやったら手に入りますか?」
ふざけて尋ねているわけではないことは、目を見れば分かった。
「分からないわ」
その答えは誰にも分からないだろう。虹の根元を追うような話だからだ。
でも、きっと多くの人が探している。手にした幸せを永遠のものにしたくて。
私は、そっと千花の片目に口づけを落とした。
「だから、一緒に考えて。一緒に探して頂戴」
その祈りの意味するところを察したのだろうか。それとも、祈りを果たすために必要な工程から逆算したのか、千花が少し嬉しそうな顔で笑った。
「じゃあ、これからも一緒にいてくれるってことですよね?」
「そう、なるわね」
結局考えを変えたことをバツが悪く思い、目線を逸らすも、千花が安堵の声を発したことでその居心地の悪さは消える。
「よかったぁ…!」
不安だったのだろう。息苦しかったのだろう。千花の瞳にはうっすらと涙さえも浮かんでいた。
私は一瞬謝罪しかけたが、それは私を楽にするだけだと考えやめた。
千花の体を抱きしめると、余すところなく彼女に触れ始める。
漏れ出す吐息が、声が、身じろぎする体が、跳ね上がる白い肌が。
私に時間の感覚を忘れさせる。
その優しい忘却が、時間から意味を奪い去ったとき、確かに、私は感じたような気がしたのだ。
決して滅びることのない、永劫を。




