水深8m.3
結論から言って、私は己の行動を深く後悔した。
小川も千花も、おそらくは他人との交流というものが好きな人種なのだろう。二人は私が改めて紹介するや否や、楽しそうに世間話を始めた。
その中で小川が口にする、やれ緊張しているという言葉とか、苦笑とも照れ笑いとも覚束ない笑顔とか、見ているだけで胸がムカムカした。
千花も千花である。彼女は今まで私にしか見せていなかった華やかで可憐な笑顔を小川に惜しみなく見せていた。その輝きを取り戻すことができたのは、私のおかげでもあったくせに…。
私は無言で二人のやり取りを見守った――いや、監視していた。話を振られれば愛想のない相槌を返す様は、まぁ、控えめに言ってもお邪魔虫だったことだろう。
だが、神が私に与えた真の試練はここからだった。
「この後、どうします?改めての自己紹介だけってのもなんですし、晩御飯でも行きますか?」
なんと、小川がそんな軽口を叩いたのである。それだけならよかったが、千花のほうもノータイムで頷き、「いいですね」なんて返事をしたのである。
瞬く間に、千花と小川がファミレスで食事をする予定が組み立てられていく。
それを、ただ指を咥えて見ているしかできなかった私の苦悩が、一体、誰に理解できるだろう?そしてその苦悩を、誰に叩きつけることができただろう?既婚者の分際で若い子と浮気をし、あまつさえ、浅ましく惨めな嫉妬心を覚えている、小汚い心の私に…。
二人が親しげに言葉を交わす度、ズタボロに引き裂かれていく私の魂。
燃え盛る嫉妬と理屈との間で軋む心。
あぁ、不安や悲しみで、本当に胸が痛むことがあるなんて…。私はこの歳にもなってようやく知ったのである。
「それで、いいですかね?」
バラバラに分離しそうな心を留めておくことで必死になっている私に向けて、小川が呑気な声でそんなことを尋ねた。
正直、罵ってやりたい気分だった。言の刃で叩き斬って、血でも流して呆気なくくたばれと思った。
しかし……彼には何の落ち度もないのだ。彼は望まれた役割を全うしている。
ジレンマに苛まれた私は、小綺麗な仮面で自分を繕う余裕もないまま、小川に鋭い視線をくれてやった。
「勝手になさい。私には関係ないわ」
こちらの苛立ちが伝わったのかどうかは定かではないが、二人は特段私を気にすることはなく、話の切れ間で立ち上がり、トイレに行ってくるだとか、会計を済ませるだとか話している。そう、“私なんてどこにもいない”みたいに。
私は急激に悲しみが胸に押し寄せるのを感じ、息を詰まらせた。こんなことで泣きそうになるなんて初めてだったから、随分と困惑した。だが、私はどうにか涙を押し返すと二人と同じように立ち上がり、千花がトイレに立っているうちにその場を後にしようとした。
「あ、綺羅星さん」
離れ行く私の背に小川が声をかける。その響きに憎悪に近いものをたぎらせる日がくるとは思ってもいなかった。
「何かしら」
「いえ、あの…」
こちらの顔色を窺うような、煮え切れない態度。心底虫唾が走った。どうしてこんな男を友人候補に指定してきたのか、つくづく、千花のことが理解し難いと感じた。
「はぁ」
私は盛大なため息を吐くと、射殺すような視線を小川に向けた。
「千花は私にとっても大事な人よ。何かあったら、絶対に許しはしないわ。肝に銘じておきなさい」
それだけ言い残すと、私は相手の言葉を待たず反転し、店を立ち去った。
その間、ずっと考えていた。
私はこうしていらなくなる。
私が埋めていた穴を、もっと適切な、今は吐き気すら催すモラルとかいうものが認める誰かが埋める。
明日、明後日の話ではないかもしれない。
だが、いつか、必ずその“いつか”は訪れる。永遠なんてないのだ。
そのとき…私はどうなる?
平気でいられるはずが、ないのではないだろうか?
水深8m。
急な浮上を行なった際、ダイビングによって蓄積された窒素の影響を受けて減圧症を起こすであろう、おおよその水深である。
今、私のいる位置は水深何mぐらいなのだろう。なんとなくだが、今なら戻れる深さの気がした。
これがもっと、もっと深くまで潜るとダメだ。彼女のいない浅瀬へと戻ったとき、呼吸すらままならなくなる確信があった。
全身が麻痺し、呼吸困難になる。
生きていくのが、難しくなる。
私は独り暗い部屋にこもり、布団にくるまれたままで小一時間ほど、ずっとそんなことを考えていた。
私もまた、精神病質的性格なのだ。
(いつか、私は必要なくなる…)
普段は聞かない、湿っぽいバラードを傍らに置いた携帯で流す。
自身の存在意義や死生観を問い続ける歌詞は、今の私が抱いている暗闇の重く深いところで共鳴してくれている。
(せっかく千花の特別になれたのに……千花は、いつか、私以外の誰かと共に私の前を去っていく。でも、それが正しいことなんだわ。だって、私は彼女に肝心のものは何もあげられない立場だもの……私には久がいて、彼女にも、そうした特別な枠を得る権利は当然ある。少なくとも、私にそれをとやかく言う資格はない。当たり前よ)
合理的な考えを支える脳の部分が、私にそう囁きかける一方、感情を司る脳の一部分が喚き散らすように別のことを考えさせる。
(…でも、千花がこんなふうに社会参加できるようになったり、他人との交流に希望を見出せるようになったりしたのは、誰でもない私のおかげのはずよ。それなのに、私がいらなくなるなんて…小川君だって、何度私が彼のミスを内緒でフォローしたことか…恩知らずめ…!)
千花の今の状況は、彼女自身の努力のおかげだなんだと言い切っておきながら、自分の勝手な感情を正当化したいときは前言を撤回する。小川についてだって、彼に落ち度がないと分かっているのに恨んでしまっているのだ。
傲慢で承認欲求が強く、粘着質で独占欲が強い。それが私の真の姿だ。
「はぁ…」
あまりにも情けがない自覚はあったが、それを止められない状態でもあった。
「夕陽?」
不意にガチャリと扉が開き、こぼれる光の中から久が顔を覗かせた。
「大丈夫か?なんかあったか?」
「いえ…ちょっと…」
私が落ち込んでいると、久はよくこうして声をかけてくれる。こちらが必要としていれば話を聴いてくれるし、そうでない場合も、黙ってそばにいてくれたり、気分転換に付き合ってくれたりもする。
実際今回も、久は私が詳細を話すつもりがないことを察するや否や、迷惑じゃないかどうか確認したうえで私のそばに腰を下ろした。
「今夜、何か食べたいものはあるか?作るぞ」
「ええ…ありがとう」
久はすぐに私の好物料理を複数個提案してくれた。どれも魅力的だったが、あまり食欲がなかったので軽めの蕎麦をお願いした。彼の作る料理はいつも絶品で、私などより腕が立ち、また、グルメだった。
20分ほど、私は久と時間を共にした。どれも今自分が抱いている悩みとは無関係な話題だったが、だからこそ、少しずつ気持ちが落ち着いていった。
「ありがとう」と私は久に声をかけた。彼は肩を竦めると、「いいよ、お礼なんて。逆の立場なら同じようにするだろ」と照れもせずに言い放つ。
久は――本当に出来た人間だ。人格者といっても差し支えないだろう。
私は久の背に額を当てながら、大きく吐息を漏らす。
「…ふぅ…貴方は私なんかには本当にもったいない人ね」
「そうだろう、そうだろう」
今度は彼も、恥ずかしさを誤魔化すみたいに笑った。
私はそのまま目を閉じ、久には決して伝えることのできない気持ちを心の中で言葉にしていく。
久、貴方は本当に私なんかにはもったいない人よ。
貴方という出来たパートナーに恵まれながら、他の人に恋心を燃やす。そして、その炎に焦がされて、想い人やその相手を恨み、妬む。あまつさえ、その自業自得の苦しみに耐えかねて貴方に頼っている、私なんかには。
(――なにより、私の胸にはこんなにしてもらっていても、罪悪感が宿らない)
事実、私の心は、どれだけ久に内緒で千花との逢瀬を重ねようと、良心の呵責に苛まれることはなかった。
それはきっと、私自身、彼を心から愛している自覚があったからだろう。ただ、彼とは別の想いを――恋心を抱く人間ができた。それだけに過ぎないのだ。
つまり、裏切っているという感覚が欠如している。これに尽きる。
(クズ人間ね……私…でもそれは、ずっと前から分かっていたことよ)
ゆっくりと、心の中で上を見上げる。
(問題は、そこじゃないわ。私がどうしたいか…ふふっ、苦しいのも選ばれないのも嫌いだものね)
まだ、水面は遠くない。
8m。
その深さまで落ちきる前に――私は、浮上しなければいけないのかもしれない。




