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永劫よ、滅びることなかれ  作者: null
三章 水深8m
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水深8m.4

 覚悟が固まったのは、さらに二週間後のことだった。


 悲しいかな、久のおかげで持ち直しつつあった心を再び揺らしたのは、誰あろう千花本人であった。


 千花は、私が帰った後に小川と過ごした時間のことを何の遠慮もなく語った。


 どこに行って、どんな話をしたのか。相手の様子がどうだったのか。


 知りたくないのに、知らずにはいられない話ばかりだった。彼女が他の人間と過ごす全てを知ることなどできないし、聞いても、苦しい思いをするだけのくせに…私は、質問することをやめられなかった。


 決定打になったのは、月末にまた彼と予定を組んだ話を聴かされたことだった。これもまた、私が深掘りして知ってしまったことだ。皮肉なまでに墓穴を掘っただけなのである。


 その予定のことを知った晩、私は久が長風呂に入っている間に千花へ電話をかけた。


「あ、もしもし?」


 数コールしてから、千花が電話に出る。のほほんとした、これから何の話が始まるか、まるで想像もしていないような声だった。


「…ごめんなさいね、寝る前に。少し、大事な話があって」


 私は無駄話を嫌い、即座に本題に入った。彼女と趣味の話なんてしたら、覚悟が揺らいでしまいそうで怖かったのである。


「え、はい。大丈夫ですよ。どうしました?」


「実は――この関係、もう終わらせたほうがいいと思っているの」


「え?」


 淡々と告げた言葉は、どこかドラマの台詞じみていて、自分自身では滑稽に思えたのだが、それを言われた当人である千花は酷く驚いた声を発していた。


「え、あの、この関係って、私と、夕陽さんの、特別な関係のこと、ですか?」


「ええ、そうよ」


「え……」


 長い沈黙が横たわった。なるほど、千花も一応、ショックではあるらしい。


 そこに一縷の救いを感じながらも、その虚しい喜びに溺れることなく私はどうしてそんなことを言いだしたのか説明を始める。


「情けのない話で申し訳ないのだけれど、ここ最近、貴方と小川君の話を聞いていると、気持ちが乱れてしょうがないのよ。だから、もう、終わりにしようと思っているわ」


 色々と端折り過ぎている自覚はあったが、聞かれない以上は話したくもないと考えていた。しかし、こちらの言葉を聞いてなお、千花が消え入りそうな声で、「うん…」としか返してこないことに苛立ちを覚えた私の口が勝手に言葉を続けた。


「貴方たちが仲睦まじくしている話を聞くと、いつか来る先の未来に、こうして私がいらなくなっていくということを思い知らされるような気がして苦しいのよ。もちろん、貴方のことは好きよ。流れる時間が美しく感じられるもの。――でも、それ以上に苦しさが目立つのよ。私、生まれて初めて不安で胸が痛くなったり、眠れなくなったりしたのよ?ふふ、馬鹿みたいでしょう?まるで初めて恋をした少女のようだわ」


 私のちゃんとした初恋は、すでに十年も前に終わっている。永遠を誓い合うような青く、生き生きとした恋だった。だが、私と彼女の間に期待された永劫などなく、彼女からの一言で呆気なく滅びた。全く、初恋は実らないというのは誰が言ったのか…。


 思えば、千花はその相手に似ていた。ただし、中身がではない。見た目だけだ。


 でも、瞳だけが違った。彼女の瞳は、千花のように黒々としていて、知性で満ち溢れていたわけではない。


 今、千花の瞳が覗き込めないことが酷く残念だった。あの黒曜石の中には永遠が渦巻いているような気がしたのだ。


「…うん…」


 聞いているのかいないのか分からない、ぼーっとした千花の相槌。私はそれを耳にすると、彼女に聞こえないように携帯を離してため息を吐くと、相手の反応を待った。


 しばし、生きた心地のしない静寂が流れる。それはどこか、流れる川の水面に落ちた花びらを見送るような静けさであった。


 私には、これから起こることの予測がついていた。


 千花は基本的に私の言うことに反論することはない。彼女は“大事な人”の幸福を優先するから、その人が決めたことであれば口を挟まない。


 利口であり、優しくもあり、そして、無慈悲でもある。決して引き留めたりはしない。


 少なくとも、そう思っていた。その瞬間までは。


「……今度、私の好きな漫画の原画展…一緒に行ってくれるって…言ってたと思うんですけど…」


 おや、と私は思った。それはまるで引き留めているような言葉に聞こえたからである。


 それでも黙っていると、千花がまた口を開く。


「離れるって、友だちでもいられないんですか?」


「…ええ、そうよ。もう友だちには戻れない」


「…急すぎ、です…」


「急ではない別れなんてないわ」


 思わず反論すると、千花は少し鼻の詰まったような声を出した。


「離れるとしても、もっとゆっくり、に、してほしかったです」


 途切れ途切れに紡がれる言葉に、私は彼女が泣いているのかと思ったが、どうやらそうではなさそうだった。断続的な思考が言葉を鈍らせているのだろう。


 何はともあれ、私は千花の要望を耳にして少しばかり憤りを覚えたため、眉間に皺を寄せてこう言った。


「ゆっくり?ゆっくり離れていけば、それだけ私の苦しみが長くなるじゃない。貴方が他の人と徐々に仲良くなっていく様をそばで見守るの?そうして、いつか自分が不要になる日を待てと、千花はそう言うのね?」


「うぅ…」


 残酷なことを言っているのは百も承知なのだろう。千花は呻くような声を発した。それがまた私の言葉を勢いづかせる。


「そんなの冗談じゃないわ。苦しみを長引かせる、ただ死を待つだけの情けのない存在になるなんて、甘んじてたまるものですか。千花、貴方自分がどれだけ冷酷なことを言っているのか、分かっているの?」


 怒気をはらんだ言葉をぶつけるなんて、今までの私と千花の間にはなかったことだ。これで千花が傷つき、私を疎ましく思うのであれば…私と千花が特別な関係になったことなど、本当に余計なことだったとしか言えないだろう。


 たった一か月、されど一か月だ。


 私が千花と恋人として過ごした時間は濃密で、幸福だった。しかしそれは、海底への滑落にも似ていて、“いつか訪れる未来”に怯える私にとっては眠れないほどの恐ろしさも内包していたのだ。


 だからきっと、苦しくても、嫌でも、千花に承諾してもらうほうがいいに決まっていた。


 私はそれを願いつつも、同時に恐れていた。この矛盾が、ジレンマが、私を苦しめ続けると知っていても、千花が、私が軽傷で済むよう引いたラインを飛び越えてくることを。


 鬱の症状を慢性的に引きずる彼女に、そんな勇気や行動力はない。彼女の心に、そんな気力の源泉はありはしない。


 そう、思っていた…。でも、なんとなく、これから彼女が口にすることを、私は確かに恐れていたのである。


「ワガママで、ごめんなさい。でも――やっぱり、私、まだ、夕陽さんと一緒にいたいです」


 率直な感情表現。千花がこんなに自分の気持ちを表すのは珍しいことだったから、私は勢いを失って口を閉ざしたのだが、その間にも千花は私を深く底へと引きずり込もうとする。


「夕陽さんと、楽しいことをもっと、たくさんしたいです」


「…小川君とできるじゃない」


「小川さんは友だち候補で、夕陽さんは大事な人です。夕陽さんとしかできないこと、いっぱいあるんです」


「私としかできないことなんて…あるわけもないわ」


「ありますよぉ…」


「……私は、決めたのよ。自分で。熟考した上で」


 どれだけ彼女が勇気を示しても、跳ね除ける。


 そうすれば、彼女の心を折れるはずだった。


 しかし…。


「原画展、行きましょう?」


 角度を変えて、千花はねじ込んでくる。


「…行ったら、離れがたくなるわ」


 段々と、風向きが変わる。


 千花のほうから、強い風が吹き始めていた。


「じゃあ、離れられなくなりましょうよ…」


 いつから、彼女はこんなに力強く自分の意志を主張するようになっていたのか。


「う…」


 私にねだり、甘えるような声。


 こんな声、千花が出すことはなかったのに。


 私はそのときになってようやく、彼女がこんなにも強く――いや、本来の在るべき姿を取り戻すことができたのは、ひとえに、私と彼女が出会ってから流れ出した、圧縮された時間の中にある数々の輝きのおかげだと気付いた。


「千花、私も冗談で言っているわけじゃ…」


 千花は私の言葉を甘ったるい声で遮り、この孤独に怯える心をとんでもない方法で絡めとった。


「…――ホテル、行きたくないですか?」


「…っ」


 さながら、船を沈めるセイレーンの歌声のよう。


 あどけないようでいて、艶めかしく甘美で、“彼女となら底までだって落ちても構わない”…そんなふうに思わせる、危険な声。


「そ、それは卑怯よ、千花。どこでそういうのを学んだのかしら…!」


 自分が揺さぶられないよう強気な声を出してみるも、声が裏返ってしまっていた。動揺を悟ったのか、少しだけ千花は嬉しそうな声に変わった。


「今、です。どんなふうにしたら、夕陽さんが留まってくれるのかなぁ、って考えてます」


 なるほど、この瞬間に検証し、学習しているわけだ。こういう状況でなければ褒めてあげたい効率の良さだ。


「わ、私は、変えないわよ。自分の選択をコロコロ変えるような情けのない生き方、したくないもの」


「えぇー…?」


 繰り返される甘ったるい声。ずっと聞いていたいが、頭がくらくらしそうだ。


 千花はしばらく私に対し粘りの姿勢を見せた。しかし、私がどこまでいっても頑なに前言を撤回しないことを悟ると、別の作戦に出てきた。


「じゃあ…夕陽さん。せめて、今度のデートまで一緒にいて下さい」


「…でも…」


「だって、これじゃあ私、心の準備ができてなくて、どうなるか分からないですもん」


「……」


 私はしばし沈黙した後、深々とため息を吐いた。それがほとんど白旗と同じ信号であったことは、言うまでもない。




 水深8m。


 今、私はどの深さにいる?


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